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epi.4 媚薬の一滴

ー女の涙、それは男の心を動かす媚薬となる。その媚薬を目にした男は女の虜になるー



「この前の土曜日、美姫が他部門の佐藤さんと二人で歩いていたって同僚が言っていたんだけどどういうこと ?」彼女の美姫に尋ねる。


俺、五十嵐よしきは周囲には秘密で、佐々木美姫と社内恋愛中だ。

「なんで休みの日に佐藤さんと二人きりで会っているの?俺が仕事だった日だよね?」

「いや…。彼は関係ない。何も悪くないの…」

表情には出ていなかったが、早口に、美姫はそう言った。


「佐藤さんをかばうんだ…。」

「そうじゃなくて…。…でも私が好きなのは、よしきだけだよ」


その後、俺は優しくて尽くしてくれるが、最近土日も仕事が続いてなかなか会えないことが寂しかった。同じ部門の人も出勤していて嘘ではないことは分かっていたけどつまらなかった…。そんな時に、偶然声をかけてくれた佐藤と遊びに行った。別に佐藤が特別好きなわけではなく誰でも良かった…私が好きなのは、よしきだけ


こんなようなことを言葉に詰まりながら何度も繰り返し言ってきたが、美姫の言葉は俺の心には響かなかった。





「じゃあ何で遊びに行ったの。ごめん…。今はその言葉、信用できないよ。別れよう…」


こうして、美姫に別れを告げた。




美姫とは、入社してすぐに先輩に誘われた宅飲みで知り合った。

初めて会った時から優しく包み込んでくれるような温かさを持った美姫に惹かれた。一目惚れだった。美姫からも頻繁に遊びに行こうと誘いのメールがきて、すぐに付き合うことになりもうすぐ3年になる。


美姫が佐藤と出掛けた日も普段と変わらずメールのやり取りをしていた。

仕事で会えないことを詫びると「今は、忙しい時期だからしょうがないよ。お仕事を一生懸命頑張っているよしきかっこいいよ。大好き。行ってらっしゃい」とメールがきた。それがモチベーションになっていた。



しかし、翌日に何も知らない同僚から美姫が佐藤と歩いていることを聞いた。

その話を聞いて、他の同僚も以前親しげに歩いていたと話す。「あの二人付き合っているのかな?」と盛り上がっていたが信じられなかった。美姫が付き合っているのは俺だ!!と言いたくなるのを我慢して何も言わずに話題が変わるのを待った。

あの言葉は、何だったのか…。美姫への不信感と哀しみに襲われていた。




そんな時に声をかけて来たのは真弓だった。


「ねぇ、五十嵐さん最近元気ないけどなんか会った?」

元気のない様子を周りに悟られたくなくて、誤魔化しているつもりだったが出来ていなかったらしい。

「大丈夫だよ。ちょっと寝不足なだけ…。」

「ふーん、そうなんだ。今、仕事忙しいときだもんね。無理しないでね、じゃあね」

そう言って真弓は去って行った。



加藤真弓は俺の1個下になる。しかし専門卒のため社歴では真弓の方が1年先輩だ。最初は敬語で話をしていたが、年が分かると名字にさん付けはするがお互いタメ語で話すようになった。



しかし、1週間後また真弓から話しかけられた。

「ねー!やっぱり元気ない。なんか悩みでもあるの?聞いてあげるよ」

からかい口調で言ってきた。

「そうかな?なんか眠れないし朝早く起きちゃうんだよね」

「えーすごいね。私、全然起きれなくて困ってるの。それなら起こしてよ笑」

そこに甘えた口調は全くない。男友達に言われているみたいだ。でも、それが逆に気を紛らわせてくれて助かった。本当はこの時、美姫に別れを告げたばかりで気分が参っていた。




それからしばらくすると、朝の通勤途中に

「おはよう。なんか朝から暗いよ?」そう言って真弓に思いっきり背中を叩いた。

「ね?絶対なんかあったでしょ。恋愛絡み?」

なんて答えようか悩み黙っていると

「私、五十嵐さんのことが好きなのにそんな元気ない五十嵐さん見るの嫌だ…。」真弓がポツリと言った。

「え?…えっ?…」予想外だった…驚いて真弓の方に顔を向けた。

「だから五十嵐さんのことが好きなの。相手にされないの分かっているけど五十嵐さんのこと好きだったの」真弓は前を向いたまま話し続けた。



突然の真弓の告白に俺は驚いた。これは告白なのだろうか…カミングアウトって言った方がいいのかもしれない。驚いて真弓の顔を見たが、前を向きながら淡々と話す姿に聞き間違えたのかと錯覚しそうになった。


