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第八話

 激しい頭痛で目が覚めた。

 体を起こすこともできず、腕だけを動かして周囲を探る。

「……」

 指先がペットボトルに当たったが、空だった。

「……水……」

 胃が痛いし、胸焼けもひどい。

 なにより、全身から漂う酒の臭いに耐えられなかった。

 生まれたての子猫が乳を探してもがくような動きで浴室に向かい、あちらこちらに体をぶつけながらなんとかシャワーを浴びた。

「……臭いの……ちょっとは、落ちた……かな……」

 雑に体を拭くと、バスタオルを首に引っかけたまま壁伝いに歩いて椅子を探した。

 痛む頭を片手で押さえてドンと腰を落とすと深い溜め息が出た。

「ほら、水」

「ん。ありがと」

 差し出されたのはメガネとミネラルウォーター、頭痛薬だった。

 あまりに自然な流れだったので受け入れてしまったが、ハッとした。有り得ないことだ。ガバリと顔を上げた次の瞬間、顔面が蒼白になった。

「りゅ、……りゅ、りゅりゅ……!」

「おはよう。大丈夫か?」

 目の前に拓野が居た。

 口はアウアウと変な音を出しながら震えるし、顔が赤くなっていくのが分かる。火を噴きそうなくらい全身が熱くなったところで、やっと言葉らしい言葉が出た。

「……み、見た?」

「あぁ」

 返事を聞くのと同時、両手で顔を覆った。直後に揺れた髪からポタポタと雫が落ちた。そこで、全裸だったことに気付く。

「ひゃぁぁぁぁっ!」

 自分でも驚くような悲鳴を上げてしまった。

 もう、最悪としか言いようがない。慌ててバスタオルで体を隠し、着る物を探して首を振ったが何も見えない。メガネ! と口走ったところで、さっき右手で受け取ったことを思い出して装着した。

「あ、あの! ご、ごめん! ちょ、ちょっと……」

 待って、と言いながら、もつれる足でキャリーバッグに駆け寄った。中を引っ掻き回してTシャツを見付けたが、慌てているものだから袖口が見付からない。

「え、あ、あぁぁぁ!」

 強引に頭を突っ込んだ後、尻を出したまま部屋中を右往左往して下着を探した。トイレの前に落ちていた一枚をひったくるように取って足を通すと、ベッドと壁の間に挟まっていた綿パンを引き摺り出す。

「あ、え、あの、えぇと……」

 言いたいこと、聞きたいことがたくさんあるのに言葉にならない。

 客である拓野を立たせたままだったことにハッとして、部屋に一脚だけある椅子の背もたれからスーツを掻き取り、そっと勧めた。

「ご、ごめん。え、と……あ、あの……ど、どうぞ……」

 二日酔いなんて言っていられなかった。

 恥ずかしすぎて顔を上げられない。しかも、部屋を訪れたのがよりによって拓野だ。


 穴があったら入りたい――。


 あまりの狼狽振りに気圧されたのか、拓野も言葉を失っていて頷くばかりだった。

「悪い。その、俺……、キーを持って帰っちまって」

 決まりが悪そうな表情で、拓野がカードキーを差し出した。

「え?」

「もしかして覚えてないのか? 昨日のこと」

「……昨日……え、と……」

 カードキーを受け取りながら、ガンガンと殴られ続けているような頭をフル回転させて記憶を辿る。

「昨日は……僕、飲み会に行って……」

「総務課の飲み会から俺と一緒に帰ってきて、俺、そのままキーを持ち帰ったんだ」

「そ、そうだったんだ。あ……、ありがとう……」

 昨夜の記憶はほとんどないが、言われてみれば拓野と一緒だったように思う。

 つまり、昨夜、この惨状を見たにも関わらず、拓野は今朝、部屋を尋ねてきてくれたというのか。

(もしかして……、心配してくれた?)

