水無斗が中学校卒業後の進路に高校進学を選んだのは、放逸な生活を送る姉の阿澄の影響が大きかった。面白味がなくてもまっとうな道を歩み、両親を少しでも安心させたかった。
母と定期的に会う機会を作り、自らの進路を中心とした話題について話す中で、双方が阿澄に言及することは少ない。母がきょうだいの近況を尋ねる。水無斗が自分も姉も元気だと答える。母がうなずく。それから先が続かない。
母から姉に触れることはない。あるとすれば水無斗からだが、仮に阿澄の名前を出したとしても、母は頑として取り合わないので、気まずい空気になってその話題は終わってしまう。
母は明らかに娘を嫌い、避けていた。
阿澄が不在の場であからさまに拒絶反応を示されると、姉の乱れた生活について相談する意欲は萎える。息子の進路についての相談には誠意をもって対応してくれるだけに、もどかしい。
父と言葉を交わす機会からはすっかり遠ざかっている。母との対話の中で、「お父さんはこんなことを言っていたよ」と紹介されることがあるだけだ。いわく、父は水無斗と会って話がしたい気持ちはあるが、仕事が忙しいせいで時間を捻出できないという。
メールに返信さえくれないのだから、仕事が忙しい以上のなにかがあるのかもしれない、という疑惑を水無斗はいつしか抱いた。しかし母は、自分からはもちろん、息子が問い質しても、具体的なことはなにも教えてくれない。彼としては、母の説明が正しいと信じるしかなかった。
高校生になった今、水無斗は相原家が瓦解していくのを実感し、無力感を覚えている。
自分にできるのは、まっとうに生きて、姉の生活を少しでも正常へと引き寄せることだけだと彼は考えている。
しかし同時に、焼け石に水、やらないよりはまし程度で、根本的な解決は夢物語だと半分以上諦めてもいた。
阿澄は自宅に友人を招かない。それは彼女の優しさであり、弟への思いやりの表れだと水無斗は信じている。
姉は以前ほど弟の肉体を求めなくなった。その原因は、家をあける頻度が増し、在宅時間が短くなったのもあるが、それ以上に、弟とのセックスに対する関心が薄れつつあることにあるようだ。
ただし、機会自体はなくなったわけではないし、激しさも変わらない。数々のテクニックを駆使し、よくも悪くも水無斗が想像もしない行為を平然とやってのける。交わっているあいだは姉の体ばかりが動く。弟に対しては挑発的に、挑戦的に、場合によっては嘲笑的に振る舞う。しかし交わりがすむと、一転して弟想いの姉になった。
姉が男のもとに頻繁に出かけるようになって以来、なぜいまだに僕とするのだろう、という疑問が水無斗の中で育っていた。
阿澄は心身ともに早熟で、胸はかなり早い時期から膨らんでいた。あまりにも早く、醜悪なまでに巨大に成長してしまった性的な好奇心のはけ口を、もっとも身近で、自分よりも弱い異性である三歳下の弟に向けたのは、図式としては納得がいく。
しかし、同年代の異性の性的成熟が追いつき、さらには世界が広がったことで、性欲を解消する相手には困らなくなったはずだ。それなのになぜ、いまだに弟とのセックスをやめないのか。
姉の相原阿澄は、思考回路が読めない謎の人だと、水無斗は今さらながらに定義した。
きょうだいの仲はますます遠くなる。
このまま遠くなる一方で、なおかつ修復不可能。そんな予感がひしひしとした。
水無斗は家庭の問題に思い悩みながらも、平凡で、無難で、しかし充実した学校生活を送っていた。
中学校時代からの友だちとは良好な関係を維持しながら、新しい友だちもできた。姉の悪い噂は彼が通う高校までは届かない。
そして、クラスメイトの伊野瀬知佳が気になりはじめた。
伊野瀬知佳はぼんやりとしている時間が長い。授業中にも頻繁に見られるその無防備な横顔に、水無斗は惹かれた。
また、会話の流れとは無関係なことを急に言い出すことがあり、よくからかわれていた。ケアレスミスが多く、恰好の笑い話の種になった。一つ一つの言動が飛び抜けて奇矯なわけではないが、普通からはずれた言動をたびたび見せるため、クラスメイトからは変人呼ばわりされていた。軽度の知的障害があると噂されてもいた。
席が隣で、根が真面目な水無斗は、知佳をサポートする機会がなにかと多かった。クラスメイトからは「伊野瀬の世話係」と揶揄混じりに呼ばれたが、彼自身は任せられた役目に不満はいっさい持っていない。教師が現在読み上げている教科書の箇所を耳打ちして教えるなど、労力の消費が少ない仕事ばかりだったし、必ず返ってくる花のようなほほ笑み、そして温かな感謝の言葉がうれしかった。
水無斗は知佳に広義の好意を抱いていた。彼女との仲を深めたい欲望はあるが、劇的に進展させる具体策は思い浮かばない。
水無斗は恋愛経験が乏しい。阿澄とのいびつな関係による悪影響を受けることなく、健全な女性観と恋愛観を育んできたが、生来の消極的で悲観的な性格に足を引っ張られたのだ。
明るく、裏表のない性格の知佳は、話しかけやすい相手だが、それでも彼からすれば決して低くないハードルだ。彼女が返すほほ笑みと「ありがとう」には、それ以上の意味は含まれていないのは明らかで、それも邪魔をしていた。
当面は多くを望まず、ゆっくりと着実に距離を縮めていこう。それが水無斗の立てた方針だ。
カレンダーが六月に切り替わった。
放課後を迎え、傘を差して帰宅していた水無斗は、雨が降りしきる中を歩く伊野瀬知佳を目撃した。
彼女は傘を差していないだけではなく、道のりを急いでもいない。髪の毛も肌も制服もずぶ濡れで、少し俯いている。
