泡沫が店から出て行った後、夜霧はくつくつと笑った。
誰もいない部屋は、主人の低い笑い声が静かに響いた。
「あー、やはり狐は嫌ですね。妙に目敏い。それでも、あの程度の揺さぶりで許してくれたのは鬼の坊やの影響か、それとも人間どもか……」
夜霧は懐から黒い絵巻を取り出す。
「小生が関わっていないかだって? そんなの……関わっているに決まっているじゃないですか」
肩を震わせ、堪えていたものを吐き出すように夜霧は声を上げて笑い出した。
「二度あることは何度でもあるもんでしょう。まあ、あの時と違う所があるとすれば、今の小生は演出家って所ですかね……人を鬼に昇華させるためには、より強い憎悪と悲哀が必要。だから、小生は演出しているに過ぎない……」
泡沫達が酒吞童子の邪気の欠片の入った「妖怪絵巻」を回収しているのだとすれば、夜霧はその逆を行っている。
「小生は、貸本屋。人と本には、相性がある。どんな物語が合うかどうかの相性が……だから小生は、巡り合わせているだけ。物語に、歌に、そして描かれた悲劇に。絵巻と相性のいい人間と、絵巻を巡り合わせる……後は、人間が勝手に壊れて、心を奪われるだけ。小生のせいじゃありません」
夜霧は、手に持った絵巻に語りかけるように言う。
「妖怪もどきの酒吞童子を嫌い、復活を阻止させたい奴もいれば……酒吞童子の邪悪さに惚れ込み、復活させようと心酔している奴もいる。そして、小生のように……ただ、物語の行く末を、時々ちょっかいかけながら、見ている奴もいる」
酒吞童子の復活を阻止するために絵巻を封じる側と、酒吞童子を復活させるために絵巻をばらまく側。もし物語なら、彼らは主人公と、その前に立ち塞がる敵といった所だ、と夜霧は考える。
「でも、物語は一人じゃ生まれません。ちゃんと演出し、より良い結末に辿り着けるように整理する役目が必要……だから、せいぜい、踊ってくださいね……狐の旦那」
と、その時、夜霧の手の中にあった絵巻が淡く闇を放ち始めた。
絵巻に巻き付けられた赤い紐が緩みだし、カタカタと震えだす。
「よく大人しくしていてくれましたね。もう少しの辛抱ですから……きっと小生が、あなたに相応しい器を見つけてみせますよ……おや?」
ふいに、巻物から雫が零れ落ちた。
ポタポタ、と続けて数滴の雫が零れ――床に黒い跡がこびりついた。
まるで筆から零れ落ちた墨のように。
違う所があるとしたら、墨と違って、水滴として残ることも、泡となって弾けることもなく、影のように床に張りついている所くらいだろうか。
「これは……」
夜霧はその影の水滴を興味深く見つめた後、にたり、と笑った。
「そうか、そうか。次の宿主を見つけたんですね……それじゃあ、いってらっしゃい……新しい悲劇で、楽しい物語を、見せてくださいね」
絵巻は独りでに動き出す。そして夜霧の手から離れ、浮遊しながら外へと向かった。
それを見送りながら、夜霧は張りつけたような笑みを止め、無表情で大きく息を吐いた。
「昔のお前なら、簡単に見破っただろうに……本当に甘くなったな、狐」
そう吐き捨てるように言った夜霧の目には、憎しみとも哀しみとも言えない、深い闇が渦巻いていた。
「人間なんかに、情けをかけた所で、あいつらは同じことを繰り返す。それを知らないわけではあるまい」
「あ、あのー」
その時、入り口から少女の声がした。
暖簾をかき分けて少女が入った途端、蝋燭の灯が大きくなり、部屋全体を淡く照らし始めた。
自分の影が二重となって踊る中、少女は不安そうな顔で夜霧に近づく。
「あらあらのあらですね。お客さんとは珍しい……」
「あ、あの、私、その……」
見るからに高そうな着物に、派手な色の帯。そして、頭には桜のかんざし。
いい所のお嬢様といった感じの娘は、とても『繫華街区』に出入りするようには見えない。
となると、理由は一つ。
夜霧は笑みを深めた。
「ようこそ、お客さん。あなたを待っていました」
「え? 私を……」
「ええ、ここは『貸本屋』。物語と人を巡り合わせる、本と人の仲介所です。きっと、あなたに相応しい、素敵な恋の物語と出会えますよ」
「こ、い……?」
少女の瞳が陰った。
そして、何かに導かれるように夜霧に手を伸ばす。
夜霧はそれを見て、懐から新しい絵巻を取り出す。絵巻に巻き付けられた赤い紐が自ら少女を求めるように緩み始め――
「きっと、あなたに相応しい、恋の歌です」
夜霧が微笑むと同時に、赤い紐は少女の指から腕に巻きつき――
「キエアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
貸本屋で、慟哭が響いた。