 窺うように視線を上げると、困惑しているが照れているようにも見える拓野と視線が合った。ドキッと胸が高鳴る。優しい眼差しに不覚にもキュンとしてしまった。

「とりあえず、薬を飲め」

「……うん」

 促されるがまま頭痛薬を三錠飲んだ。

 十分くらい経てば、激しい頭痛も感じなくなるだろう。水を三分の一ほど飲んでから、ペットボトルを鏡台に置いた。この間、ずっと無言だった。

「え、と……」

 なんとも気まずい。どうしていいのか分からない空気が部屋に満ちていた。それは拓野も同じのように見えた。チラチラとお互いを横目で見ながら、話の切っ掛けを探り合っていたが、拓野が先に話始めた。

「キーを返すついでに……、課題について教えてもらいたいことがあるんだ」

「え?」

 言われてハッとした。週末に課題が出されていた。さらに、週明けの月曜日には一週間分の講義の確認試問がある。

「レポートと試問対策をやらなきゃ!」

 完全に忘れていた。言われなかったら、週明けに独りで途方に暮れただろう。

 ありがとう! と言ったものの、部屋は狭いし二人で使えるデスクは無い。TV台と鏡台が一緒になったようなものはあるが、ペットボトルやゼリー飲料の容器が散乱していて使い物にならなかった。

「ちょ、ちょっと待ってて! 今、片付けるから!」

 バタバタと鏡台に駆け寄ってゴミを集め始めたが、バシャッと音がした。さっき置いたばかりのミネラルウォーターをひっくり返してしまったのだ。蓋をせず適当にポンポン置く癖が裏目に出た。

「ご、ごめん!」

 慌ててバスタオルで拭いたが、鏡台も床もびしょ濡れだ。今日は何をしても上手くいかない日らしい。心の中で自分を罵倒しながら手を動かす。

「なぁ……」

「え?」

「俺の部屋でやらないか?」

「……隆司の、部屋?」

「あぁ。テーブルあるし」

「そ、そっか……」

 一瞬、返事に迷ったが、改めて自分の部屋の酷さを自覚し、素直に頷いた。こんな汚部屋では勉強にならない。

 鏡台周りを拭いてから部屋中に散乱しているノートや筆記用具を集め、隆司とともに部屋を出た。

「悪いな」

「いえ、そんなことは……」

 休日の施設は静かだった。皆、土日はどこかへ出掛けているのだろう。

 会話らしい会話がないまま二人でエレベーターに乗った。拓野が最上階のボタンを押す。

「十階?」

「あぁ」

 光葉は三階だ。考えてみれば、自室と研修施設以外に行ったことがなかった。もちろん、他の人の部屋を訪ねるのも初めてだ。なんとなく緊張してしまう。神妙な表情でエレベーターが止まるのを待った。ドアが開くと同時、見えた景色に思わず声が出た。

「うわぁ!」

 広いエレベーターホールは他の階とは全く違うデザインになっていた。

 入社式が催された高級ホテルのような絨毯と壁が重厚な印象を与えてくる。

 自由に寛げるソファや人の背丈よりも高い生花の飾りが品良く配置されているし、静かな廊下には部屋のドアがほとんど無い。つまり、他よりも広い部屋が並んでいるフロアだった。