水無斗は知佳に駆け寄り、進路に立ちふさがって声をかけた。覗き込んだ顔は、予想とはうらはらに普段どおりの彼女で、目を丸くして彼を見返した。
とにもかくにも傘の下に入ってもらい、いくつか質問をした。知佳は世間話でもするように気軽に答えた。
「今日は雨が降る予報だとは知らなくて、学校に傘を持ってくるのを忘れちゃったんだ。友だちは他の友だちといっしょに帰ったから、借りられる人がいなくて。仕方ないから昇降口で雨がやむのを待っていたんだけど、なかなか降りやまないから、雨宿りをやめて家に帰っていたの。そうしたら相原くんが声をかけてくれて」
雨に打たれながら歩くのがおかしいとは微塵も思っていない口ぶりだ。水無斗は迂闊にも、伊野瀬知佳が一風変わった少女だということを失念していたのだ。
思い出したことで、遅まきながら相合傘をする大胆さと不躾さを自覚し、頬が熱くなった。同時に、知佳の濡れた体と服をどうにかしないと、という焦燥感を伴った使命感が込み上げた。
知佳に自宅の場所を尋ねたところ、水無斗の自宅のほうが近かった。「僕の家に寄って服を着替えていかない?」と提案すると、彼女は二つ返事で了承した。その無垢な従順さに、彼の体温はさらに上昇した。
相合傘をしたまま道を歩きながら、二人は他愛もない話をした。相原家で服を着替えるという提案こそ承諾したものの、知佳自身はずぶ濡れになったことをどうも思っていないらしく、水無斗の無意識の早足ににこやかに抗議さえした。
阿澄が在宅かもしれない可能性には、自宅に到着した瞬間に思い至った。しかし幸いにも、姉の黒いブーツはなかった。
「ここが脱衣所だから、着替えはここですませて。タオルもシャワーも使いたいならどうぞご自由に。着る服は、僕の姉のものを貸すよ。レジ袋を渡すから、濡れた服はそれに入れて持ち帰って」
そう言い置いて阿澄の部屋まで行く。最近は姉の部屋のドアは無施錠が常態化しているので、入るのに支障はない。
箪笥の引き出しを開け、無難なデザインのシャツを一枚、ジーンズを一枚拝借する。少し迷ったが、下着は借りなかった。
知佳は脱衣所を出てすぐの廊下に佇んでいた。一糸まとわぬ姿で、興味深そうにあたりを見回している。
本来であれば服の内側に隠れていなければならない部位を、水無斗の双眸ははっきりと捉えた。どう振る舞えばいいかわからず固まってしまう。全身も、脳髄も。
「着替え、持ってきてくれたんだね。ありがとう」
知佳は緊張感に欠ける微笑を浮かべて服を受けとり、その場で身にまとう。一つ一つの動作に連動して揺れる、小ぶりだが整った形の乳房から彼は目が離せない。心臓が熱く、速く、拍動している。
裸体が服の内側に隠れ、約二分間の硬直状態は解除された。頬の火照りを感じながら、唇に握り拳を宛がって空咳をする。
「コーヒー、飲んでいかない? 温かいコーヒー。寒かったでしょ」
知佳が満面の笑みでうなずいたので、水無斗は彼女を二階の自室に案内した。部屋を整理整頓し、掃除機をかける習慣がついているのは幸いだった。
座布団を用意して待っていてもらい、キッチンでコーヒーを淹れて戻ってくると、知佳は座布団にちょこんと座って室内を見回していた。口を半開きにした顔がかわいいと思ったし、最初から膝を崩した楽な姿勢で座っているのには好感を持った。
ローテーブルを挟んで対座し、コーヒーをすすりながらの会話には、引き続き他愛もない話題が選ばれた。同年代の異性を自室に招くのははじめてだが、緊張はほとんど感じない。知佳の飾り気のない性格のおかげだろう。
カップの中身を飲み干すと、水無斗は座る位置をベッドの縁に変えた。向かい合うという位置関係が気恥ずかしいのと、どうしても胸に視線が吸い寄せられてしまうのと。二つの問題を解決するためだったのだが、知佳は予想外の行動をとった。おもむろに起立したかと思うと、彼の隣に腰を下ろしたのだ。
対座していたときと距離はそう変わらないのに、彼女が近く感じられる。心臓が再び早鐘を打ちはじめた。
知佳は自らの右手を水無斗の左手に重ねた。視線の向きは彼の顔で、つぶらな瞳で一心に見つめてくる。
「学校でもそうだけど、相原くんはどうしてわたしに親切にしてくれるの? ドジな子だ、変な子だって、みんなはわたしのことを笑うのに、相原くんだけ全然そんなことないでしょ。どうしてなの?」
知佳の声には、世間話をする気軽さと、悩みを相談する真剣さが同居している。
『僕は伊野瀬さんの世話係だからだよ』
そう答えるのは違う気がする。「伊野瀬の世話係」という呼称は、一部の人間が勝手に使っているだけ。世話がかかる人だとか、世話をしているだとかいう意識を、水無斗自身は持っていない。
『君が困っているから助けただけだよ』
この答えもしっくりこない。知佳が「困っている」と訴えたから助けているのではなく、自主的にしていることだからだ。
雨の中を傘も差さずに歩く知佳に声をかけたのは、彼女が困っていると考えたからなのはたしかだ。ただ、それが知佳以外の人間だったなら、どうだっただろう? 顔見知りなら声をかけ、傘の下に入れるくらいならしたかもしれない。しかし、家に寄ってもらって服を貸し、コーヒーをごちそうすることはなかったはずだ。
水無斗はこのとき、伊野瀬知佳に抱いている好意は狭義の好意、すなわち恋愛感情であることをはっきりと自覚した。
「ねえねえ、なんで? いじわるしないで教えてよ」
