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第二話

 神統商事の入社式は、都内にあるTホテルの孔雀の間で行われた。

 国賓をもてなす際にも利用される格式高い広間だ。

 豪奢なシャンデリアや生花、金屏風で飾られていて「自分は選ばれた者」と勘違いしそうな雰囲気に満ちている。そんな空気に飲まれた様子の新人達が多く居た。

 式はCEO・神統俊蔵かんとうとしぞうの挨拶から始まった。

「皆さん、入社おめでとうございます。本日ここに……」

 白髪が交じっているものの細身のスーツがよく似合うCEOの声はよく通り、言葉も聞き取りやすかった。挨拶を簡潔に終えた点も好感が持てる。広間中央の最前列で式に臨んでいた光葉は、背筋がよく伸びた姿勢で壇上から去って行くCEOの背中を「かっこいい歩き方だ」などと思いながら見送っていた。

「あっ……ヤベッ!」

 すぐ後ろで声がした。

 同時に足元へコロコロとペンが転がってきた。ちらりと視線を向けると、男が頭の後ろを掻きながら会釈を寄越していた。

「……」

 取ってくれ、というのだろう。静かに身をかがめてペンに手を伸ばした。

「!」

 不意にすぐ隣から手が伸びてきた。絶妙なタイミングで指先が触れ合ってしまい、思わず横を見た。

「悪い」

 謝りながら彼が先に手を引っ込めた。

 拓野隆司たくのりゅうじというネームプレートが見えた。ウルフカットの短い黒髪がよく似合う好青年だった。力強く伸びる鼻梁と彫りの深い目元、そしてやや薄めの口元の凜々しさが絶妙なバランスを保っている。

「いえ」

 短く答えてから後ろの男にペンを渡した。男は一瞬、動きを止めてからペンを受け取り、周囲の者達とヒソヒソと言葉を交わし始めた。

「見たか! すげぇ美人だろ! 男なんだぜ! 信じられるか?」

「睫毛、長! 顔、小さっ!」

「アレが噂の新人?」

「天が二物を与えてる系だ。頭も顔もイイって『得』だなぁ」

 耳に入る雑音を無視して前を向いた。

 噂されるのは慣れている。

 メンズの既製品では合うサイズを探すのに苦労するほど華奢で手足が長い体と、モデルをやっていた母親譲りの容貌のお陰で、高校生の頃から街中でよく声をかけられていた。だから今更あれこれ言われても気にならなかった。

 ただ「得」という言葉は好きではなかった。

 何の努力もせず、運良く得た物の恩恵にあやかっているだけ、と言われるのは不本意極まりない。自然と眉間に力が込もり、深い皺が刻まれてしまう。

 その時だった。

「美人が台無しだ」

「?」

 突然、キュッと眉間を押された。驚いて視線を向けると、拓野がまるでアイロン掛けでもするように眉間を撫でてきた。

 は? と言いそうになったのをなんとか堪えて目を瞬いていると、拓野はフッと笑みを残して指を引っ込めた。

「ど、どうも……」

 小さな声でなんとか返事をしたものの、頭は軽い混乱状態だ。

(なんだった? 今のは!)

 唐突なアプローチに戸惑っているうちに、一時間ほどの入社式が終わった。

「配布物を受け取った方から一階へ降りてください。バスで研修施設へ移動します」

 司会者の声が会場内に響いて移動が始まった。

 あちらこちらから賑やかな話し声が上がったものの、廊下へ出る人の波が大きく乱れることはない。光葉は、統制が取れた穏やかな流れに身を任せた。

 ホテル入口に止まっていたバスに乗り込むと添乗員が弁当をくれた。示されたのは一番後ろのシートだった。

「よぉ。また会ったな」

「あ……」

 五人掛けのシートに拓野が座っていた。一瞬、足を止めてしまう。なんとなく拓野の指を見てしまった。眉間に指の感触がよみがえってきた。

「自己紹介まだだったよな。俺は拓野隆司。よろしく」

「須田光葉です」

 よろしくお願いします、と言いながら軽く会釈をした。

 改めて見てみると、柔和な笑みを浮かべる好青年といった雰囲気だ。悪い人ではなさそうだが、さっきの突然の接触が心に引っかかって少し距離を取った。

 窓側に腰を下ろしたところで添乗員が話し始めた。

「皆さん、お疲れ様です。これより研修施設へ移動します。所要時間は約一時間。お弁当を召し上がりながらで結構ですので、明日以降の説明を聞いてください」

 車内モニターに動画が流れ始めた。見やすい位置に座り直してから弁当を開ける。

 視線を感じて横を見ると、拓野と目が合った。彼もモニターを見やすい位置に移動してきていて、お互いの距離が近くなっていた。

(……なんか、ムズムズする)

