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第31話

「やあ、小雨。気分は、良くはなさそうだけど、無事で何よりだよ」

 そう泡沫は、目の前で浮かぶように立っている小雨に言った。

 果てのない空間。川の流れでも描いたような、透明な世界。

 視覚でとらえる事ができるのは、景色のように浮かぶ文字の羅列のみ。

 まるで絵巻だな、と泡沫は思った。

 紙の上に墨で描かれた、物語。

 墨は文字となり、文字は言葉になり、言葉は語り、語りは文学へと姿を変える。

 文字だけでは言葉にはならない。

 文字は単語となり、単語は述語となり、文字ははじめて言葉になる。

 しかし、ここにある文字は本当にただの文字だ。

 殴り書きしたような墨がにじんだ文字。それが無数に空間に浮かんでいる。もしかしたら、元は何かの言葉だったのかも知れないが、言葉が引き裂かれたように文字がばらばらになって周囲に浮かんでいる。

 そして、そんな文字の海の中に小雨が浮かんでいた。


 ――本当に、人の心ってのは、理解に苦しむな。


 分かりやすい言葉を使えば、ここは小雨の心の世界。思想して思案した、思いの中。

 そして、この文字の羅列が小雨の心。

「あっしには、人の心ってえのが分からねえ。人の言葉に傷ついて、人の言葉に救われて、前を向いたり、落ち込んだり、諦めたり、勇気をもらったり、そして……殺したり」

「泡沫様……」

 小雨はどこかぼんやりとした目で、泡沫を見た。

「どうして……」

「そいつは方法かい? それとも、あっしがここに来た理由かい?」

「……」

 小雨は答えない。おそらく自分でも、何を聞いていいのか分からないのだろう。

「まあ、アレだ。どうしても理由が必要ってんなら、あっしは、お前さんの姉さんに頼まれて、お前さんを迎えにきたんだよ」

「ねえ、さん?」

「ああ、雲雀にね」

「!」

 小雨は驚いたように、目を見開いた。

「う、うそです! 雲雀姉さんは……」

「聡いお前さんのことだ。本当は、どこかで分かっちゃいたんだろう? あの子が、お前さんのことを思って言ったってことくらい」

「そんなの、あるわけない! だって、雲雀姉さんは、いつも脅すような事ばかりで、私達を……」

「それも、一種の愛情だろ。あんな世界だ。優しさだけじゃ、生きられねえ。だから、せせらぎが優しさでお前さんを包んだように、雲雀は、お前さん達に厳しく接した。何も知らないまま、何かを知る方がつれえってことを、あの子は誰よりも知っているからね」

 あの時の幼女が十分成長したもんだ、と泡沫は小雨を探して町を駆け回っていた雲雀の姿を思い浮かべながら思った。

 まあ、今は雲雀のことよりも――

「小雨、戻ろう」

「戻るって……」

「今、お前さんの身体はせせらぎの残留思念に取り憑かれた状態だ。だけど、所詮は思念の欠片。本体であるお前さんが目覚めれば、肉体の権利はお前さんに戻る」

「い、やです」

 小雨は自分の身を抱きしめながら、かぶりを振るった。

「だって、それってささ姉さんを殺すってことですよね?」

「そいつは違う。せせらぎはもう……」

「幽霊でも、構わない。私の肉体が欲しいのなら、せせ姉さんにあげます! だって、私、もう……こんな世界で、生きていたくないっ」

 泣き出した幼児のように、小雨は膝を抱えて丸くなった。

 彼女の気持ちに呼応するように、周囲に浮かんでいた文字の滲みが酷くなり、黒い染みのように変化した。

筆から落ちた一滴の墨のように、黒い滲んだそれは周囲を少しずつ侵食していく。

 無数の黒い点がやがて白い紙を全てを真っ黒に染めてしまうように。

「だって、酷いことばっかり……今まで、なにひとつ、いいことなんてなかった!」

 文字が一つ黒く滲んだ。

「何一つ、報われたことなんてなかった……!」

 また一つ文字が滲んで、黒い点に飲み込まれた。

「希望をくれた姉さんが死んで、唯一信じていいかもって思ったあの人にも、あんな形で裏切られて……もう、何も見たくない……何も、聞きたくないっ」

 小雨の願いを叶えるように、周囲に浮かんでいた黒く滲んだそれは小雨の身体にまとわりつき始めた。このまま放っておけば、彼女の願い通り、彼女の身体は同じ黒の渦の中に呑まれて、何も見えず、聞こえなくなるだろう。

「誰とも、会わなければ良かった。誰にも会わなければ、好きな人も嫌いな人も現れない。希望も、絶望も、何もない……誰にも会わず、何も抱かず……白紙の巻物みたいに……」


「小雨!」


 泡沫は黒い渦に身を任せたままの小雨に手を伸ばした。

「ぐっ……」

 拒絶するように、伸ばした泡沫の手に黒い泡が纏わりついた。それに触れた瞬間、皮膚が剥がされたような痛みが走り、泡沫は手を引っ込めた。

「ひでえこと、しやがるな」

 泡沫は自分の手を見ると、黒い泡が触れた箇所が火傷したように腫れ上がっていた。

「生娘は、腫れ物を扱うように、優しく扱えとは、よく言ったもんだな。だが……」

 泡沫はそこまで言うと、一度言葉を切る。

 そして、両目を閉じ――


「……っ!」


 次の瞬間、泡沫が目を見開くと、泡沫の身体が変化した。

 爪は獣のように鋭く伸び、頬には文字が浮かんだ。そして頭には狐の耳、背中からは九つの尻尾。


「古参妖怪を、舐めてもらっちゃ困るな」


 狐色の光を纏いながら、泡沫はまた黒い渦の中に腕を突っ込んだ。


『水の泡の 消えで浮き身と いひながら 流れて猶も たのまるるかな!』


 泡沫が詠むと、狐の尻尾の先から蛍火に似た光が飛び出し、向かって来た黒い泡を一つ一つ弾けて壊した。

「あっしは、泡沫。弾けて消える、泡の化身……泡から生まれたあっしに、水が効くわけねえだろ」

 小雨の周囲に浮かんでいた黒い文字が一斉に泡となって泡沫に向かってきたが、それらは泡沫が手で制するだけで、弾けて飛んだ。


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