知佳がもたれかかってきた。肉の柔らかさを感じ、性欲を強く刺激された。胸に触れてきた彼女の手を軽く握りしめた。
おかしな行動をとっている、と思う。ただ、離さなければ、とは思わない。知佳が呆けたような顔でクラスメイトの顔を見返した。
直後、玄関ドアが開かれる音。
それに続いて、眠たそうで気だるそうで間延びした「ただいま」の声。まぎれもなく姉の阿澄だ。
部屋は緊迫感に包まれている。
阿澄は玄関にとどまっている。知佳のローファーを訝しく思っているのだろう。靴の主が弟の連れだと断定するまでにそう時間はかからないはずだ。問題は、その現実に姉がどう対応するか。
水無斗はひとまず、もたれたままの知佳の体をやんわりと遠ざけた。しかし、それからどう動けばいいかがわからない。
足音が階段を上がってきた。水無斗は弾かれたように立ち上がり、ドアの前まで移動する。知佳はベッドに腰かけたままだ。ドアが外側から開かれる。
「水無斗にお客さん? 珍しいね」
阿澄はすぐに知佳の存在に気がついた。まばたき一つせずに初対面の少女を見つめる。
知佳は黙って阿澄を見つめ返す。五秒ほどが経ってから、ふと気がついたように頭を下げた。それを見て、姉は眉根を寄せた。
水無斗は慌てて姉に説明した。知佳との関係、部屋に招いたいきさつ、服を貸したこと。
阿澄は無言で、多くもなく少なくもなくうなずきながら弟の言葉を聞いたのち、「ごゆっくり」と言い残して部屋を去った。
姉が部屋にいるあいだ、呼吸もままならないほど息苦しい空気が漂っていたわけではなかったが、それでも水無斗は深く安堵した。
「ねえ相原くん、あの女の人は誰? ご家族のかただよね?」
知佳が好奇心を剥き出しに尋ねてきたので、姉を紹介する。話せないことが山のようにあるので、説明は必然に表面的なものになる。
「お姉ちゃんかぁ。いいなー、きょうだい。わたし一人っ子だから、きょうだいが欲しいってずっと思ってたんだ」
緊張感を強いられる対面の直後とは思えない、能天気な意見だ。
「羨ましい? そうかな。いる立場からすると煩わしいだけだよ」
「いない立場からすると羨ましいよ。いたらいいのになって思う。煩わしいなんて言って、ほんとは仲よしなんでしょ? お姉さんと」
「いや、仲よしというわけでは」
「わたし、ドジだから、しっかり者のお姉ちゃんがいればいいなって思うことがよくあって。でも、やっぱりお兄ちゃんもいいよね。選びがたいなー」
「異性のきょうだいは、なんて言うか――いや、なんでもない」
緊張感がいっそう緩んだという意味ではありがたかったが、再開後の会話は盛り上がりに欠けた。
やがて知佳のコーヒーカップも空になり、彼女は水無斗に傘を借りて帰っていった。
知佳を見送ると、水無斗は姉の部屋に直行した。
ドアをノックしても、呼びかけても、応答がない。
恐る恐るドアを開くと、開けてすぐの場所に阿澄が立っていて、いきなり顔を殴られた。水無斗は床にひっくり返った。
阿澄は弟に馬乗りになり、左右の拳を交互に振り下ろす。一発一発にかなりの力がこもっていて、打ちつけられる関節が鋼鉄のように硬い。「ごめんなさい」という水無斗の懇願は無視された。
鼻血が噴き出したのを見て暴行をやめ、弟の胸倉を掴んで彼女の自室に引きずり込む。ベッドの上に突き飛ばし、再び顔や胸を殴打する。純白のシーツが見る見る鼻血で汚れていく。
不意に拳の動きが止まった。恐る恐る見上げた姉の顔つきは、冷ややかで厳めしい。険のある声が降ってくる。
「あたしがなんで怒っているか、わかる?」
「それは……。僕が無断で、友だちを家に上げたから……」
阿澄は口角を引き上げ、ハンマーを打ち下ろすように拳を振るって顔を殴りはじめた。止まりかけていた鼻血が噴出した。涙も流れはじめた。
彼女は唐突に殴るのをやめ、弟の上からどいた。そして、服を脱げと手ぶりで命じる。拒むという選択肢はなかった。
裸になった瞬間、いきなり両手で首を絞められた。すさまじい力だ。裸のまま死ぬのだと思うと、涙の量が増した。
両手は阿澄のほうから離した。蹴飛ばされ、床に転がる。股間を踏みつけてくるので、脚をきつく閉じて懸命に守る。
急所への集中攻撃が唐突にやんだ。阿澄は裸になり、「舐めろ」と命じる。すぐさま言われたとおりにした。足指の隙間からはじまって、脚を這い上がり、股間、腹、胸。唇に達したのを合図に、攻守が切り替わる。息が苦しくなるほど激しく貪られ、ベッドに突き飛ばされる。すぐさま襲いかかってくる。
きょうだいは実に一か月ぶりに体を交えた。
阿澄はもともと相手の気持ちを平然と無視して行動する人だが、ここまで暴力的なセックスははじめてだ。
水無斗は姉の恐ろしさと異常性を再認識した。最近は交流の機会が減っていたとはいえ、そんな基本的な事実を失念していた愚かさを反省し、今後は片時も忘れないようにしようと心に決めた。
臆病な彼はこれまで、姉の逆鱗に触れた行為や言葉を遠ざけることで我が身を守ってきた。しかし、今回は諦めきれない。姉に叱られたから、知佳と距離を置くなどという弱腰な対応は、今日のようにまた殴られるのだとしてもとりたくない。
姉は交友関係に干渉するタイプではないから、伊野瀬さんと友だちでいること自体はとやかく言ってこないはずだ。ただ、今日の事件が示すように、目の前で仲睦まじい姿を見せることは許されない。
姉の目を避けながら交際を続けるのは想像するだけでも息苦しい。今日のようにまた家に遊びに来てほしい気持ちも当然ある。
このジレンマ、どうやって折り合いをつけよう?