「…。あのさ、今まで言ってなかったけど、付き合っていた人がいたんだ」

「うん。」

「だけど、その彼女、俺が仕事の日に他の男と遊んでいたんだよ。そんな話を何人かから聞いて先週、別れようって言ってきたんだ」

「え?…別れたの?」今度は真弓が俺の方を向いた。

「うん…。え?別れたと思ったから言ってきたんじゃないの?」

「え?何か喧嘩でもしたのかと…。あまりにも元気ないから気になって…。」

真弓は、鋭いようでたまに鈍感なところがある。元気の無さには気付くのに、ただの喧嘩だと思っていたなんて…。




「ただ…こんな五十嵐さん初めて見るから仕事ではなさそうだなって…。もし恋愛絡みで五十嵐さんがこんな切なそうな顔しているんだったら、なんかすっごく悔しくて悲しくて……なんか言いたくなっちゃった。」


最後の「言いたくなっちゃった。」だけ少し明るめにいつもの口調で真弓が言ってきた。

そして、さっきのはカミングウントではなく告白だったんだと再認識した。



「ありがとう。…ただ、俺、さっきも言ったように別れたばかりなんだ。今まで彼女のこと、すごく特別な存在で大事にしてきたんだ。だから、他の人を異性として見ていなかったというか…加藤さんは他の女性社員よりも話しやすいし、話していてすごく楽しい。でも、加藤さんのことも恋愛対象として見たことなかったんだよね。ごめん…。」


「うん。」

「…それで、今は考えられない。いつになるか分からないけど、これからは加藤さんのこと異性としてみるようにしてもいいかな?」


ただ断るつもりだったのに、俺は『異性としてみてもいいか?』と聞いていた。言葉だけ並べるとただの変態だ。真弓も困惑したようで「へ?」とだけ返してきた。



そのあとも、考えていた。異性としてみるというのは期待を持たせるだけのただの都合のいい言葉に感じた。しかも、「いつになるか分からない」と無期限に期待を持たせることになる。あまりにも無責任でズルいことはできないと思いその日の夜に真弓にメールをした。


「おつかれさま。このところ心配させていたみたいでごめんね。ありがとう。朝、言った言葉なんだけどさ、まだ前の彼女のことが頭にあるのに加藤さんに期待を持たせるようなこと言うのはズルいと思ったんだ。だから、ごめんなさい。加藤さんの気持ちは嬉しかったけど応えられない、ごめんなさい。」



2~3日は気まずそうにしていたが週が変わるとまた元のように話しかけてくれた。その気遣いがありがたかった。



美姫と別れて3か月、真弓に告白されてから2か月半が過ぎていった。

美姫のことは完全にはふっきれていないが、真弓のことも気になっていた。

『俺が元気がないことにすぐ気が付いてくれたな…。加藤さん、普段から気遣い上手だもんな。でも見た目で誤解を招くこともあるんだよな、そんな人じゃないのに。もっと見て知ってほしいな』


この時ふと、周りにもっと真弓の良さを知ってもらいたいと思う自分とその良さを知っているのは自分だけでありたい。という2つの気持ちが芽生えた。


よしきは動揺した。自分だけが知っていたい。そんな風に思うこの気持ちは何なんだ…。落ち込んでいたはずが、美姫以外の事を考えることになっている。少しずつ傷が癒えてきたのかもしれない。そして、その一番の要因は真弓だとよしきは思った。



思い切って週末出掛けないかと誘いのメールをいれた。しばらくするとOKの返事とスタンプが送られてきた。普段、会社のやり取りではないスタンプは新鮮だった。


遊びに行き、好きなタイプを聞いてみると「私、いが…」と途中で止めた。

俺の苗字は五十嵐だ。必死で訂正して隠そうとしているところが可愛かった。計算などではなく、普段から俺のことを見てくれていることを知ってから気になっていた。


その日の夜に、加藤さんが好きです。と告白をした。

彼女は驚いていて、手が顔を覆い涙目になりながら、すごく嬉しいと言ってOKしてくれた。ただ俺のことをまっすぐに見てくれる彼女を大切にしよう、そう思った。



付き合い出して3か月経った頃、美姫と再会した。

俺の同期が美姫の部門の社員と結婚するそうで仲間内でお祝いをすることになった。関係が近いので顔を合わすことになるだろうとは思っていたが、おめでたい席に自分の都合で欠席するのは気が引けたので参加した。



