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第32話

「さて、これで……」

 泡沫は皮膚に黒い文字の羅列が浮かび、今にも黒に飲み込まれそうな小雨に手を差し出した。

「来い、小雨」

「……っ」

 小雨は拒絶するように泡沫を見ずに膝を抱えたままだ。

 しかし、もう泡沫を拒絶できる泡は残っていない。

「小雨」

 泡沫は彼女の目の前まで移動すると、彼女の視線に合わせて腰を屈める。そして、彼女の両の頬に手を添えた。

「小雨……」

「泡沫様……」

 泡沫は小雨が自分を見ているのを確認してから、言った。

「いい加減にし」

 泡沫は子どもを諫めるように言った。

「甘えんじゃねえよ」

「……え?」

 小雨はキョトンとした顔で泡沫を見た。

「さっきから聞いてりゃ、なんだい。ひでえことばかりだから死にてえだの、裏切られてから生きたくねえだの……甘えんのも、大概にしな」

「甘えてなんて……」 

「こんな時代だ。誰もが平等の幸せなんざ得られねえ……いつの時代でも、人ってえのは、どうしてそうないものねだりばかりするかね……願っても、叶わねえことなんざ、テメエが一番分かっているっていうのに」

 泡沫は軽く頭をかきながら言う。

「いつもそうさ。時代が悪い、環境が悪い、人が悪い……嫌なことは、全部他人のせい。そのくせ、その時代の荒波にも自らの境遇にも、抗おうとしない。流れに身を任せて、救われるのをただひたすら待つだけ……そんな奴に、掴めるものなんざあるわけねえだろ」

「だけど、だったら、どうすればいいっていうんですか。抗おうにも、私達は生まれた時からその運命は決まっている。店に売られた私達に、何が……誰が、助けてくれるっていうんですか!?」

 小雨の瞳から、黒い涙が漏れ出た。

 ――そうだ、それでいい。全部吐き出しちまいな。

「誰かに愛されたかった。誰かに必要とされたかった。誰かに、護ってほしかった……誰かに、手を引いて、あの地獄から、連れ出してほしかった……! そう思うことは、そんなに、いけないことなんですか!?」

 小雨は気付いていないだろうが、彼女が何かを叫ぶ度に、泣きじゃくる度に、その言葉が、涙が、周囲に黒い文字となって現れている。

 まるで彼女の心を曝くように。


     『

           『


「こんな気持ち、知りたくなかった……こんな気持ちになるくらいなら、恋なんてしなければ良かった」


       『

               『

 『


 また文字がこぼれ落ちた。


「恋に落ちれば死ぬ……本当に、その通りだった……恋を知ったせいで、こんなに……っ」


      『

』            『


 また単語が零れ落ちる。


 ――そうだ、そうだ……もっと気持ちを、あふれ出せ。その先に、お前さんがいる。


「せせ姉さん……っ……私は……」


      『せせらぎ!!』


 きた!

 「せせらぎ」という単語が彼女から零れ落ちた瞬間、その文字は黒から白を帯びた灰色に変化した。そして、ぐにゃり、と形を変えて――


「やあ、せせらぎ


 人の姿になった。

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