「明日、伊野瀬さんが服と傘を返しにくるんだけど、家に上がってもらってもいいかな? お礼も兼ねて、少しだけ話がしたくて」
夕食の席で、水無斗は恐る恐る姉に確認をとった。精いっぱい平静を装ったつもりだが、語尾はかすかに震えた。
「伊野瀬? ああ、昨日の子か。もちろんいいよ」
阿澄はオムライスを口いっぱいに頬張ったまま即答した。表情にも声音にも刺々しさはない。どうやら機嫌は直ったらしい。
たしかに気まぐれなところもある人だが、それにしても切り替えが早すぎる。
水無斗は不気味に思ったが、セックスをしたから気分が晴れたのだと思うことにして、「ありがとう」と言ってスプーンを動かしはじめた。
「借りた服はちゃんと洗って、乾かして持ってきたよ。もちろん傘もね。傘は洗っていないけど、傘なんだから別にいいよね?」
朝のショートホームルームが終わるや否や、知佳が水無斗の机まで来て話しかけてきた。
「今日の放課後、相原くんの家まで行って返すよ。いっしょに帰ろうね」
服も傘も持参しているのだから、この場で受けとって決着をつけてもよかった。提案すれば、素直な知佳は二つ返事で承諾しただろう。
ただ、水無斗は自宅まで来てほしかった。
昨日の夕食時、姉は「明日は一日中家にいるつもり」と明言していた。手ひどく殴られた一件は今も鮮明に記憶に焼きついている。阿澄は知佳の来宅を許可したが、いざ本人の姿を見ると感情的になり、その矛先を知佳に向けないとも限らない。
それでも来てほしかった。
だから、「もちろん構わないよ」と答えた。
相原家の玄関ドアを開いた瞬間、水無斗は硬直した。おびただしい数の靴が脱ぎ散らかされているのだ。
廊下の突き当たり、リビングに通じるドアの向こうから、品のない笑い声がもれ聞こえてくる。ドアを透過し、さらには玄関まで届くのだから、騒音級の大音声が空間を満たしているのは間違いない。
乱雑すぎて何足あるのかも数えられない靴たちが、阿澄のものを除いて男物だと気がつき、水無斗は事態を悟る。
ドアを隔てた先の空間で催されているのは、世にもおぞましい饗宴だ。阿澄はこれまで他人の家で開催していたそれを、はじめて我が家で開催したのだ。
弟と知佳に当てつけるために。あわよくば、見せつけるために。
「姉が友だちを家に呼んでいるみたい。騒々しくてごめんね。僕の部屋に行こうか」
知佳はうなずく。水無斗は足早に廊下を進み、階段を上がる。
リビングの状況が状況ではあるが、知佳とは自室でコーヒーを飲みながら話をするつもりだった。せっかくの機会を無駄にしたくなかったし、姉の醜悪な企みに膝を屈したくない気持ちもあった。
しかし階段のなかばで、リビングを占領されていては隣り合うキッチンにも行けないから、コーヒーの用意ができないと気がつく。
阿澄に負けたくない気持ちはあるが、男たちの存在を無視して、二人ぶんのコーヒーを淹れる勇気はさすがにない。飲みものすら用意できないのに、来客に長居を強要するのは失礼だ。
「伊野瀬さん。上がってもらったのに悪いけど、騒がしいからやっぱりもう――」
手すりを掴んで振り返って、息を呑んだ。知佳がリビングのドアに相対し、真剣な横顔を見せているのだ。
水無斗が制止の声を飛ばすよりも早く、知佳の手がノブを回した。
開かれたドアからあふれ出したのは、阿澄の嬌声。艶めかしく喘ぎながら、性的絶頂の訪れが近いことを、今にも裏返りそうな声、下品で開けっ広げな言語表現を使って訴えている。
水無斗は猛然と階段を駆け下りてドアを閉めた。
知佳がゆっくりと振り向き、呆然とした顔つきで水無斗を見つめる。
彼は今にも泣き出しそうな顔で頭を振り、知佳の手をとって玄関へと引き返す。靴を履くように促し、自分も履いて外に出る。
肩を並べて伊野瀬家を目指す二人は、無言だ。
