一
江戸・
四月六日の昼下がり。
今年の桜は早かった。
一つ咲けば釣られるように、周辺の桜も咲き始め――四月も半ばの今日この頃、既に散り始め、中心街を流れる小川は桃色に染まっていた。
しかし、それを気にする素振りもなく、江戸の人々は忙しなく町を駆け回る。
「まったく、情緒の欠片もねえな……」
忙しなく行き交う商人達の波に混じりながら、
しかし、この町では当然の光景であり、泡沫のようにゆったりと歩く方がこの町では珍しい。
歩き方だけではなく、その見た目も。
黄金色の髪に、淀んだ水色の瞳。そして雪のように白い肌。
行商人の中では目立つ容姿と物腰穏やかな姿勢。
全てが風変りしており、歩くだけで無用な注目を集めてしまう。
すれ違う様に、自分に見惚れる町娘の視線を素通りし、泡沫は小さく息を吐いた。
「まあ、『商区』なら、忙しねえぐれえがちょうどいいか......なんせ、ここは、商人の町だからな」
江戸の下町は別名『
所謂花街と呼ばれる『
『専門街区』と呼ばれる場所は至る所にあるが、国が定めたわけではなく、そう呼ばれるようになったきっかけも、誰がどう区切っているかも不明だ。
住んでいるうちに、いつの間にかそう呼ばれていたという人もいれば、騒がしい商人を嫌った武家と揉めた結果、街区が設けられたと答える人もいる。
中には、「街区の区切りをなくすと、災いが起きる」と噂する者もいて、真偽のほどは定かではない。
――災い、ね。目敏い奴もいたもんだ。
――まあ、今となっちゃ、そっちの方が平和だろうしね。
泡沫は、道の隅で小石を重ねて遊んでいる、幼児を見て思った。
『商区』にいるということは商人の子どもか、その関係者に違いない。
もしここが武家も通る道だったら、今ごろ蹴り飛ばされていただろう。
――そういう点は、街区分けは正しい判断だったな。
人を避けながら、けれども肩がぶつかる中、泡沫はふいに空を見上げる。
そして目を細めて、呟いた。
「いい町だな、ここは」
街区によって特色は異なるが、その中でも『商区』は朝も昼も夜も活気溢れている。多種多様な商人達が行き交う人を口上で捕まえては、自ら仕入れた商品を売っている。
そういった商人達の姿は生き生きとしているのだが――
「四季を楽しむ余裕は、忘れちゃいけねえな」
そう言って泡沫は川辺の桜を見つめる。
「散り際すら誰にも気にも留められないなんて、哀しいもんだな......ああはなりたくねえな、お互いに」
そう泡沫が散った桜を眺めていると、すぐ傍で大きな声が響いた。
「てえへんだ、てえへんだ!」
中央橋の前。瓦版を片手に、男が通行人の注目を浴びながら叫んだ。
「また出やがった! 何がって? そりゃ奥さん、例の奴ですよ。身投げですよ! これで、もう五件目! 相手は誰かって? そりゃ勿論、相も変わらず、いたいけな少女.....そう、
男の商売上手な口調に聞き入った人達は、一人が手を挙げると、一斉に求めた。
「身投げ、ね。少し前までは、心中未遂騒動で盛り上がっていたというのに......」
泡沫がそんな事を呟いていると、後ろから声をかけられた。
「あら、旦那じゃないの」
「おや、梅さん」
馴染みの呉服屋の女将の姿を見つけ、泡沫は人の良い笑みを浮かべた。
「相変わらず、目立つ格好しているね、あんたは」
「そうですか? あっしからすると、わりと地味な方ですが」
そう梅に返しながら、泡沫は薄い水色の着物と、両肩に羽織っている泡の文様の羽織りを見る。
「いや、着物の色じゃなくて......あーもう、この色男は」
梅は呆れたようにため息を吐いた。
「ああ、そういえば……梅さん、この間の娘さんの様子はどうですか?」
「ああ、お咲ちゃんだね! 大丈夫、ちゃんと私が面倒みているよ」
「良かった......行き倒れている所を見つけた時は驚きやしたが、元気そうで何よりです」
そう泡沫が微笑むと、対する梅は心配そうに眉を寄せた。
「でも、ひどい話だね。あの子、まだあんなに若いのに、悪い男に騙されて、身投げなんて......偶然、あんた達が通りがかってくれたから良かったものも」
「ええ、そうですね」