「凄い……。ここ……、なんだか、特別な階って感じ……」

 圧倒されていると、先に歩いていた拓野が言った。

「ここだ。どうぞ」

「お、お邪魔します」

 ドアを押さえてくれている拓野に会釈してから部屋に入った。

「!」

 部屋はホテルのスイートルームそのものだった。

 入って直ぐがリビングルームで、大人五人が楽に座れるソファが置かれ、マッサージチェアも二台並べられていた。

 奥にはダイニングルームがあり、十脚の椅子とガラス製のテーブルが据えられていた。壁に大型モニターが掛けられていて、会議室としても使えそうだ。

「こ、こんな部屋が……」

 研修施設に併設した宿泊施設だから、ビジネスホテルのシングルルームやダブルルームが並んでいる程度と思っていたのに驚きだ。

「広い部屋がいい、と言ったらこの部屋になった」

 隆司が頬をポリポリと掻きながらボソッと言った。

 確か、内定式の後に「研修は三か月間」と案内があり、研修施設に併設した宿泊施設を利用する場合、希望がある者は事前に申し出るように、と言われていた。なにをどこまで言って良いのか分からず、光葉は「個室希望」とだけ出したが、拓野は一体なんと申し出たのだろうか。

「こんなに広い部屋があるなんて……」

「隣も見るか?」

「え? 隣?」

 リビングの隣はジムになっていてコンビニ自販機も置かれていた。さらにバスルームに繋がっていて、見たこともないコントローラーが壁に付いていた。

「なに、これ? え? ミストシャワーなんかあるの!」

「なかなか気持ち良いが……こんなに気を遣われてもな」

「気を遣う?」

 首を傾げて尋ねると、拓野は視線を泳がせた後、肩をすくめて言った。

「俺、社長の息子なんだ」

「は? 苗字、違うでしょ?」

「いろいろあって、今は、母方の姓を……」

「またまたぁ。社長夫人の旧姓、拓野じゃないでしょ」

 からかうのはよしてよ、と笑って見せると、拓野は驚いたような表情をしていた。

「知ってるのか?」

「就活でそれなりにリサーチしたから。何年か前、雑誌の特集記事で趣味とかプライベートなこととか、いろいろ紹介されていたし」

 拓野じゃなかった、と確信を持って言うと、拓野は感心したように数回頷いた。

「……そうか」

「研修前に『良い部屋希望』って出したんでしょ? でも、よく、こんなに揃えてもらえたね」

 いくら大手企業と言っても、ただの新人にスイートルームを宛がうのか疑問だ。そこは凄いと思う。急に変なことを言い出すので驚いたが、オフがとんでもなくだらしないという光葉の秘密を知ってしまって「俺も秘密も話すよ」というノリだったのかもしれない。しかし、いくらなんでも「社長の息子」は言い過ぎだ。光葉はハハッと笑って首を左右に振って見せた。

「じゃぁ、俺が凄いハッカーで、ダークウェブに情報流すぞって会社脅して、無茶な待遇を求めた結果がコレってのは?」

「は? それなら、働く必要ないでしょ?」

「まぁ、それもそうだな。うん……。そういう手もあったか」

「いやいや、犯罪だから」

 プッと吹き出しながら鞄を持ち直した。

 薬のお陰で頭痛もマシになったし、今の遣り取りでぎくしゃくした空気も薄れた。

 拓野の部屋に来た目的は復習と課題だ。「どこでやる?」と拓野を促し、ダイニングテーブルに落ち着いた。

「これ全部、試問範囲か」

「一週間分の資料って……すっごい量だね」

 圧倒されてしまうが、手を付けなければ終わらない。早速、二人で講義内容をまとめ始めた。

「労務関係は法令が複雑だね」

「解説があるだけマシだが……」

「これの原文と解説文、読めないかな」

「それならアプリがあるぞ」

「アプリ?」

 拓野に促され、貸与されたタブレットを起動させた。

「これ、図書の検索・閲覧アプリ。キーワードをココに入れれば……」

「こんなに関連書籍出てくるの? しかも、内容が読める!」

「そこのモニターに映し出せるぞ」

「すごい! これ、もっと早く知りたかった」

「貸与の時にアプリの説明はなかったからな」

「よく気付いたね?」

「偶々だ」

 それぞれのタブレットで違う書籍を開き、モニターに映し出した。

 デジタルマーカーで印を付けたり、しおり機能を使ったりしながら、提出済みのお互いのレポートの内容も読み合って疑問や意見を言い合った。理解を深めるための論議は実に楽しい。