普段は饒舌な知佳が黙り込んでいる現状は、彼女が受けたショックの大きさを物語っている。
水無斗はどんな言葉をかければいいのかがわからない。思案を巡らせようにも、頭がまともに働いてくれない。雨音が沈黙を隠してくれない、晴天という本日の天候が、幼稚で馬鹿げた八つ当たりだとわかってはいるが恨めしかった。
十分ほどで伊野瀬家に到着した。大きさも平凡なら外観も平凡。門札の「伊野瀬」の字体ですらもありきたりで、愛おしさが込み上げてくる。
しかしすぐに、これは愛おしさではなく切なさだ、と気がつく。
平凡――水無斗が今、もっとも手に入れたいものであると同時に、もっとも遠くにあるものだ。
これ以上この場所にいたくない。でも、無言のまま別れるのはもっと嫌だ。なにか一言でもいいから、言葉を残してから去りたい。
知佳は門柱に寄り添うように佇んで水無斗を見つめている。なにを思い、なにを考えているのかは、その表情からは読みとれない。
「ごめんね」
彼の唇からこぼれたのは、謝罪の言葉だった。
「僕の家族は壊れているんだ。伊野瀬さんに醜いものを見せてしまって、ほんとうにごめん。謝ってすむことじゃないかもしれないけど、どうすればいいかがわからなくて。移動中はずっと考えていたけど、考えても、考えても、ほんとうにわからないんだ」
知佳が口を開こうとしたのを見て、「ごめんなさい」と改めて謝罪し、逃げるようにその場から離れる。彼女は呼び止めないし、追いかけてもこない。
胸を撫で下ろしたあとで、胸が締めつけられた。
最寄り駅の近くを流れる川沿いに公園が整備されている。川面が夕焼けに輝きはじめる時間帯、ジョギングや犬の散歩に勤しむ人々の姿が目立つ。己の日課をこなす彼らは、誰も彼もが善良そうな顔をしている。そのくせ、他人には徹底的に無関心だ。
粗末な木製ベンチに腰をかけた水無斗は、さびしさを強く感じていた。
知佳を置き去りにして公園まで来た。自宅では姉が見知らぬ男たちと乱交に耽っている。両親の家に行くのは気乗りがしない。
彼は疑いようもなく、どうしようもなく孤独だった。
唐突に、子どものころ、姉と虫捕りに行って迷子になったことを思い出した。
両親から聞いた話では警察沙汰になったらしい。まだ幼かったのと、怖い思いをしたショックが相俟って、水無斗自身は当時のことはおぼろげにしか記憶していない。
ただ、ふと我に返り、近くに姉がいないと悟った瞬間の心細さは、今でも鮮明に覚えている。忘れたくても忘れられそうにない。
今は周りに何人も人がいる。あのころよりも精神的に強くなった。状況だって全然違う。しかし、感じるさびしさの種類は同じだ。
救いなのは、あのときとは違い、希望の光が見えていること。
明日登校すれば知佳の顔が見えるし、話ができる。男たちはなにも永遠に相原家に居座るわけではない。彼らが去ったあとは、阿澄はいつもどおりに弟と接するだろう。時間という妙薬が、両親への広義の愛を復活させてくれるかもしれない。
孤独感は一過性のものに過ぎない。自らに言い聞かせるように強く意識したのを境に、さびしさは緩やかに薄らいでいく。
しかし、入れ替わるようにして、無聊が心を苛みはじめた。
携帯電話を見ようとして、家に置いてきたスクールバッグの中だと気がつく。
ゲーム機が手もとにあれば暇つぶしができたのに。
ため息混じりにそう思ったのが引き金となり、意識が『マイモン4』へと飛んだ。
現在プレイしている『マイモン3』の続編として発売が予定されている、『マイノリティーモンスターズ』シリーズの最新作だが、水無斗は購入を迷っている。モンスターの数が新たに四百種類追加され、合計千種類になるというのが最大の要因だ。
千種類ものモンスターをコンプリートするのはかなり大変そうだ。そんなことに時間を使うのが、果たして正しいのだろうか?
