病院の待合室の固い椅子に座り、僕は何度も腕時計を確認していた。
妻の香澄が陣痛室に入ってから、もう数時間が経つ。
廊下を慌ただしく行き交う看護師たちの姿を見ていると、緊張と期待で胸が締め付けられる。これから始まる新しい生活。香澄と、そして生まれてくる子供と、三人で過ごす温かい日々。想像するだけで、心が満たされていく。
香澄とは大学のサークルで知り合った。
明るく、いつも笑顔を絶やさない彼女に、僕は一目で惹かれた。
卒業後、別々の会社に就職したが交際は続き、3年後に結婚。
共働きで、お互いを信頼しあう理想的な関係を築いていると思っていた。
子供が欲しいね、と話すようになったのは、結婚して2年が過ぎた頃からだ。すぐには出来ず、待望の妊娠。
香澄はつわりで辛い時期もあったが、お腹の子を大切に育てていた。僕は、そんな香澄を側で支えながら、父親になる喜びを感じていた。
そして、ついにその日が来た。陣痛が始まり病院に駆け込んだ。
長い時間を経て、元気な産声が響き渡った時、僕は、言葉にできないほどの感動に包まれた。小さな、温かい命。僕たちの子供。
退院後、香澄と子供と三人での生活が始まった。しかし、それは、僕が想像していたものとは大きく異なっていた。
香澄は、出産前とは別人のように変わってしまった。
いつも笑顔だった彼女の顔には、疲労の色が濃く、目の下にはクマができている。赤ちゃんの夜泣きで、ほとんど眠れていないのだ。
家にいるのでいつもスッピンでボサボサの髪、そして部屋着のスウェット姿がより一層目の下のクマを強調させていた。
家の中も、以前のように綺麗に片付いているとは言えなかった。
夜帰宅しても、洗濯物は取り込んだままの状態で床に置かれ、キッチンのシンクには食べたままの食器や鍋が置かれたままになっていた。食事も、冷凍食品や総菜で済ませることが多くなった。
最初は、仕方ないと思っていた。産後すぐで、体も心もボロボロなのだから。それに、僕たちはずっと共働きだった。香澄の方が早く帰宅するので量としては多少多かったかもしれないが、ゴミ出しや風呂掃除はしていたので分担している方だと思う。周りにも家事に協力的な夫と褒められ、香澄に負担をかけているつもりはなかった。
今は、生まれたばかりの子供の世話が最優先だ。家事のことは、落ち着いてから考えればいい。そう思っていた。
しかし、数週間が経ち、1ヶ月が経ち、2ヶ月が経っても、状況は変わらなかった。僕は、徐々に苛立ちを感じるようになっていった。
ある日、仕事から帰ると、リビングは相変わらず散らかっていた。テーブルの上には、食べかけの食器がそのままになっている。僕は、思わず口にしてしまった。「香澄、一日中家にいるのだから、もう少し片付けくらいしてよ」と。
その言葉を言った瞬間、僕は後悔した。香澄の顔が、みるみるうちに歪んでいくのが分かった。そして、堰を切ったように、大粒の涙を流し始めた。
「ごめん……私…何もできてない…何も…何も…」
「ああぁ、あ゛ぁぁ…」
香澄は、嗚咽を交えながら大声で泣いた。その姿を見て、僕は、胸が締め付けられる思いだった。
「違うんだ、香澄。そんなつもりで言ったんじゃない…」
僕は、慌てて香澄を抱きしめた。しかし、彼女の涙は止まらない。
「私…お母さんなのに…何もできない…家事も…育児も…ちゃんとできてない…」
香澄は、子供のように泣きじゃくった。その姿を見て、僕は、自分がどれほど酷いことを言ってしまったのかを、改めて反省した。
「家にいるのだから…」と責めたが、僕自身、香澄に家の事をほとんど任せっきりだったことに気づく。出産前は共働きだった。しかし、出産してからは、香澄だけが家にいる。
僕は、以前と変わらず仕事に行き夜遅くまで帰ってこない。飲みに誘われれば「仕事だから」と香澄に聞く前に了承の返事をしていたし、二軒目以降も付き合い深夜3時の帰宅も普通だった。
育児休暇を取れるか聞かれた時も「大変だったら上司に話をするようにするから言って」と鼻から取る気はなかった。
香澄は一人で育児と家事をこなしている。いや、こなそうと、必死に頑張っている。僕は、自分がどれほど香澄に甘えていたのかを、痛感した。
