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第33話

 せせらぎ

 本来は美しい遊郭の花の一つだったと聞くが、今はその面影はなく、修羅のような形相の女だった。

 髪は乱れ、目は白と黒が真逆になり――怨霊のような姿。

『どうし、て……』

 せせらぎが、泡沫を見て呟いた。

「簡単は話さ。お前さんは絵巻に取り憑き、そして絵巻を開いた小雨に取り憑いた。なら、お前さんの核は小雨の中にある。だから、あっしがこうやって小雨の深層心理まで入り込んで、お前さんを引きずり出したわけさ」

 まあ理由はそれだけではないが。

 ちらり、と泡沫は小雨を見やる。

「せせ、姉さん……」

 小雨は立ち上がってせせらぎに駆け寄った。

『こんな状態の私を、お前は、まだ姉と呼ぶの?』

「せせ姉さんは、せせ姉さんです! どんな姿になっても、せせ姉さんは、私の姉様のままです!」

『小雨……』

 小雨は泣きながらせせらぎにすがった。

 その姿を見て、せせらぎは泣き出す一歩手前のように瞳を歪ませると、小雨の背中に手を回した。

『小雨、ありがとう』

 せせらぎがそう言った途端、彼女の身体に淡く光り出し――

「せせ、姉さん……」

 小雨が彼女を見上げた時、潺の姿は美しい女の姿に変わった。おそらくそれが本来の彼女の姿――小雨の中での彼女の姿。

『ごめんね、小雨。私は、自分の恨みを晴らすために、お前を利用した』

「いいんです、姉さん……私は、姉さんになら利用されても……」

『小雨……私ね、恋をした。恋を知ったの。だけど、それは理不尽な形で裏切られてしまった……それが哀しくて、悔しかった』

「知ってます。だって私も……」

『それは違うわ』

 せせらぎは言った。

『それは、私の思念が入り込んだから、そう錯覚してしまっただけ。お前のそれは、恋ではない』

「恋じゃ、ない?」

『あの厚切という男へのお前の想いは、恋ではないの』

 小雨はキョトンとした顔で潺を見上げた。

「ああ、あっしもそう思うよ」

 泡沫の言葉に、小雨はますます分からないといった様子で振り返った。

「どういう意味ですか? 確かに酷い人でしたが、あの時、私は……」

「お前さんは恋をしていたんだじゃない。恋に憧れて、恋に取り憑かれたんだ」

「恋に、取り憑かれた?」

「ああ。だろ? せせらぎ

 泡沫の言葉に、潺は強く頷いた。

『お前は、ずっと私に恋について教えられた。恋は素敵なものだ。私は恋をしたって……そして私は、その恋によって命を落とした』

「最初、姉さんは叶わない恋をしたせいで、死んだのだとばかり思ってました」

 せせらぎは想い人と共に駆け落ちをした。そして、それを厚切に見つかり、二人もろとも斬り殺された。それが真実だったが――

『あの時、私達は厚切に斬り殺された……だけど、あのままだと彼が無理心中をはかったために私を殺害した事になりそうだった。彼を下手人にするわけにはいかなかった。だから、私は彼の名誉を守るために、彼の遺体を抱いて、川に飛び込んだの』

 その結果、二人は心中をしたという事で片付けられた。

『そのことに後悔はないわ。彼の名誉を守れたから……』

 そして、その後、彼女は『妖怪絵巻』に取り憑かれた。

 『妖怪絵巻』は恋に破れた乙女に取り憑く。恋に破れたといっても、ただ単純に失恋したというわけではない。

 今回のように、恋を成就させても、理不尽な形で破れることもある。

「せせ姉さんが心中じゃなかったことは分かりましたが、それと私の気持ちが恋じゃないのと、どういう関係が?」

「単純な話さ」

 泡沫は小雨に言った。

「お前さんは、せせらぎが恋によって命を落したと思った。花街じゃあ、恋に落ちれば命を落とすって言われているからな。だから、お前さんは大好きな姉さんが命をかけた恋を、人生をかけた恋とは何か考えた……その瞬間から、お前さんは恋に取り憑かれちまったのさ」

 それが憧れか、姉さんを奪った事への恨みかは分からないが。

 小雨の中で恋は特別な存在となり、その言葉はとても重みを秘めていた。

 そして『妖怪絵巻』と同化したせせらぎ怨念がさらに小雨に取り憑いた事で、小雨は自分が恋に落ちたのだと錯覚した。

 さらにせせらぎが小雨に取り憑こうとしていたため、せせらぎを怨霊に変えた自分と愛した男の仇でもある厚切への執着が、小雨に浸透し――それは恋心だと小雨に誤認させた。

 憎悪と、恋心。向かう先は別物でも、同じ人物へ向かい――それは執着に変わった。

「いいかい、小雨。お前さんの感情は恋じゃねえ……ただの甘えだ」

「!」

「今まで優しさで包み込んでくれた姉さんがいなくなって、お前さんはこの世界で生きていきたくない程の絶望を味わった。そんな時に、優しく声をかけてくれた奴がいた。それが年上の男なら、縋りたくなるのも、頷ける」

 それも厚切の策の一つだろうが。

 ――言わぬが花だな。

「誰でも良かったのさ。お前さんの孤独を埋めてくれる奴なら。お前さんを、その場所から救い出してくれる奴なら……」

 一夜の夢を見せる花街の娘が、一夜の夢に縋った。

 ――そんな所か。

「そっか……恋では、なかったのか」

 小雨は、憑き物が落ちたように吹っ切れたような顔で言った。

『小雨……私ね、恋をして幸せだったわ。彼と恋に落ちて、私でも幸せになれるんだって思えたの。私達のような一夜の夢のためにいる存在じゃ、きっと幸せになれない。愛を囁かれても、所詮ひと時限りの哀れみだって諦めていた。だけど彼に出会って、私は本当の愛を知った。一夜限りの夢じゃない、本当の愛の言葉を知ったの。だからね……』

 せせらぎの身体が徐々に溶けるように透き通り始めた。

「姉さん! 待って、私……」

『だからね、小雨……お前は幸せな恋をしなさい。本当の愛を手に入れなさい。お前なら、きっと幸せになれる……辛い事も、哀しい事も、全部、報われたって思える程の幸せを……』

「せせ姉さん」

『……私の分まで、幸せな人生を送ってね……お前が幸せなら、私の人生にも意味ができる。恋に破れて、無残に散った、哀しいだけの人生じゃなくなる……だから……』

「待って、姉さん、消えないで! 姉さんっ……」


       『


 一つの文字が、せせらぎに降る。


『……私の人生に意味をちょうだい』


 刹那――泡が弾けるように、せせらぎの姿は消えた。

 それは泡沫のように――淡く、儚く、そして美しかった。


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