水無斗は幼いころから『マイモン』シリーズを遊んできたが、長い時間をかけてコレクションを完成に近づける意義に首をかしげたのは『マイモン4』がはじめてだ。
『たかがデータ収集にそんなにやっきになって、なんの意味があるの? 水無斗も暇人だよね』
阿澄からそう冷やかされたのはいつのことだっただろう? 当時は好きなゲームを馬鹿にされた憤りしか湧かなかったが、年齢を重ねたことで、姉が言いたかったことが理解できた気がする。
塵が積もれば山になるが、その山に価値がある保証はない。
そして、積み重ねたものはいとも容易く瓦解してしまう。
積み重ねることは、虚しい。
いつになったら、阿澄のもとから男たちは去るのだろう。
いつになったら、両親に気軽に会いに行ける日が来るのだろう。
僕たちは歴とした家族なのに、なぜ気軽にコミュニケーションがとれないのだろう。
いつの間に、気軽にコミュニケーションをとれない関係になってしまったのだろう。
いつ、どこで、どんなふうに間違った結果の今なのだろう。
修復は可能なのだろうか。「修復した」と言える状態になったとして、それは元の形と同じなのか。
同じではなかった場合、それは修復したと言えるのか。
同じには戻らないのだとすれば、修復する意味はあるのか。
修復がそもそも不可能なのだとすれば、どうすればいいのだろう。
なにもかもが不透明で、なにから着手すればいいのかさえもわからない。
一歩を踏み出す前からこんな調子では、望んでいるものを手に入れることなんて。それどころか、指先に一瞬触れることさえも。
「相原くん」
いきなり背後から声をかけられて、水無斗は呼吸が止まりかけた。
その人物は、ベンチを回り込んで彼の前まで来た。
「――伊野瀬さん。どうしてここに?」
「追いかけてきた。心配だったから」
知佳は満面の笑みで即答した。実年齢よりもずっと幼く見えるその笑顔に、水無斗は涙ぐみそうになる。
知佳はいっさいの躊躇なく、水無斗の顔へと自分の顔を近づけた。髪の毛から漂ってくるかぐわしい香りに、彼の世界は自らと彼女の周囲の極めて狭い範囲内に縮小する。視線と意識は目の前の少女に釘づけだ。
「相原くんは家族が壊れているって言ったよね。でも、わたしの意見は違うかな。相原くんの家族のことは全然知らないけど、壊れていないと思う」
「え……?」
「だって、相原くんは壊れていないでしょ」
知佳の全身は淡く輝いている。水無斗は食い入るように瞳を見つめる。彼女は永遠の象徴のようにほほ笑んでいる。
「だから、いつか元どおりになるよ。相原くんが壊れなければ、ばらばらになっていたものもいつかくっつく。だから、大丈夫だよ」
知佳は胸を水無斗の顔面に押しつけ、後頭部に両腕を回して抱きしめた。肉体的な圧迫感ではなく、甘い体臭に窒息しそうになる。知佳は子どもを慰めるようにぽんぽんと頭を叩き、体を離した。顔を上げると、彼女らしい朗らかな表情が視線を受け止めた。
神だ、と思った。
伊野瀬さんは、少なくとも僕にとって、もっとも神に近い存在だ。
「一人で帰れる? 一人で来たんだから、ちゃんと帰れるに決まっているよね。また明日」
知佳は胸の前で小さく手を振り、スカートの裾を揺らしながら遠ざかっていく。彼我の距離が開けば開くほど輝きは収束していく。
次第に小さくなる背中を追視しながら、もっと伊野瀬さんと仲よくなろう、と思う。彼女の性格と、これまでに築き上げてきた関係を考え合わせれば、水無斗が驕り高ぶらなければ拒絶されないはずだ。
ベンチから腰を上げ、汚れてもいない尻を払ってから歩き出す。
自宅に帰るつもりだった。
阿澄が家に男たちを招いた目的は、水無斗と知佳に見せつけて当てつけることなのだから、知佳が帰れば彼らも帰るはずだ、という読みがあった。たとえ男たち全員が、水無斗を嘲笑で出迎えるために待ち構えているのだとしても、構うものか。そう開き直った。
仮にその想像が現実と化したなら、水無斗は彼らの嘲笑を聞き流し、平然と二階に上がることはできないだろう。そんな勇気が自分にないことくらい、百も承知している。それでも歩みは止めない。
ばらばらになった家族を繋ぎ合わせる方法は、現時点ではまったくわからない。だから、積極的に行動しようとは思わない。
『いつか元どおりになるよ。相原くんが壊れなければ、ばらばらになっていたものもいつかくっつく』
その言葉を胸に日々を生きていきたいと今はただ思う。
水無斗が帰宅すると、三和土は閑散としていて、男たちは一人残らず消えていた。
キッチン・ダイニング・リビングに跨る領域には、大量のごみと食べ残しが散乱している。
リビングのソファでは、素っ裸の阿澄が踏ん反り返ってポテトチップスをかじっている。菓子の破片が自らの体や床に続々とこぼれ落ち、ただでさえ汚い空間がますます汚れていく。
目が合うと、阿澄は阿澄らしく尊大に唇の端を持ち上げた。
水無斗は姉から視線を切り、ごみを片づけはじめた。
黙々と手を動かす弟に、姉はいつもどおりの調子で話しかけてきた。伊野瀬さんのことを悪く言われるのは嫌だな、と懸念していたが、クラスメイトのことにはいっさい触れてこない。
最初は違和感があったが、すぐに納得した。阿澄は昨日知佳を部屋に招き入れた件でさえ、言葉ではなく、激しい暴力という形で抗議した。そんな姉が、自分から知佳を話題にするはずがない。
黙々とごみを拾いながら、知佳ともっと仲よくなろうと水無斗は決意する。
彼は遅まきながら、本格的な姉離れの第一歩を踏み出したのだ。