家のこと、子供のこと、全て香澄に任せっきりだった。自分は、子どもが産まれてからも変わらない生活を送っていた。
この家は家族みんなのもの、そして家のことをやるのは女性だけの役目ではない。僕は、心からそう思った。香澄を責める資格など僕にはなかった。むしろ、家のことをすべて押し付けていたのに文句も言わず必死に頑張っている香澄に感謝する立場ではないのだろうか。
僕は、改心した。今日から、家事をする。家事を「手伝う」のではなく、家事を「する」のだ。この家は、僕たちの家だ。
僕は、散らかったリビングを片付け始めた。テーブルの上の食器を洗い、床に散らばったおもちゃを片付けた。洗濯物も畳みクローゼットにしまった。
最初は、どこに何をしまったらいいのか分からなかった。しかし、香澄が以前どのように片付けていたのかを思い出しながら、一つ一つ丁寧に作業を進めていった。
片付けをしているうちに、色々なことに気づいた。香澄は、こんなにたくさんのことを毎日一人でやっていたのか。洗濯物を畳むだけでも、かなりの時間がかかる。家事をしていても子どもの鳴き声が聞こえる。俺がいる時は、香澄があやしてくれるが日中の誰もいない時は、家事の手を止め、子どもの元へ駆け寄るのだろう。あやしてすぐに泣き止むわけではなく1時間以上抱っこをしている時も常習的にあった。これでは、家事は進まないし、泣き止んでも香澄自身も疲れてすぐに家事をするのは無理だろう。
僕は、香澄の苦労を初めて身をもって理解した。そして、自分がどれほど感謝を伝えられていなかったのかを深く後悔した。
リビングが綺麗になった後、僕は、夕食を作ることにした。料理は得意ではないが簡単なものなら作れる。冷蔵庫にあった野菜と肉を使い、炒め物を作った。
夕食後、僕は香澄に言った。「香澄、今まで本当にごめん。僕が悪かった。これからは僕もちゃんと家事をする。一緒に頑張ろう」と。
香澄は、驚いた顔で僕を見つめた後、ゆっくりと頷いた。
「うん…ありがとう…」香澄はまた大粒の涙を流したが、今度は少し微笑んでいた。
それから、僕たちの生活は、少しずつ変わっていった。僕は、仕事から早く帰るように心がけた。飲み会もできるだけ控え、どうしても断れない時は一軒目で帰るようにした。
おむつ替えや着替え、お風呂など子どもの世話を積極的にするようになった。
最初は、家事をやろうとしたが香澄が、「正樹は子どものことを思って家の事いるんだから、子どもにもパパの事分かるようにいっぱい遊んであげて」と言われ、育児が僕の係になった。
香澄自身も、家事も育児も中途半端だと最初は自分を責めるような発言が多かったが、家事だけに集中できるようになってからは、「今日は、正樹が見ててくれたから焼きそばに目玉焼き乗せちゃった」と今までのような明るさを取り戻していった。
最初は、慣れないことばかりで戸惑うことも多かった。しかし、香澄が優しく教えてくれたり、アドバイスをくれたりしたので徐々に慣れていった。
家事をすることで、香澄との会話も増えた。
以前は、疲れ切っていて話しかけるのも悪いと思い会話を避けていたが、今は、子どもの成長や、日々の出来事など、色々なことを話すようになった。
以前のように、明るく、優しい笑顔が増えた。香澄の笑顔を見るたびに、僕は、心から幸せを感じた。
ある日、珍しく子どもが早く寝てくれた後、香澄が僕に言った。
「ねえ、正樹」
「ん?」
「最近、正樹とこうして一緒に育児や家事をすることが出来てすごく楽しい。大変な時もあるけれど、いつも寄り添ってくれるから、正樹と家族になったんだなと思えて…なんか嬉しい」
香澄の言葉に、僕は胸が熱くなった。
「僕もだよ、いつもありがとう。」
僕は、香澄の手を握りしめた。
家事は、決して女性だけの役目ではない。家族みんなで分担し、協力し合うことで温かく幸せな家庭を築くことができる。僕はそのことを香澄との生活を通して深く学んだ。そして、これからも香澄と子供と三人で助け合い、支え合いながら幸せな日々を送っていきたいと心から思った。僕にとっての「片付け」は、家の中の物だけではなく、自分自身の価値観、そして、夫婦としての在り方を見つめ直し、新しく構築していくことだったのだ。