土曜日――。
朝から晩までフリーだが、気分は最悪だった。
「総務課だから、行くけど」
研修中、各課の先輩に具体的な仕事内容を聞くだけでなく、課内の雰囲気などを肌で感じられる機会として親睦会が企画されていた。
配属を希望していた総務課の親睦会は、こともあろうに土曜日の夜。しかも店は、宿泊施設から一時間近くバスで移動したところに設定されていた。
「帰りはバス無し……」
自腹でタクシーを使うことになる。
「こういうことを頻繁にやるような上司なら考えるなぁ」
第一希望を変えた方がいいかも、と思いながら店に入った。
寿司と蕎麦がメインメニューの店で、雰囲気は悪くない。店員に案内された二階は和室の宴会場になっていて、二十人ほどが集まっていた。
(隆司は……居ないよね)
金曜日の別れ方が思い出されてソワソワしてしまう。姿が見えないことにホッとしながら靴を脱ぎ、幹事に挨拶をした時だった。
「おぉ? 期待の新人がウチの課を希望とは嬉しいなぁ! こっちだ、こっち!」
課長という札が貼られた席から大きな声がした。
「須田です。よろしくお願いします」
赤い顔で手招きする課長に向かって頭を下げたものの、表情が強ばってしまう。
(もう酔ってる? ……苦手系かも)
残念なことだが、悪い直感ほどよく当たるものだ。課長に対する苦手意識は、時間が経つにつれて確信へと変わっていった。
「いいか! こういう、上司とか部下とか関係なく思いをぶつけ合える場は仕事の上で大事なことだ。俺は、こういう場を大事にしている!」
なぜか、座る場所は課長の隣しか許されなかった。
しかも、目の前に並んでいるのはお新香や枝豆、軟骨といった酒のつまみばかり。腹の足しになるものが全く無い。しかし「お腹が空きました」などと言える雰囲気でもないし、自分で注文を取ることもできなかった。
「ほら、飲め! 遠慮するなぁ!」
課長は日本酒派らしく、次々と升酒が運ばれてくる。
仕方なく口を付けると腕を掴まれて「舐めてどうする! 飲むんだよ!」と強要された。それも、一度や二度ではない。最初は応じたものの、正直、無理だった。
「あの、僕、実は日本酒は……」
手でグラスを塞いで首を左右に振ってみたものの、全く聞き入れられなかった。
「なんだ、辛口がいいのか? だったら、俺が飲んでいるコレがいいぞ!」
課長が飲んでいた升を押し付けられた。がっちりと胴を抱かれてしまって逃げられなかった。
「あっ! ちょっと! んっ……」
酒が容赦なく流れ込んでくる。強制的に一気飲みさせられている感じだ。喉を焼くような熱と、鼻に抜ける強烈な酒の香に息が詰まる。
「いい飲みっぷりだなぁ、須田ぁ! いやぁ、俺はお前が噂通り『秘書課』狙いだと思っていたが、見直したぞ! 総務課へ来るとはお目が高い!」
課長の絡み癖がどんどんエスカレートしてくる。
酒を勧めながら体を密着させ、異常に顔を近付けてきた。
髪やこめかみに唇を触れさせながら大声で話し、スンスンと鼻を鳴らして匂いを嗅いでくるなんて信じられない。全身の毛という毛が逆立つほど気持ち悪かった。
「あの、課長!」
語気を強めて諫めるように言ったものの、効果はなかった。引き攣った顔で周囲を見たが、皆、距離を置いて気付かないふりをしていた。課長の酒癖の悪さは周知の事実なのだ。そして、誰もがターゲットにならないよう避けているのが見え見えだ。体の良い当て馬にされたのだ。
(こんなの、無理!)
強制された酒のせいで視界が揺れる。なんとか逃げようと思うものの、体が思うように動かない。それを「同意」や「許容」と感じたのだろうか。課長は尻を撫で回すだけでは飽き足らず、ズボンの中へ手を入れて来た。
(嘘っ!)
体を浮かせて逃げようとすると露骨に抱き締められた。そして「飲め飲め!」と酒を強要され、口に流し込まれてしまう。飲み込んでいるうちに肌を直に撫で回されてしまい、もう叫びたいくらい嫌だった。
(こんなの……こんなの無いよ!)
まさに蛮行だ。
これが日本のトップ企業・神統商事の管理職なのか。
途方もない努力を積み重ねて入社した会社の上司がコレか!
(いくら酒が入っているって言っても……酷いにもほどがある!)
絡まれることや触れられること以上に、神統商事の名を平然と汚す行為と、それを黙認しているこの場の全てが許せなかった。
「あの! か、ちょ……!」
込み上げる怒りをぶつけたい!
テーブルを力一杯叩いて大声を上げ、この場の全員に喝を入れる!