水無斗は伊野瀬知佳との距離を段階的に縮めていった。
休み時間に話をする。昼休み時間にいっしょに食事をする。登下校をともにする。休日に二人で遊びに行く。どちらかの自宅を訪問し、自室で過ごす。そして、口づけ。
知佳は飾り気がなく、包み隠さず、故意に人を傷つけるようなことを言ったりしたりしない。気楽に接することができ、言いづらいことも打ち明けられ、安心して過ごせる。それらはどれも、阿澄は持っていない、今後持つ可能性もまずない美点だ。
水無斗は知佳の性的な部分にも惹かれたが、それは思春期男子の宿命のようなもの。ほんとうに欲していたのは平穏な平凡だったのだと、彼女と時空間を共有する中で気がついた。
伊野瀬家をはじめて訪れたさいに、その平凡さを切なく感じたことが思い出される。水無斗は最初、切なさを愛おしさだと勘違いしていたが、勘違いしていたという認識が勘違いだったのだと訂正する。
平凡は愛おしい。平穏が加わるとなお愛おしい。
知佳と過ごす時間がたまらなく楽しいのは、ようするにそういうことなのだろう。
「相原くん、ありがとうね。知佳と仲よくしてくれて。娘と友だちになったのが普通の男の子で、親としてはすごくほっとしてる」
知佳の家で過ごす真夏の昼下がり、トイレに行った知佳と入れ替わりに茶と茶請けを持ってきた彼女の母が、水無斗の目を見ながらおもむろに切り出した。気軽な世間話でもするような口ぶりだった。
「あの子、少し人とは違ったところがある子でしょう。それが原因で学校ではいじめられて、ひどいときは性的ないやがらせを受けたこともあって」
他愛もない世間話を装って告げられるには、その事実は重すぎた。しかし、重い打ち明け話をされるくらい信頼されているのだという認識が、重みを受け止めるための助力となった。
「だから相原くん、これからも知佳と末永く仲よくしてね。相原くんもわかっていると思うけど、思ったことをストレートに口にする子でしょう。あの子ね、私や夫に向かってあなたのことばかり話すの。相原くんのことが大好きなの。あの子が好きなものはたくさんあるけど、相原くん以上に好きなものはないんじゃないかな」
最後の最後に心からの笑顔を見せ、母は部屋を去った。
母が口にした「末永く」という言葉に、水無斗は結婚を連想した。そのせいで、知佳が帰室してからしばらくは受け答えがぎこちなくなり、不思議そうに小首をかしげられた。
ばらばらになってしまったが、壊れたわけではない僕というかけらは、知佳というかけらと結びついて家族になるのかもしれない。
知佳とのにぎやかなやりとりを楽しむかたわら、そう思った。
順調に愛情を深め、信頼関係を構築していく中で、水無斗は体を交えるのに適当な場所を探していた。
伊野瀬家は、両親のどちらかが在宅になるような仕事時間の配分になっていて、チャンスが少ない。その少ないチャンスも、二人が学校にいる時間と重なるなどしていて、実質的にはないに等しい。
一方の相原家では、阿澄が負の存在感を放っている。二人きりで過ごしているときに自室に入ってこられた前例もある。
したがって、選択肢はおのずと屋外。
決め手となったのは、人気のなさと、そのときの気分だった。
水無斗は、知佳が醸し出す独特の緩い雰囲気に浸るのが好きだ。一方の知佳は、どんな言葉も真摯に受け止める水無斗の誠実さを快く思っているらしい。
二人は人でにぎわう店や施設に遊びに行くよりも、静かな場所で二人きりで過ごすのを好んだ。放課後、遠回りになる帰宅ルートをあえて選び、のんびりと歩きながら談笑することがたびたびあった。
知佳は性に関する話はまずしない。自分からは皆無といっていい。
水無斗の中では、彼女をはじめて自宅に上げたさいの全裸事件の印象は強烈だった。知佳は羞恥の念が薄いのだろうと、なんとなく思っていた。性の話題に積極的には触れないことと考え合わせて、そちら方面への関心がない人なのだと思い込んでいた。
しかしなんの弾みか、住宅地の外れにある公園のブランコに腰かけての会話で、自慰行為の頻度が話題に上り、水無斗の認識は根幹から揺らいだ。受けたショックは小さくなかった。
しかし、少し前まで実の姉と日常的に濃厚な肉体的接触を持ち、セックスまでしていた事実を思い出したとたん、心は嘘のように落ち着きを取り戻し、沈着冷静に現実を直視できるようになった。
そして、今や友だちというよりも恋人と呼ぶにふさわしい少女の瞳の潤いに、彼女が相原水無斗に抱いている期待を読みとった。
二人は目配せをしてブランコから立ち、公衆トイレに直行した。洗面台の前で相対し、鏡に見守られながら口づけを交わす。
個室に入ると金木犀が香った。主導権は水無斗が握った。セックスの経験がないと、知佳がはにかみながら申告したからだ。
性的ないたずらを受けたことがあるという、彼女の母の言葉がひっきりなしに脳裏にちらつく。手ほどきはおのずと慎重になった。次第に昂り、ある種の激しさを知佳が求めても、水無斗は断固として紳士的に振る舞った。
知佳にとってはじめての経験だし、水無斗が経験したセックスは受け身なものばかり。互いに挙動はぎこちなさが拭えず、動きが止まることが何回もあった。まるで初体験同士のセックスだった。時間はかかったが、とにもかくにも終点に行き着いた。
便座から滑り落ちそうになった彼女を抱きとめる。汗ばんだ一対の裸体は密着し合って離れない。熱い吐息が混ざり合う。
二人は長時間、抱き合ったままでいた。
