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第7話

 ――本当に出てきて良かったもんか。


 夜霧の店を後にした泡沫は、追求せずに出てきたことを後悔した。

 ――あいつが何もしねえなんてことはねえ。

 今回の事件だけでなく、この街全体にあの男が絡んでいる。そう泡沫は考えるが、決定的証拠がないのも事実だ。

 ――あいつが絡んでいようがいめえが、こっちのやるべきことは変わらねえ。

 ――全ての絵巻を回収する……


 それが、自分の使命であり、この街にいる理由だ。

 泡沫は決意を新たにするように顔を上げて歩き出し――


「その前に、甘味処でも寄っていくか。糖分が足りねえ」



       三



 ――変な人だったな。


 座敷の後片付けをしながら、小雨はぼんやりと昼間に出会った青年――泡沫のことを思い出す。

 どこか神秘的で浮き世離れした青年。

 ――それに、名前なんて......。

 花街で呼称は意味をなさない。何故なら、花街に入った時に元々あった名前は捨て、新しい名前をつけられる。小雨という名も、小雨が花街に入った時に店から与えられた呼称であり、本来の名前ではない。

 「泣いてばかりでジメジメしているから、小雨」。

 売られた当初、絶望して泣いてばかりいた小雨に、女将はそう言った。名前の由来を知っている遊女や禿かむろからもよくからかわれる。

 ――初めてだったな。綺麗な名前なんて、言われたのは。

 行商人の泡沫の噂は、小雨も知っている。

 どこか浮き世離れした、不思議な雰囲気を持った美青年。

 南蛮の品を中心に珍しい品を仕入れては、花街にも回してくれる、気のいい行商人。

 その物腰柔らかな姿勢に惚れる女は多く、花街でも彼に恋する遊女はいる。

 彼の友人は別の意味で花街では有名であり、常連でもあるが――泡沫が客として花街を訪れることはない。だから、彼に恋い焦がれる遊女も、仕事として彼に触れることも叶わない。

 そんな高嶺の貴人として、彼は有名だった。

 ――驚いた。

 そんな相手と、あんな形で会うことになるとは。

 ――綺麗な人だったな......睫が長くて、肌も透き通るように白くて。

 彼に触れられた感触を思い出し、小雨は一人顔を紅くした。


「小雨」


 後ろから声をかけられ、小雨が振り返ると、案の定そこには見知った顔があった。

厚切あつぎり様」

 良質な羽織に、整った顔。この色街では嫌でも目立つ。

 名を厚切 鴨ノ助かものすけ。名家の出でありながら、よく色街で夜遊びをしており、この近隣では有名な男だ。仕事の鬱憤などが溜まると色街に出かけるらしく、彼からすればほんの息抜き程度の遊びかも知れないが――

「久しぶりだね、小雨」

「はい、厚切様......」

 小雨は小さく頷いた。深く俯いてしまったせいか、鴨ノ助に扇子で顎をすくい取られた。

「どうしたんだい? 小雨」

「どうとは......」

 首を縦にも横にも触れず、小雨は彼と目を合わせる。

「さっきから、私と全く目を合わせてくれない。寂しいじゃないの」

「申し訳ございません」

「ああ、ごめんね。謝ってほしいわけじゃないんだ。私は......」

 と、彼は小雨の腰に手を伸ばし――

「君と、仲良くなりたいだけなんだ」

「厚切様......」

 禿かむろは、名前を呼ばれる事が少ない。それゆえ、名前を呼ばれるということだけで特別さを感じ――つい勘違いしてしまいそうになる。

 ――厚切様に呼ばれると、この名前も明るく聞こえる。

「小雨......お前は、私の事は、嫌いかい?」

「そんなことは......」

「なら、話が早い」

 鴨ノ助はさらに抱き込むように小雨の身体と密着し――耳元で囁いた。

「私は、お前が欲しい。意味は、分かるだろ?」

「......っ」

 低い声に、脳が痺れた。彼が触れた箇所だけ異様に熱を持った。

「私が毎日通っているのも、全部お前に会うためだ。大の大人が、みっともないって思うかい?」

「そんなこと......だけど、厚切様は……」

「私だって不思議だ。今まで、数多くの女子を見てきた。だが、ここまで心を奪われたのは、お前が初めてだ。朝も、夜も、もうお前の事で頭がいっぱいだ......なあ、小雨。お前は、どうなんだい?」

「わ、私は......」


「そこで何をしているの?」


 凛とした声が、両者を引き裂いた。


 振り返った先には、妖艶な少女が立っていた。

 黄色を基調とした派手な着物。胸の谷間が強調された、男を誘うような着こなし。頭には、蜻蛉玉の簪が光り――立っているだけで、圧倒的な存在感がある。

「まるで逢瀬のようね」

 と、彼女は小雨と鴨ノ助を交互に見た。

「ああ、雲雀ひばりじゃないか」

「厚切の旦那こそ、随分とご無沙汰だったじゃないの」

 遊女の雲雀の存在に気がつくと、鴨ノ助はあっさり小雨から離れた。

「それより、旦那。うちの禿かむろに何の用だい? 禿かむろならただで遊べるとか思っているんじゃないだろうね」

 雲雀が怪しむように目を細め――思わず小雨は肩を震わせた。

 対する鴨ノ助は、その視線から庇うように小雨の前に出た。

「まっさか......彼女とは、ちょっとした知り合いなだけだよ。ほら、私は彼女の姉さんだった、せせらぎとよく遊ぶ仲だっただろう?」

「そういえば、旦那はせせ姉狙いだったね」

「いや、別に狙っては……」

 雲雀の言葉に、鴨ノ助は困ったように苦笑した。

「まあ、そんなわけだから。そう妬かないでおくれよ」

「ならいいけど......それより、今日は今からだろ? 勿論、わっちを指名してくれるんだろう?」

「今日は一人で飲みたい気分なんだけど......」

「そう言わないで。疲れさせるような事はさせないから、ねえ?」

 と、雲雀は鴨ノ助の肩に腕を回し、ねだるように言った。


 ――色っぽいな。


 そんな二人のやり取りを見て、小雨はそんなことを考えていた。

 ――私とは、大違い。顔も、身体も......全部。


「じゃあね、小雨」

「あ......」

 彼の声でハッと我に返ると、既に彼は軽く手を振って去っていく所だった。

「あの男はやめておきな」

 ふいに、雲雀に言われた。

 先程の甘えた様子とは打って変わり、鋭い目つきで彼女は小雨を睨み付けた。

「あんただって、分かっているんだろう? わっちや姉さん達以上に、あんた達には無理だ。せいぜい勤務に励む事だね。叶わない夢なんざに現を抜かさず、現実を見な」

「......」

 小雨は何も言い返せず、俯くように頭を下げた。


「それは言い過ぎなんじゃないかい」


「......!」


 黄昏を背負って、その男は微笑んでいた。


「泡沫様!」


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