おそるおそる襖から、少女が顔を出した。
花街にしては地味な色の着物を着たやせた少女。
芸妓と異なり、前髪は下ろしたままであり、右側の耳の下で一つに結われ、顔も素顔のままである。
「女将さんに言われて、お酒の追加を持って参りました」
と、少女はおそるおそる酒の瓶を泡沫に差し出した。
顔を畳にこすりつけるように低く顔を下げる少女に、泡沫は手を伸ばした。
「お嬢さん、名は?」
「え......」
まさか名前を訊かれると思わなかったのか、少女はひどく驚いた顔で泡沫を見上げる。
――このなり、
「......」
泡沫に顎を掬い取られた少女は、しばしの間、彼と見つめ合う。
その様子を見ていた賀照が小さく口笛を吹き――何となく癪に障った泡沫は、彼女に見えないように、扇子で彼の横っ腹を突いた。
「うた、てめえ」
腹をおさえたまま賀照が抗議の声を上げたが、泡沫はそれを無視して目の前の少女に問うた。
「お嬢さん、お名前を教えてはくれないかい?」
「い、いえ、私は、姉さん方とは違って、まだお座敷には......」
「ああ、知っているよ。だから、お前さんの名前を訊いているんだ」
「えっと......
少女――小雨は、恥ずかしそうに顔を背けながら言った。
「そうか。じゃあ、小雨。ありがとう」
「い、いえ! これが、仕事ですから」
と、小雨は土下座しそうな勢いで平伏した。
「小雨、か。綺麗な名前だね」
「そんな事は......」
と、さらに畳に額を擦りつけそうな勢いの小雨の顎を掬い取ると、泡沫は彼女の顔を覗き込んだ。
「あっしは、泡沫。行商人ですよ」
「......っ」
泡沫と目が合うと、小雨はポッと頬を紅く染め、居心地悪そうに目線を泳がせた。
「小雨、まだ時間はあるかい?」
「え?」
「折角ですから、お酌を頼みたいんだが」
「それでしたら、姉さん方をお呼びいたしますが......」
教え込まれているのか、小雨が腰を浮かせた時、隣から賀照が小雨の肩に腕を回した。
「そう固ぇ事言うなよ、嬢ちゃん。ちょっとくらい、いいだろ?」
「い、いえ、私は......」
「やめんか、酔っ払い」
と、泡沫が賀照の襟巻きを引っ張り、無理やり引き剥がす。
「うぐっ」
首が絞まり、賀照は畳の上に倒れた。泡沫はそれを軽く扇子で突っつき、部屋の隅へ追いやった。
「すまないね、うちの連れが」
「い、いえ......」
「でも、折角だ。少しだけ、付き合ってくれないかい?」
泡沫が身体を近付け、囁くように言うと――小雨は恥ずかしそうに俯きながらも、小さく頷いた。
「ありがとう」
「い、いえ......仕事、ですから」
まるで言い聞かせるように、小雨は言った。
「そうかい。お前さんは、真面目なんだね」
「そんな事は......」
「あまり否定から入るもんじゃないよ、お嬢さん」
泡沫の言葉に、小雨はようやく俯きがちだった顔を上げた。
「そう否定ばかりされちゃあ、哀しいだろう?」
「あ、申し訳ございません。そんなつもりでは......」
「ああ、分かっているさ。だが、謙遜ばかりだと、寂しいもんだ。たまには、『ありがとう』って、笑ってみせたら、どうだい? よく言うだろ、女は愛嬌だって。少しは世界が、変わってみえるかも知れないよ」
「あ、ありがとうございます」
遠慮がちに小雨は笑った。
「まあ、これも慣れだね」
と、泡沫は盃を近くの畳に置いた。
「それはそうと、小雨......噂で聞いたんだが、ここの店の子が、身投げしたっていうのは、本当かい?」
「あー、あれですね......はい」
「聞けば、少し前にもあったそうじゃないの」
「ええ、まあ......ここでは、よくあることですが」
「何か気になる事でもあるのかい?」
泡沫がすっと細い目をさらに細くした。
「身投げした
「どういう事だい?」
「
「初めてを好いた人に捧げられるなら、本望だって......これから先、何があっても、幸せだって......言っていたのに」
「小雨......」
泣き出しそうな声になった小雨に、泡沫が手を伸ばすと――彼女は我に返ったように背筋を伸ばした。
「も、申し訳ございません。お客様の前で、このような話を......!」
「あ、いや、そこまで畏まらなくても」
小雨は土下座しそうな勢いで畳に額を擦りつけ――そして、そのまま凄い勢いで襖まで退いた。
「し、失礼しました!」
そして、そのまま部屋を出て行ってしまった。
その時、一瞬だが、彼女の影が色濃く見え――
「......!」
あれは――。
「やーい、フラれてやんのー」
「やかましい」
再度、泡沫は扇子の端で賀照の腹を突いた。かなりいい音がした。
「それより、賀照。お前さんも、気付いただろ? あの小雨って子......」
「ああ、当然だ......可哀想にな」
「そうならないために、あっしらが江戸の町にいるんだろう」
そこで泡沫は立ち上がる。そして、羽織を肩に掛け直し――
「行くよ、賀照......物語を、始めに」
「終わらせに、の間違いだろ」
そう言いながら、賀照も泡沫に続いて立ち上がった。
その時、二人分の影が異様に長く伸び――怪しげに揺らめいた。