「こんなに資料が揃ってるなんて……。早く気付いていたら、あの二人にも分かりやすい参考書を教えられたのに」

「え? 二人って、あのレポート丸パクリした二人? 助ける必要あるか?」

「う~ん……。まぁ、そうなんだけど」

「あぁいう輩は神統商事には相応しくないと思うが?」

 随分と気分を害した様子の拓野を横目に、ペンの頭で自分の顎の辺りをツンツン突きながら曖昧に頷いて見せた。

「行為は誉められたものじゃないけど、営業に向いてると思うんだよね、あの二人」

「営業?」

「初対面でもグイグイ行くし、爽やかな見た目だし、スポーツ観戦とか好きみたいだし?」

「スポーツ好き? そうは見えなかったぞ?」

「二人共、神統商事がスポンサーになってるプロバスケチームのボールペンを持ってた。あれ、店舗とかネット通販が無いから、試合会場へ行ってるんだと思うよ」

「ボールペン?」

「うん。ロゴ入りの真っ赤なペン。あの二人、使える人を見付けたり、効率良く得する方法を考えたりするの得意そうじゃない? やっぱり営業向きだと思うよ」

 やられたことは決して気持ちが良いことではないが、少なくとも入社試験はパスしている。どうしようもない愚か者ではないと思う。

「あんな奴らのいいところを見付けるなんてすごいな」

「嫌な面ばかり見るのって、精神衛生上良くないし」

「まぁ、それはそうだが」

「三か月間も一か所で研修していると、絶対、良い所も悪い所も見えてくる。会社の狙いがそれなら、ある意味、あの二人は正しく判断を受けられるんじゃないかな?」

 目くじら立てて抗議せずとも、会社は正しく対処するはずだ。そう言って笑うと、拓野は感心したように数回、首を縦に振った。

「ちょっと休むか。昼も過ぎたし」

「ん……。先、休んでて」

「休まないのか?」

「う~ん……、もうちょっと。資料のここ、読んでしまいたいから」

 ニコッと笑みを向けてからタブレットに視線を戻した。

 ダイニングテーブルいっぱいに資料を広げ、目に映る文字全てから知識を吸収していると、大学時代に図書館で論文を読みあさった頃を思い出す。あの時は単に知識を得るだけだったが、今は知識をどう会社の利益に繋げていくかが重要だ。なかなか面白くて休憩するのがもったいなく感じられる。

「PEST分析でいくか……でも、このレポートはまず3Cで……」

 神統商事が優位に立っているマーケットを把握し、市場の動きを複数パターン想定した上で、経済学者が提唱する理論を元に戦略を組み立てて行く。

「どの理論がいいかな……」

 教えて欲しい、と言われていたが、いつの間にか自分のレポート作りに没頭していた。

「……ほら、飲めよ」

「わっ!」

 頬に温かい缶を当てられてハッと顔を上げた。渡されたカフェオレの缶がお気に入りのメーカーだと気付き、思わず笑みが零れた。

「ありがと。これ、好きなんだ」

「……だと思った」

「え?」

「いや、ほら……。部屋に落ちてた缶とかペットボトルのメーカー、ココだっただろ?」

「あ……」

 頬がカァッと熱くなるのを感じた。恥ずかしさを隠すために、視線を落としてレポート作りに戻る。あと少しで終わるから……、と一人で勝手に言い訳しながら黙々と取り組んでいると、ブラックのコーヒー缶を持った拓野が隣に座った。