「それにしても......お咲ちゃんの前は、心中未遂の遊女。そのさらに前は望まぬ結婚を前にした庭師と令嬢、余命間もない病弱の男とその恋人......あんた達はなんだってそう心中やら身投げやら、そういう事件に遭遇しまくるのかね」
「......さあ、この町じゃ、珍しい事じゃないでしょう」
少しの間の後、泡沫は受け流すように言った。
「それとも、お天道さんの導きかも知れやせんね。恋に苦しむ乙女を助けろって」
「あっはは、違いない」
本気にしていない様子で、梅が豪快に笑った。
「それより、あんたが表通りにいるってことは、また珍しい物でも見つかったのかい?」
「はは、相変わらず目敏いですね。心配しなくても、良い品見つけたら、いの一番で梅さんに持っていきやすよ」
「あら、嬉しい。そうそう、この間、旦那が仕入れてくれた反物なんだけど」
「ああ、欧米のやつですね。どうでした?」
「もう最高さ。玄関口に飾っているんだけど、客受けもよくてね」
「そいつは良かった。最近は異国の客人も増えたって聞きやしたから、折角なんで仕入れてみたんですよ。あっしも初めて取り扱う物なんで、上手くいくか心配でしたが」
「何言うんだい、この商売上手が! あんだけ見事な口説き文句つらつら述べておいて」
梅に肩を叩かれ、泡沫は顔を引き攣らせた。地味に痛い。
「あれ? 梅さん。それって、もしかして、例の事件の奴ですかい?」
泡沫は梅が持っている瓦版を見て、元々細い目をさらに細めた。
「旦那も気になる? 例の連続身投げ騒動」
「......ええ、まあ。こうも似た事件が続くと、気が滅入りますね」
「本当よね。この間、心中騒動があったばかりだっていうのに。まあ、あれは未遂で終わったけれど」
「あー、たしか弥平さんでしたっけか?」
「そうなのよ! これが悪い男でね。妻がある身でありながら、遊女や芸妓、色んな女に手を出しては、果たせもしない約束をして......まあ、それが原因で、遊女に刺されかけたらしいけど。まあ、ざまーみろって感じだね」
梅は鼻息荒く続ける。
「噂だと、奥さんも堪忍袋の緒が切れて、家を追い出されて......外の女達にも愛想尽かされて、奉公先にも解雇されたって話さ。自業自得だよ」
「まあ、そうですね......ところで、梅さん」
と、泡沫は話を促すように、彼女の持つ瓦版を見る。
「あー、こっちね」
「たしか、噂だと、十もいかない小娘ばかりだとか」
「そうなのよ! 全員が
「遊女?」
「少し前に若い遊女と、恋仲だった商人の兄ちゃんが川に身投げしたんだよ。まあ心中だろうね……厳しいようだが、あの界隈じゃ珍しい話じゃないさ」
「まあ、そうですね……」
泡沫はそう答えながら、行き交う人に視線を向けた。
まるで戯曲の物語のように、与えられた役を与えられた台詞通りに喋り、そして台本に書かれた文字通りに動く――少し前までは泡沫の目にもそう映っていた。
しかし今は少し違って見える。
繰り返し、何度も同じ行動を続ける人間の群れ。
似ているように見えても、その行動は異なる。昨日と似た日々でも、小さな変化を楽しむ。いつからか、そんな風に見えるようになった。
――……がらじゃねえな。
このあっしが、瞬きしている間に終わる命を『——しく』思うだなんて。
「ちょっと旦那! 聞いてんのかい!」
その時、遠くを見ていた泡沫の腕を梅が強引に引っ張った。
あまりの強さに泡沫は転倒しかけ――それを見ていた通行人が小さく「ぷっ」と笑った。
「前言撤回だ。やはり人間は下らねえ」
「なに言ってんだい、突然」
「いえ、何でも……」
「それより、問題はこの小さいお嬢ちゃん達さ。まだ若いのに……」
梅が涙ぐんだ。
彼女は豪快で気の強い所もあるが、情に厚く、店の子にも「母さん」と慕われている。
特に、こういった幼い娘が関わる事件では、たびたび感情的になる。
――まあ、そこは彼女の長所でもありますけどね。
「おっと、ごめんよ。私としたことが、また……」
「いえ、あなたのそういう所、あっしは好きですよ」
「! も、もう、旦那は! うまいんだから!」
バシバシと梅が泡沫の肩を力強く何度も叩いた。かなり痛い。
「しかし難儀な話ですね。なんでい、そんな年端もいかないお嬢さんばかりが......」
