堅牢で狭隘な水密隔壁を抜けてたどり着いたのはある部屋の前。
入口のドアに飾り気はないが、たった一枚のプレートが訪れる者の緊張と敬意と厳格な存在感を感じさせる。
艦長室。艦橋と戦闘指揮所との中間にある叶多の個室であり、ウォーナーヴァルの幾多の海の上で執務していた部屋だ。
しかし今は罪悪感の海に飲まれていた。
「戻る……」
「少しお休みになってください。あとで医務長に来てもらいます。士官室係にもコーヒーを用意してもらいますから、ね?」
艦長室のベットに横たわってから数分。
錯乱から落ち着きを取り戻しつつあっても軽すぎる殺しの感覚が残っている。
撃沈した船に乗っていた幾人の命を一瞬にして奪った。背けようと目線を彷徨わせるが、頭からは決して離れることはない。
叶多はその度に震えて、宥めるように船務長の温かい手が頭や背中を撫でていた。
そこへトントンと2回のノック。現れたのは医務長と褐色肌のエルフ。
スレンダーな体躯に色っぽくも映る麗しい顔。伸びる鋭い耳は彼女がエルフたらしめる事を象徴するかのようで、叶多は目を奪われる。
中学時代まではこの手のファンタジーな生き物や妖精は漫画や小説ではよく目にしていた。異世界転生なんて作品には決まって出てくる美しく、可愛らしいエルフや悪魔。
実際に目の前にしてみると、現実味の無さにどこか人の形をした生物ではないような気もしてくる。
「初めまして。失礼ながら貴方がこの船の長と聞いたのだが、本当なのか?」
話す気にもなれず、コクリと頷くだけでエルフの彼女は小首を傾げる。
「すいません。戦闘で少し疲れてるみたいなので」
「気を遣わなくて良い……すると、先の戦いで私への刺客を倒したのは貴殿らなのか?」
「えぇ……そうですよ。私が殺したんです。あの船に乗ってた人を、この手で」
自嘲気味に言うと、粉々になった船体が脳裏を過った。
「そうなのか。だが礼を言う。ありがとう」
「え……?」
人を殺したのに感謝された。
唐突な感謝に叶多は困惑した。
「咎めないんですか?」
「人を殺したことか? 私を守るためだったのだろう? ならば咎めるなんて恩人に対して失礼極まりないだらう。貴殿は立派なことをしたと称えるのが助けられた者が払うべき敬意だと思うのだが、違うか?」
咎められないことへの疑問が徐々に咎められないことはの違和感と困惑に変わる。
「貴殿らで無ければ私は殺されていた。見捨てることだって出来だろうに、助けていただきありがとう」
真っ直ぐなエルフの瞳に叶多の感情は掻き消された。
私達が居なかったら彼女が殺されていた。事実でもそうでなくても、彼女の命を救ったのは私達なのだ。
暗雲が立ち籠めていた心が晴れていくように軽くなった。
「いえ……たまたま私達の所へ居ただけですから。あ、すいません。自己紹介がまだでした。艦長の『柊 叶多』です」
「こちらこそ失礼した。エリーゼ王国の結界魔道士『フェアリ・アンダールール』だ」
エルフ『フェアリ・アンダールール』は叶多の手を取り、たおやかに微笑んだ。
「フェアリさんですか。ようこそイージス艦『はるな』へ」
「イージス艦?」
フェアリが訝り、艦長室を隅々まで見回す。
ウォールナットの執務机に、汚れ一つない純白の応接ソファー。壁に立て掛けられた精巧な絵はとてもこの世界で描かれたものとは程遠く感じる。
知らない単語と知らない物の羅列にフェアリは訝しんだ。
「私達はこの世界の住人じゃないんです。突然、眼の前に巨大なクジラみたいな生物と対峙して、気づいたらこの世界に」
「なるほど……戦闘に集中してたからあまり気にしてなかったのだが、ミラマリンの魔灯台が鮮明に捉えられるのはそういうことか」
「魔力核? 魔灯台?」
「しかしこの船はどんな魔法で動いてるのだ? 気になって夜も眠れんぞ」
「えっと、すいません。魔法ってなんですか?」
呆気に取られる叶多と数々の未知に興奮気味なフェアリ。
どうにも話が噛み合わない。そもそも『はるな』はそんな曖昧な概念では動いていないし、彼女が口々にする単語も謎だ。
「では互いに情報交換と参りませんか? 艦長も少し復活されたことですし」
見かねた船務長は表情一つ変えずに提案をしてきた。乗らない手はない。
「船務長、生存者の救助が終わり次第、当直士官を除いた士官全員を食堂に集めてください」
「了解しました。艦長」
「でもその前に、コーヒーブレイクと行きません?」
「賛成です。士官室係にお願いしますね」
コーヒーの事をすっかり忘れてたのを思い出した。一仕事の前に客人へコーヒーでおもてなしと行こう。
しばらくして士官室係が叶多に運んできたコーヒーを見せつけるように口れつけた。
怪訝そうに水面を眺めていたフェアリが初めての味にまた興奮気味な顔をすると、なんだか喜ばしくて笑みが溢れる。
ミフェリアの元へ向かう航海が楽しくなりそうな予感がした。最もそのゴールは望まないものだけれどと虚しく思う。