「俺も済ませるわ。終わったら、一緒にマッサージチェアを堪能しよう」

「え? いいの?」

「無重力を感じられるぞ」

「なに、それ!」

 ご褒美があると一気に効率がアップするから不思議なものだ。

 隣に並んでお互いのレポートの内容を読み合ったり、疑問点を指摘し合ったりしながら課題を仕上げ、月曜日の試問に備えた。

「終わったぁ!」

 三度見直したレポートを講師宛に送信した瞬間、喜びの声が漏れた。これで自由だ。

「マッサージチェア、使っていい?」

 タブレットを操作し終わった拓野に期待の眼差しを向けた。拓野は「もちろん」と笑顔で答えてくれた。

 マッサージチェアは椅子というよりは個室のようだった。座った瞬間は「あれ?」と思ったものの、手元のスイッチを入れると、あっという間に夢の時間が始まった。

「一度座ると、立てなくなるぞ」

「え? あっ、ぁぁぁ……!」

 椅子全体が動き、体がスッポリと覆われてしまった。座った人の体型を感知するタイプらしく、体のパーツの位置を確認し、完全にフィットするよう椅子の各部分が動いた後で、マッサージが始まった。

「ふわわわ……、音楽も……全身が……」

 クラシック音楽がBGMだった。モーター音も静かで、足や腕といった体の先から、背中や腰など、体幹部分が順に解されていく。

「天国……」

 これで全身を解された後、ベッドやソファにダランと寝転がって、スナック菓子でも頬張れば……。夢見心地とは正にこのことだ。

「あぁ、気持ち良い」

 隣で拓野も始めたらしい。

「マッサージ終わったら、映画見るか?」

「見られるの?」

「あぁ、サブスクのやつ。見放題のタイトルならどれでも」

「それ、最高! なにがいいかな」

「SF? アクション? なにがいい?」

「えぇと……」

 具体的なタイトルを上げようとしたところで言葉を失ってしまった。恥ずかしながら、これまでずっと勉学に励んできたせいで、映画を見たことがなかった。

「どうした?」

「あの……」

 成人した者が映画を見たことがないなんて信じられるだろうか。しばらく迷ってから、怖ず怖ずと言葉を続けた。

「映画、なんでもいいからお勧めを教えて。……僕、その……映画って見たことなくて」

「は?」

 正直に話すとやはり拓野が絶句した。

 引かれてしまった、と光葉が顔を伏せていると、拓野がマッサージチェアを離れていくのが聞こえた。隣室のドアの開閉音がする。少ししてから、甘い香りが漂ってきた。

「映画と言えばポップコーンだ」

 隣室にはポップコーンの自販機もあったのか。

 拓野はコーラも準備すると、ソファに座って映画のタイトルを検索し始めた。マッサージチェアに全身を解された光葉がソファに座ると、拓野は「超」が付くほど有名な映画を再生した。

「これ、あらすじを聞いたことがあるかも」

「だと思った。ほら、始まるぞ」

 拓野が少し距離を詰めてきた。だが、座った後で近付きすぎたと思ったのか、逆方向へ足を組んだ。そんな様子を視界の端に収めながら、ポップコーンを口に入れた。

「美味しい」

 ほどよい甘塩っぱさが堪らなくて手が止まらない。食べていても音がしないポップコーンは、映画鑑賞中にピッタリだとよく分かった。

 オープニングテーマは聞いたことがあるし、あらすじもなんとなく知っているので、初めてでも内容がスルスルと頭に入ってくる。

 テンポよく進む映画を無言で見ていたが、ポツリと呟いた。

「……ずっと、勉強ばっかりだったんだよね」

 半分くらいになったポップコーンを指先で摘まんだり落としたりしながら言葉を続ける。

「百点取ると母さんが、学年一位になると父さんが喜んでくれたんだ。全国模試で二桁順位を取ったら、妹も『お兄ちゃん、凄い!』って言ってくれて……。勉強したら色んな事が分かるようになるし、僕の周りの人達が明るくなるから嬉しかったんだ」

