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第4話

 おそるおそる襖から、少女が顔を出した。

 花街にしては地味な色の着物を着たやせた少女。

 芸妓と異なり、前髪は下ろしたままであり、右側の耳の下で一つに結われ、顔も素顔のままである。

「女将さんに言われて、お酒の追加を持って参りました」

 と、少女はおそるおそる酒の瓶を泡沫に差し出した。

 顔を畳にこすりつけるように低く顔を下げる少女に、泡沫は手を伸ばした。

「お嬢さん、名は?」

「え......」

 まさか名前を訊かれると思わなかったのか、少女はひどく驚いた顔で泡沫を見上げる。

 ――このなり、禿かむろか。

「......」

 泡沫に顎を掬い取られた少女は、しばしの間、彼と見つめ合う。

 その様子を見ていた賀照が小さく口笛を吹き――何となく癪に障った泡沫は、彼女に見えないように、扇子で彼の横っ腹を突いた。

「うた、てめえ」

 腹をおさえたまま賀照が抗議の声を上げたが、泡沫はそれを無視して目の前の少女に問うた。

「お嬢さん、お名前を教えてはくれないかい?」

「い、いえ、私は、姉さん方とは違って、まだお座敷には......」

「ああ、知っているよ。だから、お前さんの名前を訊いているんだ」

「えっと......小雨こさめ、です」

 少女――小雨は、恥ずかしそうに顔を背けながら言った。

「そうか。じゃあ、小雨。ありがとう」

「い、いえ! これが、仕事ですから」

 と、小雨は土下座しそうな勢いで平伏した。

「小雨、か。綺麗な名前だね」

「そんな事は......」

 と、さらに畳に額を擦りつけそうな勢いの小雨の顎を掬い取ると、泡沫は彼女の顔を覗き込んだ。

「あっしは、泡沫。行商人ですよ」

「......っ」

 泡沫と目が合うと、小雨はポッと頬を紅く染め、居心地悪そうに目線を泳がせた。

「小雨、まだ時間はあるかい?」

「え?」

「折角ですから、お酌を頼みたいんだが」

「それでしたら、姉さん方をお呼びいたしますが......」

 教え込まれているのか、小雨が腰を浮かせた時、隣から賀照が小雨の肩に腕を回した。

「そう固ぇ事言うなよ、嬢ちゃん。ちょっとくらい、いいだろ?」

「い、いえ、私は......」

「やめんか、酔っ払い」

 と、泡沫が賀照の襟巻きを引っ張り、無理やり引き剥がす。

「うぐっ」

 首が絞まり、賀照は畳の上に倒れた。泡沫はそれを軽く扇子で突っつき、部屋の隅へ追いやった。

「すまないね、うちの連れが」

「い、いえ......」

「でも、折角だ。少しだけ、付き合ってくれないかい?」

 泡沫が身体を近付け、囁くように言うと――小雨は恥ずかしそうに俯きながらも、小さく頷いた。

「ありがとう」

「い、いえ......仕事、ですから」

 まるで言い聞かせるように、小雨は言った。

「そうかい。お前さんは、真面目なんだね」

「そんな事は......」

「あまり否定から入るもんじゃないよ、お嬢さん」

 泡沫の言葉に、小雨はようやく俯きがちだった顔を上げた。

「そう否定ばかりされちゃあ、哀しいだろう?」

「あ、申し訳ございません。そんなつもりでは......」

「ああ、分かっているさ。だが、謙遜ばかりだと、寂しいもんだ。たまには、『ありがとう』って、笑ってみせたら、どうだい? よく言うだろ、女は愛嬌だって。少しは世界が、変わってみえるかも知れないよ」

「あ、ありがとうございます」

 遠慮がちに小雨は笑った。

「まあ、これも慣れだね」

 と、泡沫は盃を近くの畳に置いた。

「それはそうと、小雨......噂で聞いたんだが、ここの店の子が、身投げしたっていうのは、本当かい?」

「あー、あれですね......はい」

「聞けば、少し前にもあったそうじゃないの」

「ええ、まあ......ここでは、よくあることですが」

「何か気になる事でもあるのかい?」

 泡沫がすっと細い目をさらに細くした。

「身投げした禿かむろは、同時期に店入りしたから、私にとっては姉妹のような存在でして......だから、不思議で仕方ないんです」

「どういう事だい?」

千代ちよちゃんも、朝霧あさぎりちゃんも、好いた人が出来たって......あんなに幸せそうだったのに。水揚だって、本来なら年配の人がやるのに、その人が口添えしてくれるって」

 禿かむろの水揚――即ち、最初の床入りは、通常なら四十代以上の年配の男がやるのが習わしだ。それを覆す事が出来るという事は――相手の男は、かなりの財力と権力を持っていることになる。

「初めてを好いた人に捧げられるなら、本望だって......これから先、何があっても、幸せだって......言っていたのに」

「小雨......」

 泣き出しそうな声になった小雨に、泡沫が手を伸ばすと――彼女は我に返ったように背筋を伸ばした。

「も、申し訳ございません。お客様の前で、このような話を......!」

「あ、いや、そこまで畏まらなくても」

 小雨は土下座しそうな勢いで畳に額を擦りつけ――そして、そのまま凄い勢いで襖まで退いた。

「し、失礼しました!」

 そして、そのまま部屋を出て行ってしまった。

 その時、一瞬だが、彼女の影が色濃く見え――

「......!」

 あれは――。

「やーい、フラれてやんのー」

「やかましい」

 再度、泡沫は扇子の端で賀照の腹を突いた。かなりいい音がした。

「それより、賀照。お前さんも、気付いただろ? あの小雨って子......」

「ああ、当然だ......可哀想にな」

「そうならないために、あっしらが江戸の町にいるんだろう」

 そこで泡沫は立ち上がる。そして、羽織を肩に掛け直し――

「行くよ、賀照......物語を、始めに」

「終わらせに、の間違いだろ」

 そう言いながら、賀照も泡沫に続いて立ち上がった。

 その時、二人分の影が異様に長く伸び――怪しげに揺らめいた。


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