 どう反応しておくのが正解か分からなくて、とりあえず笑顔の会釈を向けた。笑顔なら不快感を与えないだろう。

 桜漬けが添えられたご飯から箸をつけた。

「三か月間の新人研修は当社の研修施設で行います。施設は『研修ゾーン』と『生活ゾーン』に分かれており、宿泊施設やカフェ、レストラン、日用品販売店なども敷地内にあります」

 施設の案内動画に対し、車内から複数の声が上がる。

 実は、遠方からの新人向けに施設は三日前から開放されていて、そこらのビジネスホテルよりも整った設備であることを多くの新人が体験済みだった。光葉もその一人だ。快適過ぎて、外へ出る気にもならないほどだ。

「定食屋、なかなか美味かった」

「カフェは朝早くからやってたのよね」

「雑貨屋もあって、おしゃれな小物も売られてたのよ」

 ここぞとばかりに体験談を披露する同僚達の声を聞き流しながら箸を進める。

「お手元の封筒に希望調書が入っているのをご確認ください。こちらに希望する配属先と理由を記入し、研修後に必ず提出してください。希望調書の内容と、研修中の試問やレポートの結果から皆様の適正を判断。配属先を決定します」

 配布物の案内が流れた時、車内がざわついた。光葉も手元の封筒に視線を向ける。

「お前、どこにするか決めてる?」

「やっぱ、秘書課がトップ?」

「いやいや、目指すなら海外支店! 出張手当上乗せはデカイよ」

「カッコイイのは法務コンプライアンス課。企業の要だろ」

 あちらこちらから自信と希望に満ちあふれた声が聞こえる。

「……」

 自分以外の者達全員が向上心の塊のように感じられた。

 あれが普通なのかもしれない。

(……でも、僕は……)

 聞こえて来る声を意図的にシャットアウトし、半分ほど残した弁当の蓋を閉じて窓の外を見詰めた。時間が経てば経つほど、自分と周囲の温度差が広がっていくようで居心地が悪かった。

 約一時間後――。

 緑豊かな自然の中に巨大な純白の施設が現れた。

 三台のバスは広いロータリーに入った。規模の大きさや設備のレベルが大手上場企業の財力をよく表していた。

「さすがは神統商事って感じ……」

 神統商事は多くの新人を採用することと「必要な人材は自社で育てる」という徹底した育成制度が有名だった。個々が持つ才能の芽を育て、確実に花開かせる教育環境は日本でも屈指と言われている。そんな研修がこれから始まるのだ。

 大講堂に集められて施設長の簡単な挨拶を聞いた後、解散を告げられた。

「皆さん、お疲れ様でした。明日は、朝八時半にこの大講堂に集まってください」

 時刻は午後四時。

 初日だからだろうか。ご褒美と言えるほど早い終業だった。

 多くの者達が

「施設を回ってみる?」

「カフェ行こうよ」

などと賑やかに話す中、光葉は鞄からカードキーを取り出した。三〇二号室という部屋番号を確認してから歩き出す。

 廊下はオフィスビルとハイエンドホテルを足して二で割ったような内装だ。部屋まで少し距離があった。

「ここだ」

 カードキーを翳すと小さな電子音が聞こえた。思わず笑みがこぼれる。ドアをくぐれば自分だけのプライベート空間だ。

 ドアが閉まる音を背中で聞きながら荷物から手を離した。落ちる鞄や封筒もそのままに、メガネを投げ、革靴を蹴り、スーツから両腕を抜いてスラックスも落とすと、靴下も片方ずつ裏返しのまま柔らかな絨毯の上に散らした。

「あぁ……終わった」

 全裸でベッドに倒れた。

 空調が効いた部屋の中で素肌を晒し、一切のことを放棄して全身から力を抜く。あらゆる拘束から解き放たれた時間は最高だ。

 しばらく目を閉じて解放感に浸ってから細く目を開けた。ぼんやりとした視界に、床に広がった荷物が映った。茶色い物がある。封筒だ。

「配属先かぁ」

 新入社員が期待するものといえば、キャリアや経験、高い収入、やり甲斐だろう。

 だが――。

「残業は嫌だし、余計な期待は負いたくないし……」

 どこが一番楽かなぁ――。

 ハズレは引きたくないし、オフが削られる所は絶対に嫌だ。想像しただけで表情が渋くなり、嫌な溜め息が零れ出てしまう。

「みんな……やる気があって凄いなぁ」

 溜め息交じりに呟いた後、再び目を閉じた。

 すぐに意識が揺らいでいく。

 柔らかな毛布に身を委ね、グダグダと惰眠を貪るのだった。

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