 映画は、ヒーローが集結し、独善的な平和を実現しようとする人工知能に立ち向かうクライマックスを迎えていた。向けられる拓野の視線を横顔で受けながら言葉を続けた。

「大学も研究室に所属してゼミとか卒論とかずっと勉強。寮住まいだったから、いつも誰かが一緒で、ルームメイトに課題教えたり、リモートで家庭教師やったり。応援されて努力して、覚えた知識を誰かに教えて。ずっとずっと、僕は頑張ってた」

 映画の主人公は、当然のように周囲からの期待に答える。挫折しても最後は必ず自分の持てる力全てを使って世界を救う。そんな様子を見る光葉の口元は緩く下がる弧を描いていた。

「でも僕、なんかもう、頑張れないんだ。期待されてるのは分かるし、ありがたいし、向上心がないのは駄目だって頭では分かってる。でも……。独りになってスーツを脱いだら、もう……、その、なんていうか、解放された感じから抜け出せられなくて……」

 駄目なんだよね、と繰り返した。

 拓野は無言だった。

 二人の間に沈黙が暫く流れた後、不意に拓野が動いた。

「ふぇ!」

 目の前の光景が信じられなくて間抜けな声を出してしまった。隆司が服を脱ぎ始めたのだ。

「え! えぇぇぇ! ちょ、ちょっと!」

「ん?」

「『ん?』じゃなくって! な、なんで、いきなり脱いで……」

 拓野は手際良くシャツのボタンを外して豪快に脱いだ。

 肌着代わりのTシャツも脱ぎ捨てると、無駄のない引き締まった上体が露わになった。視線のやり場に困って「あぅあぅ」と口を喘がせていると、拓野が首を傾げながら言った。

「いや、その解放感? それって、どれくらいキモチイイのか俺も試してみたくて」

「た、試すって!」

 着痩せするタイプなのだろう。拓野の体は申し分がないくらい逞しくて、胸にも腹にも美しい筋肉の線が幾筋も描かれていた。一旦、手を止めて「ふぅ」と吐息を吐きながら髪を掻き上げる仕草があまりに扇情的で、見ていると気が遠くなりそうだった。

 隆司がベルトに手をかけた。

 カチャカチャと音がして革ベルトがバックルから外れた。チャックを降ろす音が続く。光葉は思わず、バッと両手で顔を隠してしまった。

「……」

 急に静かになった。

 息を飲み、耳の中で鳴っているような心臓が治まるのを待ってから、そっと指に隙間を作った。

「……」

 拓野が見えた。視線が交わる。しばらくの沈黙の後、拓野がコホンと咳払いした。幸いなことに、下半身を丸出しにする前に理性が働いたようだ。

 その時、映画が最大の見せ場を迎えた。臨場感溢れる効果音と主人公の叫びが部屋に響いた。驚きと感動のラストへ場面が切り替わっていく。

「……その、まぁ……、うん。なんか、分かる。その感じ」

 拓野が頷きながらズボンの前を直し、ソファに座った。光葉も顔を覆っていた両手を下ろしながら拓野の横顔を見た。

「?」

「俺もさ。いつ来るとも分からない将来に向かって全力で努力し続けるとか、常にベストを尽くすとか。そんな空気が煩わしいって思うことがある。周りの期待に応えるのが当然みたいな『義務感』がいつの間にか重荷に感じられることって、あるよな」

 数回頷きながら拓野が溜め息を吐いた。

「でも、さ。『誰かが言う正解』から外れるのも駄目じゃないと思う」

「え?」

「分かっているけど、でも……! っていうのだって、ありじゃないか?」

 真正面から拓野に見詰められた。

「だって、良いとか悪いってのは、見る角度によって変わるだろう?」

「……それはまぁ、そうだけど……」

「完璧な人間って居ないんだし、長所と短所があるのが人だと思うぞ」

 一旦、言葉を切ってから拓野がニッと笑った。

「俺が『この会社に相応しくない』って感じたあのカップルも、光葉から見れば『営業に向いている人材』だ。そういう風に色んな角度から人を見ればいい。そう考えると、光葉のオフも悪くはないんじゃないか?」