美姫は、出会った頃のように優しい笑顔で接してくれた。美姫もまた気遣って何事もないかのように接してくれた。久々に会った美姫は可愛かった。

真弓には言えないが、美姫の性格だけでなく顔もタイプだった。小粒でたれ目な分、目を伏せるとまつ毛が全体を覆う。小さい子どものような美姫は俺が守らなくては、と思わせる魅力があった。



帰り際、美姫に呼び止められた。

「あの時はごめんなさい…。私、よしきをいっぱい傷つけた。あれからずっとずっと後悔しているの。だから今日話せて良かった…ありがとう」


美姫はそう言って涙を溢した。その涙を見た瞬間、俺の心はぐらついた。

俺には真弓がいる。真弓は俺の変化にすぐに気が付き心配してくれる。

それなのに、美姫から視線を逸らせなかった。



そして、その日の夜に美姫からメールが届いた。

「今日はありがとう。よしきとまた会えて本当に嬉しかった。二人で話したいことがたくさんあるの。時間作ってもらえないかな?」


俺には真弓がいる。しかし、俺は「分かった」と返信をした。

しばらくの間、葛藤していた。何故、俺は美姫と会う約束をしたのか?美姫に会うことは真弓への裏切り行為にあたる。これでは佐藤と会っていた美姫を責める資格などない。



俺は真弓にすぐに会いたいから家に言っていいかと連絡した。

真弓は不思議がったが、待っていてくれた。

そして、前の彼女が美姫だったこと、そして仲間内の結婚祝いの場で再会したこと、その時にまだ心残りがある自分に気付いたこと、ありのままをさらけ出した。


真弓は、美姫のことを知り最初は驚いていたが徐々に顔つきが変わった。

良い内容ではないと分かり、次第に顔が険しくなっていく。

そして「なんで…なんで…」と言いながら号泣した。

俺はひたすら謝った。それしか出来なかった。そんな俺に何を言っても無駄と思ったのか、


「私、よしきのことが大好き。これからも、もっともっと一緒にいれたら幸せだと思っていたし、今も思っている。だけど…よしきが幸せじゃなきゃ嫌だ…。実はね、ここのところよしきの様子が変だったから気になっていたの。だから聞こうと思っていた、でも…これが理由なら別れる。すごく、すごく、すごく辛いけど別れる…」

目に涙をいっぱい溜めながら真弓はそう言った。真弓には本当に申し訳ないことをした。今度こそ元の関係には戻れないかもしれない、そう思った。




そして週末、美姫に会った。

「私、 あの時すごく辛かった。好きな人はよしきだけなのに、あの時、よしきは全然話を聞いてくれないで別れると言った。よしきがいなくなって寂しくて忘れられなかった。…だから、この前会って久々に話せてやっぱり好きって思ったし返信がきてすごく嬉しかったよ。私たちまたやり直せないかな?」


美姫は泣きながら別れた後の辛かった気持ちを伝えてきた。そしてやり直したいとも…。



この時、俺はハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。

『俺はなにをやっているんだ…。何を今まで見てきたんだ。結局、美姫は自分が辛かったことしか言ってこない。俺が話を聞かなかったのが悪いとも言っている。ずっと俺のことを見て、変化に気づき俺のことを思って別れると言った真弓を泣かせてまで俺は何をやっているんだ…。』


そして、目が覚めた。


「…ごめん、美姫とはもう戻れないよ。今、他に大切な人がいるんだ。その人をこれ以上悲しませることはしたくないからもう帰るよ。連絡も、もうしないから。」


俺は、その場を後にした。美姫は何か言っていたが聞く気もなかった。

その足で俺は真弓の元へ向かう。真弓の元へ駆け出していた。


玄関が空いた瞬間、俺は真弓に抱き着いた。

「真弓、ごめん俺が悪かった。いつも俺のことを見ていてくれたのに真弓を泣かせるようなことしてごめん!!!俺、真弓の大切さに改めて気づいたんだ」



真弓は黙っていた。泣いているようだった。鼻をすする音がする。

そして一言、こう放った。



「……。少し考えさせてくれないかな。」




ー女が眉をひそめて泣く。それは男の心を動かす媚薬となる。しかしその媚薬はいつでも働くわけではない。相手のことを想って、相手のために流した涙の時だけ、媚薬となるのだ。そして、その媚薬を目にした男は女の虜になるー





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