校舎と体育館のあわいの小さい闇。
罵声と暴力、唾を体に纏わせて虚ろ気な目を空に仰ぐ少女は他ならぬ私『柊 叶多』だった。
俗に言ういじめという奴だ。クラスでも中心グループのクラスメイトと不幸なすれ違いがあってからかれこれ半年以上は続いている。
親や教師に相談しても誰も力になってくれない。物を隠されたり、傷つけられたり、自分ではどうしようもない出来事なのに、誰も私の力になってくれたりはしない。
今日もその見えざる暴力に打ち倒れた私は、憎いくらいに蒼い空を見る。
スマホとなけなしの小遣いを取られてしまった。帰ってやりたいこともやる気すら起きない。
真っ青な空に一つ溜息をついてやった。そこに響くスマホの通知音に肩を竦ませた。
溜息を聴かれたらまた虐められる。恐怖で身が竦んだのも束の間、その方へ向いてみるとランプがピコピコと光っていた。
体育館裏の苔むした土に埋まっていた誰かのスマートフォン。画面に人差し指が触れると、濃紺の海に一隻の船が浮かぶ待ち受けとニュースの通知欄が表示される。
——再び行方不明者が。連続失踪事件との関連は?
ここ最近、世間を賑わせている事件の記事。普段から明るく真面目に生きていた人間が神隠しのように何処かへ消えてしまう謎めいた事件。
しかし叶多からしてみれば、表面上はどうであれ『逃げたかったから逃げた』としか思えない。
心に隠した闇があった。それを知ろうともしない連中が勝手に騒いでいるだけだ。心の中で冷たく言い放ってスマホをその場に戻そうとしたとき、新しいポップが現れる。
——ウォーナーヴァル・オンラインの次期アップデート情報まとめ
ウォーナーヴァル・オンライン? 気になってその通知をタップする。
ゲームなんて手に取ったこともない。意識をゲームに接続するフルダイブゲームという単語くらいしか知らない叶多はタイトルを見ても内容はさっぱり想像がつかなかった。
セキュリティはなく、すんなりと開いてネットに繋がり、まとめサイトが出てきた。単語やゲームのシステムは全く分からず、書いていることも専門的過ぎてチンプンカンプン。
しかし添付されていたPV動画。空を白く染めるミサイルのコントレイル、無数に襲い掛かるそれらをミサイルや大砲で淡々と撃ち抜く戦闘艦。
何より、雑兵を軽く捻るように跳ね返す力に強い憧れが宿った。たった五人をのめせない自分の無力に情けなさを覚えたけれど、あれにさえ乗れればと叶多は心奪われてしまった。
私は現実世界が憎い——。
人間の建前と本音が嫌いだ。悪意を包み隠そうとしない奴はもっと嫌いだ。痛めつけることに躊躇いも無ければ、それを至高の愉悦とする人間達も、それを見過ごす世界なんて無くなってしまえば。
だったら、と叶多は思う。
——この世界から逃げてしまえばいいんだ。
海のうねりを切り裂き走る戦闘艦の艦橋。青と赤の一段高いシートに腰かけていた叶多は遠い午後の陽光の眩しさに目を細めながら頭の中で呟いた。
視界にさらりと垂れてくるブルーアッシュに前髪の毛先が意識を引き戻す。クスミのない窓に自分の顰めた顔が反射し、その後ろで副長『エーさん』が不安げな視線でこちらを見ていた。
「大丈夫? 怖い顔してたけど……」
「ふぇっ?! あ、すいません」
「上の空になってたぞー。まっ可愛いかったからいいんだけど」
不意に落ちたそんな感情を吹き飛ばすように彼女がニカと笑い、叶多も応えるように微笑む。
ここは現実と隔絶された世界。フルダイブVRゲーム『ウォーナーヴァル・オンライン』。
超硬派系リアル海戦ゲームとしいて知られ、艦船カスタマイズの自由度や広大なマップ、装備や船の特性、乗員の熟練度に至るまでが戦闘へ密接に関わる高度な戦略性が多数のプレイヤーを廃人にした。
かくいう叶多もその名前や使い方は知らず、興味もなかった。唯一知っていたのは現実で振えば命を奪えるほどの強大な力を持っていることくらい。
だがある出会いで彼女も栄えあるそんな廃人たちの仲間入りをした。勉強も家族も、未来も捨てて没頭した。
その果てに手に入れた船は八角形の板状のレーダーを四枚持つ高性能システム艦、一般にも知る者は多い世界最強の防空能力を持つと呼び声の高いイージス艦だった。
時間は大体夜の九時当たりだろうか。必要最低限の食事しか取らない上、寝入る時間も朝方に近い叶多にとったら真昼とそう大差ない時間。
そして私達『はるな』は、クラン母港の防衛識別圏に単騎で侵入した所属不明艦艇を絶賛追跡中の所。湾内でもかなり深い位置まで来られたが、領海に入りさえすればいつでも沈められる六時の位置を占位している。
眼前の艦影は中型の漁船クラスで武装も私の駆逐艦とやり合うには乏しい。互いに見合わせられるほどの距離に居ながらも意に介さず悠然と走る姿は無謀の一言に尽きた。
だが叶多は的同然の敵に訝る。その単調さがやけに匂った。
「艦長、そろそろCICへ」
「わかりました副長。後は頼みますね。操艦はCICから行います。総員、対水上戦闘用意! あっ、それから」
去り際、その懸念が頭から離れずついぞと振り返って、
「曳航ソナーの展開をお願いします」
「曳航ソナー? 対水上戦闘よね?」
「直感頼りになってしまうんですけど、何かの視線を感じるので」
首を傾げるエーさんにウィンクをして念を押す。照れるように見惚れていた彼女は不意に「かわいい」と漏らし、背中は彼女の視線から消えていくのだった。