――どうして、酷い事ばかり起こるんだろう。
小雨は、ぼんやりとした意識の中にいた。
身体は水の底へ沈むように、重く――しかし浮いたように軽い。
――このまま死んでしまうのかな?
――もしそうなら……
「散々な、人生だったな……」
思えば、泣いてばかりの人生だった。
物心ついた頃には花街に売られ、その時からずっと泣いていた。泣いて、泣いて――本当に雨のようにジメジメした子だった。
小雨という名前も、泣いてばかりの自分にはとても似合いの名前だと思っていた。
――『そんなに泣いてばかりいると、目玉がとれちゃうわよ』
そう言って、
――だけど、そのせせ姉さんがいなくなって、私の世界は終わってしまったんだ。
誰よりも明るくて優しくて、繊細な美しさを持っていた。「私、恋をしているの」そう口にした時から、その美しさはより増し――いつもの男を惑わすような色香を含んだ美しさとは違った、春に桜が咲くように、夏の夜空を彩る花火のように、秋の満月ように、冬に見た日の出のように――そんな、見ているこっちが幸せになるような、そんな優しい顔になった。
恋に落ちてから、彼女はどんどん愛らしくなっていった。傍で見ていたからこそ、彼女の変化が分かり、それが恋をしているからだと悟った時からは、自分も恋というものに憧れを抱くようになった。
もし恋に落ちたら幸せになれるだろうか。
もし恋に落ちたら明るくなれるだろうか。
こんな自分でも、恋が出来るだろうか――。
そんな淡い期待を持って、恋への憧れを胸に秘めて生きてきた。
しかし――それは最悪な形で裏切られた。
自分に優しくしてくれた男は、自分の友人や姉を死に追いやった張本人で、自分のことも道具程度にしか思っていなかった。
――この人なら、全てを捧げてもいいって思えたのに……裏切られた!
――こんな苦しい想いをするなら、恋なんてするんじゃなかったな。
――恋に、憧れたりしなければ……
――恋、なんかに!
こぽ、
と目の前に泡が弾けた。
泡はどんどん上へと登り、日の光に飲まれてゆく。反対に、自分の身体はどんどんほの暗い水底へと吸い込まれていき――
「……もう、いっか。どうせ死ぬんだし……」
散々な人生だったけど、大体みんなそんなものだ。好いた人が出来たって、どのみち花街でそれが成就する事はない。恋に落ちる以前に少女のまま死んでゆく娘もたくさんいる。自分だけが不幸なわけではない。自分だけが可哀想なわけではない。
――分かっている。分かっているけど、私は……幸せに、なりたかった。
――願った所で無駄だって分かっていても、幸せになりたかった。
――願うこともバカにされるって分かっていても、幸せになりたかった。
――幸せになることは、そんなにいけないこと、だったのかな?
こぽり、とまた口から泡が零れた。
――でも、それも終わり……これで、全部終わる。
――やっと解放されるんだ。
――この苦い想いも、恨めしいと思う醜い想いも、全部終わるんだ。泡となって、消える。これで、やっと……
身体がだんだんと重くなり、誰かに足を引っ張れるように、底へと落ちていく。
もう十分酸素を吐き出したのに、意識はまだはっきりとしており、それが余計に息苦しさを生む。
水の底まではまだ遠い。
――まだかな。
そんなことを考えながら、流れに身を任せていると――
『もろともに――』
ふいに、歌が聞こえた。
『我をも具して、散りね花――』
歌が、頭の中で反響した。
『うき世をいとふ心ある身ぞ――。そんな心境かな? お嬢さん』
場違いな明るい声が問いかけてきた。その声には、聞き覚えがある。
あの時、私を慰めてくれた、優しい手の、優しい声の、あの人――。
一瞬、私の中に希望が生まれた。だけど――すぐにそれを消した。
そうだ、最初から期待するからいけないんだ。
期待なんて、希望なんて、全部無意味。そんなものがあるから、余計に苦しくなる。
希望を抱くから、現実に絶望する。夢を見るから、敗れた時にひどく傷つく。
ならば最初からそんなもの、抱かなければいい。いつも通り、やり過ごせばいい。
孤独な心のまま、全てを受け入れよう。
『一人の旅路は寂しかろう。どうだい、お嬢さん。あっしにお供をさせてくれませんか?』
――やめて。
『あの世への旅路じゃありやせん。今生の旅路に……』
――お願い、やめて。期待させないで。希望を抱かせないで。これ以上、傷つけないで。
『お嬢さんの旅路に、あっしも混ぜてくれませんか』
「やめてっ! さっきから、あなたは誰ですか? どうして、そんなこと、言うんですかっ……私はやっと受け入れたのに。やっと、全部、諦めて、受け入れたのに……どうして、そんな風に……希望を抱かせたりするんですかっ!?」
『あっしですか? あっしはただの……』
天から伸びてきた腕は、いとも簡単に吐き出した泡をかき消し――「私」の身体を掬いとった。
そして、囁くように言った。
『行商人ですよ』