それに、夜中とはいえ、
――禿(かむろ)の娘ばかりが立て続けに……なんかキナ臭えな。
「でも妙なのよねぇ」
梅が顎に手を置きながら言った。
「仏さんを見たって人の証言では、
「心中の、証?」
「ほら、心中する時って、紐を使うじゃない」
「ああ、あの自分と相手の手を結ぶやつですね」
入水による心中の場合、水の中で離れ離れにならないように、自分と相手の手を重ね合わせた状態で紐で結ぶ。死んだ後も、互いの手は繋がったままであり、それを「純愛だ」という人もいるが――死に美を見出した所で、「美しくない」、と泡沫は思う。
――……なんて、あっしに『人』のことなんざ、分かるわけねえか。
「それで、女の子の手には赤い紐が巻き付けられていたらしいんだけど……」
「妙ですね。もし心中なら、相手の男がいる筈ですが……」
身投げした少女の遺体は見つかっているが、男の遺体は見つかっていない。
――男の遺体が消えた? それとも……
「梅さん。その赤い紐っていうのは、途中で切れてたんですか?」
「うーん、私も直接見たわけじゃないから、そこまでは……ただ、水の勢いで途中で切れたにしては、女の子の手にきつく結ばれていて、妙だったって」
「妙?」
「ほら、もし手を重ねて紐で結んだのなら、片方の手にだけ紐が結ばれるってことはないだろ?」
「ああ、なるほど。そうですね」
もし本当に少女が誰かと心中し、互いに手を重ねた状態で紐を結び、途中で解けてしまったとしたら、少女の手にだけ紐がきつく結ばれていることはない。
男の手の分だけ隙間もできる。
「死んでも離さない」と互いに重ねた手はそう簡単に解けることはない。
紐が途中で切れたとしても、その痕跡は残る。
それこそ――水の勢いや岩などにぶつかる等にして、手そのものが損傷しない限りは。
――遺体の損傷具合を見たわけではないから、はっきりとは言えないが、なんか引っかかるな。
男の遺体だけが見つかっていないのも、川に攫われたと考えれば可能性はないとは言い切れないが、どうも違和感が拭えない。
――それに、赤い紐となると……絵巻が絡んでいないとも言い切れねえな。
「なんか裏がありそうですね」
それに、目撃者がいるのに騒がれていないのも妙だ。
「そうなのよ。単独の身投げなのか、心中なのか、はっきりしなくて……或いは、騙されたか」
「騙された?」
「たまにいるのよ。怖気づいたか、最初からそんな気はなかったか……心中しようって約束しながら、自分だけ逃げられるように細工する奴がね。男でも、女でも、そういうずる賢い奴はどこにだっているもんさ」
「成程。そっちの線もありか」
――どちらにせよ、情報がいる。
――花街絡みとなると、「アイツ」に聞くしかねえか……仕方ねえ。
そう泡沫が考えていた時、梅が小さく溜め息を吐いた。
「うちにも、年頃の子が奉公に来ているから、他人事に思えなくてね......はぁ、何とかならないものかね」
本気で心配そうに言う彼女に、泡沫は誰にも聞こえない声で呟いた。
「......あんたみたいな人ばかりだったら、良かったんですけどね」
「うん? 旦那、何か言ったかい?」
「いえ、何も。それより、相手の男って、全く分からねえ感じなんですか? 仮に心中だったとしたら、噂話の一つくらいありそうなもんですが……」
「そこが、妙なんだよねぇ。この街じゃ、誰と誰が恋仲だなんて、本人達が隠していても、周りには把握されているもんだけど……」
――これ以上は知らぬか。
「街区の事は街区に聞くしかねえか」
そう呟いた後、泡沫は相手が聞いていないことに気付かず会話を続ける――といっても梅が一方的に喋っているだけだが。その彼女に人の良い笑みを浮かべ、顔を覗き込むように近づけた。
「すいやせん、梅さん。用事を思い出しやした。これから、『繁華街区』へ行かないといけなくて......」
「あら、もしかして、仕事の途中だった? ごめんなさいね、気付かなくて」
「いいえ、いいんですよ。それじゃあ、また......」
「ええ! またうちにも顔出してね」
そう軽く挨拶を交わした後、泡沫は人の良い笑みを浮かべたまま人混みへと消えた。