 ポカンと口を開けたまま拓野の顔をしばらく見詰めた。

「ありが、と……」

(絶対に軽蔑されるって思ってたのに……)

 認めてもらえた。

 しかも、言葉で肯定するだけでなく、実際に裸になって試そうとするなんて驚きだ。

(こんなに……理解しようとしてくれるなんて……)

 体の奥から熱い想いが込み上げてきた。

 それはすぐに胸から頭まで広がった。耳の真横で鳴っているのかと思うくらい鼓動が高鳴っていて、近くに居る拓野に伝わってしまいそうだ。

(ダメ……、バレちゃう!)

 早く鎮めようという焦燥感に比例するように心臓は激しく鳴り続けた。

「よし! ピザでも取るか」

 光葉の焦りをよそに、拓野はチラシを広げて真剣にピザを選んでいた。

「どういう系がいい? ほら、ウインナー入りの生地がいいとか、シーフード派とか、チーズの量とか」

「そ、そうだね! え、海老かな!」

「じゃぁ、このシュリンプの奴を一枚。お! アスパラとシーフードもいいな」

「い、いいと思う!」

「あぁ。あとは、サイドで、ポテトと唐揚げ……、……っと。これで……よし」

 スマホを片手で操作して注文する拓野の横顔がいつにも増して端麗に見えた。何枚ものイケメンフィルターを通して見ているような気になる。そのフィルターは、自分の心から生まれたものだと自覚すると、熱かった胸が今度は苦しさを帯びてきた。

(なんか、ヤバイ……。僕のパーソナルスペース、拓野が渋滞してる!)

 物理的にも精神的にも近い距離で思いや時間を誰かと共有するのは初めてだ。しかも、楽しさと嬉しさだけでなく、拓野の優しさも溢れていた。

(今日は、なんだか隆司が……すごく……)


 かっこいい――。


 以前とは違う「かっこいい」を感じてしまい、どう振る舞って良いのか分からなくなる。

 なんとか正気に戻らないと! と思い、映画を見ながら飲んでいたコーラを取って一気にストローで吸った。炭酸が抜け、ぬるくなった甘い水が思った以上の勢いで入ってきた。

「! ゲホッ! ゲホゲホゲホッ」

「光葉!」

 驚いた拓野が駆け寄って来た。ティッシュを取り、背中をさすってくれる。

「大丈夫か?」

 ゆっくり飲め、と言いながら、拓野が顔を覗き込んできた。

「光葉、お前……顔赤いぞ?」

「え!」

 慌てて横を向いたものの、誤魔化しようがない距離だ。どぎまぎしながら拓野の視線を受け止めていると、大きな手がスルリと額に当てられた。

「熱あるのか?」

「あ、いや、その……」

 熱は無いけれど、違う熱がある。そんな意味不明な弁明を心の中で続けていると、拓野がさらなる行動に出た。

「……どれ」

 コツンと額同士がぶつかり合った。鼻先が頬に触れるほどの距離に拓野の顔があった。

「!」

 息ができない状態で光葉は思い出した。そうだ。この男は、初日から簡単に密接距離まで入って来るような人だった。今度は眉間のアイロン掛けどころではない。

(隆司! 貴方って人は!)