そう思ったのだが、散々飲まされた酒のせいで足腰が全く言うことをきかなかった。
「いやぁ、しかし君は本当にぃ美人だなぁ」
酒臭い息を吐く課長の顔が鼻の頭が触れ合う距離に近付いてきた時だった。
「時間だ、帰るぞ」
耳元で低い声がしたのと同時、グイッと引っ張られた。一気に課長から引き離され、気まずかった場から救い出される。
「なんだぁ、お前! 人がぁ~気持ちよく飲んでるのを、邪魔するとわ~」
呂律が回らない課長が手を伸ばしてきた。もう少しで腕を掴まれる、というところで、救世主が不届き者の腕をガッチリと掴んだ。
「遅れて参加した拓野隆司です。今夜は親睦会の開催、ありがとうございました。おかげで総務課のことがよく分かりました。片道一万円のタクシー代を払って来た甲斐があったというものです」
突然の拓野の登場に驚いて目を見開いたものの、気の利いた言葉ひとつ出て来ない。
「そ、そうか……デデデッ! イデデデデ!」
涼しい顔の拓野に対し、課長の顔が見る間に歪んでいく。拓野が相当な力で腕を握り締めていた。
「課長は参加者の都合を考えられないだけでなく、アルハラ・パワハラ・セクハラ三昧な上、課員も誰一人として蛮行を止められないのが総務課だ、と配属前に知ることができて良かったです」
こういう時の満面の笑みは、相手に恐怖しか与えない。
「さっそく新人の間で情報共有し、希望調書の『希望しない課』欄に書かせていただきます」
よどみなく言った拓野は一呼吸置いてから課長の耳元に口を近付けた。そこで、凄絶な笑みを浮かべながらそっと囁く。
「二次会では、ぜひ、このしがない新人の言葉に対する課員の忌憚の無い意見を聞いてみてください。新しい意見を聞けるかもしれませんよ?」
課長の顔から血の気が引いていく。青くなった顔に爽やかな笑みを向けてから拓野は頭を下げた。
「では、失礼します」
課長の腕を解放した拓野に「行くぞ」と促された。肩を抱かれたまま一緒に和室を出る。
「靴はこれか?」
「え、あ、え?」
「座れ。ほら」
下駄箱横のベンチに座らされ、革靴を履かされると再び横から抱きかかえられた。
「足元、気を付けろ」
「ん」
ゆっくりと階段を降りて店の出口に向かっていると、課長が叫ぶのが聞こえた。しかし、完全に無視して外へ出た。頬に触れる夜風が気持ち良かった。
「りゅ~り、参加しれらんら……」
「あぁ、途中からな。しかし……随分、飲まされたな」
力強い腕に支えられたまま通りに出た。そこにはハイヤーが止まっていて、すぐに乗ることができた。
「れんれん、きうかなかった」
「全然、気付かなかった?」
うんうん、と頷くが、視界がグワングワンと回る。差し出されたペットボトルを受け取ることもできず、シートに寄りかかって目を閉じた。
「ほら、飲め」
ペットボトルの蓋を開けてもらうだけでなく、口元まで運んでもらってやっと一口、二口と水を飲んだ。ツ、と唇の端から零れたのを拓野が指でそっと拭ってくれた。拭い取った水をペロリと舐める様子がやけに扇情的に見えた。
「あれが第一希望か?」
「へ?」
「総務課が第一希望なのか?」
「ろうらっられろ、れも、れも、らんらり、りろいりろが、らろうらっらら……」
「あぁ、いい。もう、いいから」
理解することを諦めた拓野にそっと頭を撫でられた。溜め息を吐く拓野の顔が優しい笑顔だったことに気付かないまま、目を閉じた。人の温もりがとても心地良かった。もう、離れたくないとさえ思えた。
「いつも、あんなに澄ました顔が、こんなになるとはな」
「れ? らんらいっら?」
「なんでもない」
撫でられるのが気持ち良かった。車の揺れも手伝って、トロトロと眠りについてしまう。
一時間なんてあっという間だった。研修施設に戻った時、光葉は酔っ払った上に寝ぼけていて、一人では何もできない状態だった。
「部屋はどこだ?」
「れら?」
「……カバン開けるからな」
拓野がカバンからカードキーを取って歩き出した。だが、その後ろに付いていくことができない。全身から完全に力が抜けていて、歩けたものではなかった。すると、拓野が自然な動きで抱き上げてくれた。
「ふぇ?」
「……軽っ」
ボソッと呟いた拓野がスタスタと廊下を進む。向かったのは三〇二号室。角の部屋だ。
カードキーを翳した。小さく電子音が響き、ドアが開いた。
光葉の体がそれに反応した。
拓野の腕から降り、口元にふわりと笑みを浮かべながら中に入る。
「おい……、あ……え?」
驚く拓野をよそに、フラフラと歩きながらメガネを投げた。条件反射だった。
シャツから両腕を抜き、綿パンを床に落とすと、靴下も片方ずつ裏返しのまま柔らかな絨毯の上に散らす。生まれたままの姿を晒し、歓喜の吐息を吐いた。
「はぁぁぁぁ……」
至福の時を求め、ベッドに倒れ込んだ。
空のペットボトルやゼリー飲料などのゴミと脱ぎ散らかされた服の中で、肌を晒した酔っ払いが小さな寝息を立て始める。
「……」
自動で点いた照明の下に広がるのは汚部屋。
期待の星と噂される才色兼備な光葉が全裸で眠る――。
「み……光葉……?」
衝撃的な光景を目にした拓野は、しばらく呆然と立ち尽くしていた。