「小雨!」
真っ直ぐ料亭に向かった泡沫は、屋根の上で獣ような姿で這っていた『鬼』に声をかける。
着崩れた着物。黒い文字で黒く染まった肌。そして、胸元で根を張る巻物――。
「あれは……」
「おい、うた。侵食が早くねえか? 『妖怪絵巻』の気配がしたのってさっきだろ?」
「ああ、あらかじめ目をつけられていたとしても、早すぎる」
胸元の巻物から伸びた糸は彼女の心臓と繋がっているように、時折どくんどくんと動きながら、彼女の体内に根を張っている。
「もう半ばまで侵食されているみてえだな。あのままだと……本当に鬼になっちまうぞ」
「分かっている。あの子を、酒呑童子にはさせないよ」
酒呑童子――。
かつて京で悪行の限りを尽くしたため、人間によって討伐された鬼。
しかしながら酒呑童子は他の鬼とは異なる。むしろ本物の鬼からすれば、酒呑童子は異質であり、鬼であって鬼でない。
元は人間だった――後天的な鬼。それが酒呑童子。そして今――。
「恋に破れた女達の【怨念】を吸い込んでオニと化す……そして、同じように恋に破れた【怨念】に取り憑かれたら……」
泡沫がそこまで言った時。
小雨と思われる影が、大きく飛び上がった。当然、周囲の人にはその姿は見えていない。
よく目を凝らして見ると、小雨の腕には男の身体が抱えられている。
「男? おい、うた。もしかして、アイツが」
「ああ、雲雀が言っていた優男のようだね。だいぶ女を泣かしてきたようだからね。見捨てた所で自業自得だろうが……」
「バカ言うなよ。あの男が、あの嬢ちゃんの意中の相手なんだろ? もし嬢ちゃんがあの野郎を食っちまったら、それこそ、本当にオニになっちまうぞ」
「ああ、分かっている。だから、不本意だが……助けに行くよ」
「だが、うた。場所は分かるのか?」
小雨が消えた後、泡沫はそれを追う形で走り出した。それを追いながら、賀照が問うと、泡沫は彼を振り返らずに答えた。
「おおよその検討はつく。今回の騒動の主は、最初に心中……いいや、殺された遊女。小雨の姉さん、
雲雀の話では、鴨ノ助から身請けの話が出ていた遊女・
そして女遊びの激しい鴨ノ助は、それからも遊女だけでなく、
「おい、うた。それなら、今回の一件は、あの野郎に恋した事が原因ってことか?」
「まあ、それもある。だが……」
と、泡沫はそこまで言うと、唐突に立ち止まった。
場所は、人気のない河原。散った桜の木が月光を浴びながら不気味に揺れている。
そして、その桜の木のすぐ傍に、夜闇と同化しそうな程に黒に塗り潰された少女・小雨が佇んでいた。
「五月雨の――」
泡沫が歌いながら一歩近付く。
「空だにすめる月影に……」
また一歩。
「涙の雨は はるるまもなし――。そんな心情かな? お嬢さん」
『……』
本来白い筈の部分まで黒に塗り潰された瞳で、小雨は振り返る。
瞼からは黒い涙が零れ――、脇には男の身体を抱えていた。
対する泡沫は両腕を袖口に突っ込みながら、優雅な動作で近付く。
「よしなさいな。それは、お前の歌じゃないよ、小雨」
『……』
黒に染まった小雨が、ゆっくりと振り返った。首の骨が異様な動きをしており、人間らしさを失いつつある。
「『五月雨の 空だにすめる月影に 涙の雨は はるるまもなし』……平安の女流歌人、
赤染衛門が亡き夫を偲んで歌ったものと呼ばれる歌。
「あっしも、最初は分かりませんでしたよ。何故、その歌だったのか……だけど、今なら分かる。大事な人の死を悼み、哀しんで生まれた歌だからこそ、お前さんは惹かれたんだろうな……そうだろう?
『……』
小雨は、答えない。
「おい、うた。何言ってんだ? その子は小雨で、
「お前さんも、鈍い男だね。『妖怪絵巻』がどういうものか、分かって言ってんのかい?」
「分かってって……ようは、恋に破れた女どもの怨念だろ? それを百に封じた……」
「お前さん、本気で分かっていないのかい。まったく、やれやれのやれだね」
と、泡沫は小さく溜め息を吐く。
「そう、『妖怪絵巻』は、いわば女の怨念。かつて恋心を文字に託して送ったにも関わらず、無下に扱ったがゆえ、文字に秘められた想いは怨念となって想い人を食った。その結果、生まれたのが、酒呑童子……」
酒呑童子伝説の発端。
そして、鬼と化した酒呑童子を討伐した際、彼を鬼に変えた怨念が外へと漏れ出し――それを百に分けて封印したのが、『妖怪絵巻』である。
「ゆえに『妖怪絵巻』は、人を求める。【怨念】の力の源である、恋する乙女を……そして『妖怪絵巻』を詠み、そこに込められた物語を、歌を、想いに同調した人物に取り憑き……意中の相手を食らいに行く。かつての酒呑童子のようにね」
泡沫は語りながらも一歩、また一歩と小雨に近付く。
そして、ある程度近付くと、懐から扇子を取り出し、彼女に向ける。
「ゆえに、これは物語に同調した乙女でなければならない。そして、五月雨の物語は愛しい人を喪ったがゆえ、恋を失った乙女の悲恋を描いている……つまり、お前は小雨じゃない」
『……ふっふふふふふ』
泡沫が言い放つと、小雨が不気味な笑い声を上げた。
彼女の笑い声は川を乱し、渦となった。
気付かないうちに、彼女が立つ橋の近くだけ黒い雲が集まり――先程の料亭のように、そこだけ雨が降ってきた。
「何だ、こりゃ!?」
川の中の渦は勢いを増し、波となって周囲を濡らす。
天変地異の前触れのように荒れた川と空。賀照は、背中の太刀に手を伸ばしながら周囲を見る。対する泡沫は、ただ真っ直ぐ小雨だけを見ていた。
「
『よく分かったわね』
脳内に、見知らぬ女の声が直接響いた。
『そう、私は
「検討はつくが、一応お前さんの口から聞かせてもらおうか。どうして、そうなった?」
『あの時、愛する人を失った私は、ひどい絶望と憎悪に飲み込まれた。だって、そうでしょう? やっと掴みそうだった幸せを、目の前で踏みにじられたんだもの。恨んで当然、恨まれて当然でしょう』
と、小雨――改め
『この男が、私の愛しい人を奪ったの。恨んで憎んで、殺したく殺したくて殺したくて殺したくて……だけど、もう私にはそれをする力が残っていなかった。そんな時、絵巻が力を貸してくれたの』