――本当に出てきて良かったもんか。
夜霧の店を後にした泡沫は、追求せずに出てきたことを後悔した。
――あいつが何もしねえなんてことはねえ。
今回の事件だけでなく、この街全体にあの男が絡んでいる。そう泡沫は考えるが、決定的証拠がないのも事実だ。
――あいつが絡んでいようがいめえが、こっちのやるべきことは変わらねえ。
――全ての絵巻を回収する……
それが、自分の使命であり、この街にいる理由だ。
泡沫は決意を新たにするように顔を上げて歩き出し――
「その前に、甘味処でも寄っていくか。糖分が足りねえ」
三
――変な人だったな。
座敷の後片付けをしながら、小雨はぼんやりと昼間に出会った青年――泡沫のことを思い出す。
どこか神秘的で浮き世離れした青年。
――それに、名前なんて......。
花街で呼称は意味をなさない。何故なら、花街に入った時に元々あった名前は捨て、新しい名前をつけられる。小雨という名も、小雨が花街に入った時に店から与えられた呼称であり、本来の名前ではない。
「泣いてばかりでジメジメしているから、小雨」。
売られた当初、絶望して泣いてばかりいた小雨に、女将はそう言った。名前の由来を知っている遊女や
――初めてだったな。綺麗な名前なんて、言われたのは。
行商人の泡沫の噂は、小雨も知っている。
どこか浮き世離れした、不思議な雰囲気を持った美青年。
南蛮の品を中心に珍しい品を仕入れては、花街にも回してくれる、気のいい行商人。
その物腰柔らかな姿勢に惚れる女は多く、花街でも彼に恋する遊女はいる。
彼の友人は別の意味で花街では有名であり、常連でもあるが――泡沫が客として花街を訪れることはない。だから、彼に恋い焦がれる遊女も、仕事として彼に触れることも叶わない。
そんな高嶺の貴人として、彼は有名だった。
――驚いた。
そんな相手と、あんな形で会うことになるとは。
――綺麗な人だったな......睫が長くて、肌も透き通るように白くて。
彼に触れられた感触を思い出し、小雨は一人顔を紅くした。
「小雨」
後ろから声をかけられ、小雨が振り返ると、案の定そこには見知った顔があった。
「
良質な羽織に、整った顔。この色街では嫌でも目立つ。
名を厚切
「久しぶりだね、小雨」
「はい、厚切様......」
小雨は小さく頷いた。深く俯いてしまったせいか、鴨ノ助に扇子で顎をすくい取られた。
「どうしたんだい? 小雨」
「どうとは......」
首を縦にも横にも触れず、小雨は彼と目を合わせる。
「さっきから、私と全く目を合わせてくれない。寂しいじゃないの」
「申し訳ございません」
「ああ、ごめんね。謝ってほしいわけじゃないんだ。私は......」
と、彼は小雨の腰に手を伸ばし――
「君と、仲良くなりたいだけなんだ」
「厚切様......」
――厚切様に呼ばれると、この名前も明るく聞こえる。
「小雨......お前は、私の事は、嫌いかい?」
「そんなことは......」
「なら、話が早い」
鴨ノ助はさらに抱き込むように小雨の身体と密着し――耳元で囁いた。
「私は、お前が欲しい。意味は、分かるだろ?」
「......っ」
低い声に、脳が痺れた。彼が触れた箇所だけ異様に熱を持った。
「私が毎日通っているのも、全部お前に会うためだ。大の大人が、みっともないって思うかい?」
「そんなこと......だけど、厚切様は……」
「私だって不思議だ。今まで、数多くの女子を見てきた。だが、ここまで心を奪われたのは、お前が初めてだ。朝も、夜も、もうお前の事で頭がいっぱいだ......なあ、小雨。お前は、どうなんだい?」
「わ、私は......」
「そこで何をしているの?」
凛とした声が、両者を引き裂いた。
振り返った先には、妖艶な少女が立っていた。
黄色を基調とした派手な着物。胸の谷間が強調された、男を誘うような着こなし。頭には、蜻蛉玉の簪が光り――立っているだけで、圧倒的な存在感がある。
「まるで逢瀬のようね」
と、彼女は小雨と鴨ノ助を交互に見た。
「ああ、
「厚切の旦那こそ、随分とご無沙汰だったじゃないの」
遊女の雲雀の存在に気がつくと、鴨ノ助はあっさり小雨から離れた。
「それより、旦那。うちの
雲雀が怪しむように目を細め――思わず小雨は肩を震わせた。
対する鴨ノ助は、その視線から庇うように小雨の前に出た。
「まっさか......彼女とは、ちょっとした知り合いなだけだよ。ほら、私は彼女の姉さんだった、
「そういえば、旦那はせせ姉狙いだったね」
「いや、別に狙っては……」
雲雀の言葉に、鴨ノ助は困ったように苦笑した。
「まあ、そんなわけだから。そう妬かないでおくれよ」
「ならいいけど......それより、今日は今からだろ? 勿論、わっちを指名してくれるんだろう?」
「今日は一人で飲みたい気分なんだけど......」
「そう言わないで。疲れさせるような事はさせないから、ねえ?」
と、雲雀は鴨ノ助の肩に腕を回し、ねだるように言った。
――色っぽいな。
そんな二人のやり取りを見て、小雨はそんなことを考えていた。
――私とは、大違い。顔も、身体も......全部。
「じゃあね、小雨」
「あ......」
彼の声でハッと我に返ると、既に彼は軽く手を振って去っていく所だった。
「あの男はやめておきな」
ふいに、雲雀に言われた。
先程の甘えた様子とは打って変わり、鋭い目つきで彼女は小雨を睨み付けた。
「あんただって、分かっているんだろう? わっちや姉さん達以上に、あんた達には無理だ。せいぜい勤務に励む事だね。叶わない夢なんざに現を抜かさず、現実を見な」
「......」
小雨は何も言い返せず、俯くように頭を下げた。
「それは言い過ぎなんじゃないかい」
「......!」
黄昏を背負って、その男は微笑んでいた。
「泡沫様!」