 慌てながらも嬉しく思う自分がいることに気付いた。

「光葉?」

 額に触れた手が今度は頬に添えられた。スル、と肌を滑る拓野の手が、なにか特別な意志を持っているかのように感じられた。

 お互いの距離がゼロの状態で、光葉は唇を僅かに開いて浅く息を吸った。自分を落ち着けようとした行為だったが、拓野の耳には違う形で伝わったか。

「……」

 時が止まったようだった。

 どれくらいそうしていたのか分からない。

 不思議な空気に飲まれたのか、拓野の指が特別な意図を編むように動いた。続いて、顔の角度が変わった時だった。


 LULULULU――


 突然、着信音が鳴り響いた。拓野のスマホだ。

「!」

 ビタリと拓野の動きが止まった。少しの間の後、スゥッと静かに離れて電話に出た。

「……はい。あ……あぁ……そうですか」

 ピザ屋からだった。注文が立て込んでいて配達まで一時間以上かかるという謝罪の電話らしい。

「遅くなってもいいか?」

「ぼ、僕はいいよ。全然、大丈夫!」

「そうか。分かった。じゃぁ『待つ』と返事する」

 何度も首を縦に振って見せた。「大丈夫」と繰り返しながら光葉は一旦、洗面所へ避難した。

(び、びっくりした……)

 バシャバシャと顔を洗い、タオルに暫く顔をうずめたまま動きを止める。

(今……、もしかして……)

 あのまま、電話が鳴らなかったらどうなっていただろう。

「……いやいやいや!」

 思い違いか、勝手な妄想か、過剰な期待か。

「でも……もし、そうだったら……」


 僕は、嬉しかった――。


 自覚をした瞬間、再び顔が真っ赤になった。鏡に映る自分が恥ずかしくて、もう一度、冷たい水で洗う。

「僕……、隆司のことが……好き……だ」

 タオルに顔をうずめたまま、しばらく動けなかった。



 ピザを頬張りながら二人でゲームに没頭した。

 本日二度目の初体験だったが、これが驚くほど夢中になれるもので「もう一回!」の無限ループにはまってしまった。

「あ、ちょっと!」

「隙あり!」

「うそ! それ、ズルイ!」

「ズルじゃない。ほら、また、俺の勝ち」

「あ~! 悔しい!」

 TVは付けっぱなし、ジャンクフードで腹を満たし、片付けもせずにソファの上を転げ回る。時計も見ずに二人で遊び呆けていると、いつの間にか日付が変わろうとしていた。

「そろそろ、部屋に戻るよ」

 マッサージチェアから立ち上がって体を揺らした。充分に解されて、よく眠れそうだ。

「そうだな、また、明日」

「うん。いいリフレッシュになったよ」

「俺も。あ、そうだ。ちょっといいか?」

 鞄を手に部屋を出ようとしたところで拓野に呼び止められた。

「LIINEのアドレス、交換しないか?」

「うん」

 メッセージアプリのアドレスを交換し、確認のスタンプを送り合ってから廊下へ出た。

 体が信じられないくらい軽かった。来た時とは明らかに違う足取りでエレベーターホールへ向かった。光葉が下のボタンを押した時、コホンと咳払いをした拓野が真剣な表情で言った。

「なぁ」

「ん?」

「その……、本当に今日はありがとう。すごく楽しくて……多分、今までで一番楽しい時間だった」

 初めの方は照れくさそうに視線を外していたが、最後はしっかり目を見て「楽しかった」と言ってくれた。その照れくささが伝染してきて挙動不審になってしまう。

「あ、あの、うん。ぼ、僕も、すっごく楽しかった」

「そうか。あぁ……、えっと……。あの、あれだ。その……配属先なんだが……やっぱり、秘書課を考えてみてくれないか?」

 ちょうどその時、エレベーターが到着し、開く音がした。

「……」

 光葉はそっと乗り込んだ。自然に指が伸びる。ツプン、と指先で「開」をしばらく押し続けてから、そっと指を離した。

「……か、考えてみても……いいかな」

「本当か!」

 小声で光葉が答えると、拓野の顔がパァッと明るくなった。

 あまりにも分かりやすくて、光葉まで頬が緩んでしまった。視線が合って、お互いに照れ笑いを浮かべた時、エレベーターの扉がゆっくりと閉まり始めた。

「それじゃ、また……」

 短く言ったところでお互いの顔が完全に見えなくなった。

 エレベーターが下がり始める一方で、光葉の鼓動は加速度的に高鳴っていくのだった。

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