人生ではじめてとなる、ささいな形でも家族ぐるみで誕生日を祝わない年となった。プレゼントやケーキどころか、「誕生日おめでとう」の一言すらもなかった。乱交事件を機に疎遠になる一方の姉からはもちろん、定期的に連絡をとっている母からも、今やすっかり他人のようになってしまった父からも。
祝われる対象が十六歳と十九歳だと考えれば、異常とまでは言えないかもしれない。だとしても、「あめでとう」の一言すらももらえないのは間違っている気がする。
「今日は僕たちの誕生日だね。お姉ちゃん、おめでとう」
水無斗は入浴を終えて部屋に戻ろうとする姉を待ち構えて、その一言を贈った。
一糸まとわぬ姿、濡れた髪の毛の先から雫をしたたらせた阿澄は、その事実にたった今気がついたとでもいうように「ああ」と言った。そして、皮肉っぽい口調でこう返した。
「あたし、もう十九だよ? あと一年で十代から卒業なのに、うれしくないって」
十九歳の若さで老いを意識している姉が、水無斗はさびしかった。
水無斗が高校生となってからはじめてとなる台風と金木犀の季節が到来し、過ぎ去った。
新年度を迎え、冬を越えて、学年が一つ上がった。
水無斗と知佳はクラスが別々になったが、交際は熱量を維持して継続した。学校の外でも内でも、互いの友だち付き合いに支障が出ない範囲内で、なるべく時空間を共有し、たまにセックスをする。過ごしかたは去年度までと代り映えしないが、何度積み重ねても飽きることがない。
二人は平穏で平凡だが刺激的な日々を謳歌した。彼にとっては少し遅れてやってきた青春だった。
唯一の変化らしい変化といえば、自身の将来について、互いに散発的に話すようになったこと。
水無斗はこれという夢を持たない。ただ、正道からは大きく外れていない道を堅実に歩みたいとは思う。
希望としては、とりあえず大学には入りたい。大学に入れば、やりたいことがおのずと見えてくる。いささか楽観的すぎる気もするが、そう考えていた。
一方の知佳は、勉強が苦手だし好きではないから、働くのも悪くないと考えている。ただ、風変りな彼女にも「普通」を望む気持ちはあるようで、高校卒業後に就職は少し早いとも思っているようだ。
進路について意見を交わすうちに、知佳の心は徐々に進学へとかたむきつつあるらしい。勉強は苦手だが学校という場は好きだから、水無斗とともに歩めるなら、その道を進むのも悪くないと。
同じ大学に通うと仮定すると、必然に同居という案が浮かぶ。二人の交際を、知佳の両親は全面的に支持していて、相原家の人間はみな基本的に不干渉だから、二人の意思は尊重される公算が高い。水無斗たちが暮らしている県に大学はわずかしかない。進学するのであれば、実家を出て県外で暮らすことになりそうだ。
そこまで考えて、自分が姉から遠ざかりたい願望を持っていることに彼は気がついた。
水無斗の不幸の大半は相原家で起き、そのほとんどで阿澄が主犯だった。相原家と姉から距離を置くことが、彼の漠然とした願いである、普通の道を歩くには不可欠だと思われる。
阿澄は家事ができる水無斗がいないと生きていけないが、彼が生きていくうえで、阿澄に助けてもらわなければならないことは一つもない。
巣立ちのときが来たのだ。
表向きには無風の生活は駆け足で過ぎ去り、水無斗は高校三年生になった。
「県外の大学に通いたい」と阿澄に伝えるタイミングが難しかった。直前になるのは避けたいから、遅くとも年内にはすませたい。しかし、決心をつけられないうちに夏になり、夏が過ぎ、人生で十八度目となる台風と金木犀の季節が訪れた。
最近の阿澄は、頻繁に男のもとに出かけることを除けば、言行には落ち着きが出てきた。弟と接する機会は減少し、態度も温和になった。広い意味で水無斗に依存しているようではない。
だからこそ、恐ろしい。
吐き出さないだけで、諸々の感情や想いを大量にため込んでいるのでは?
弟が姉のもとを離れるというのは、彼女にとっては許容しがたい選択で、それが引き金となって感情や想いを爆発させるのでは?
季節は冬になり、水無斗はとうとう決意する。
「お姉ちゃん、ちょっと話があるんだ」
夕食の後片付けを終えたあと、最近にしては珍しくリビングのソファに寝ころがり、つまらなさそうにテレビを観ている姉に向かって、彼は切り出した。
阿澄は緩慢に上体を起こし、リモコンでテレビを消した。これまでに体験したことがない、独特の緊張感を孕んだ静寂。水無斗は姉の横に腰を下ろした。
「進路のことだよ。僕は今年で高校を卒業するけど、その先のことについてお姉ちゃんと話をしておきたいんだ」
最初の一言と、それに続くセリフを言ってからは、言葉はスムーズに口から出た。伝えたいことは事前にある程度整理していたから、その意味でもつかえることはない。
県外の大学に入りたい。そのために、この家を出たい。一人暮らしをするのではなく、恋人の伊野瀬知佳と生活をともにしたい。
「ああ、あの子ね。あんたが高一のときに一回、うちに連れてきたことがあったよね。そっか、今は付き合っているんだ」
阿澄の口角には冷笑が浮かんでいる。
「あの子、顔を見たのは二回だけだったけど、変な子だったからよく覚えてる。はじめて会ったとき、あたしの顔を五秒くらいじっと見つめてからお辞儀をしたから、なにこいつって思った。次の日、あたしが家に友だちを呼んでどんちゃん騒ぎをしていたときは、リビングのドアを少し開けて中を覗いてきたよね。あんたがすぐに閉めちゃったけど。あの子、ぼーっとしてるのか真剣なのかわからない顔をして、あたしたちがやっていることを見るのね。羞恥心に顔を赤らめるのでも、性的興奮に目を輝かせるのでもなくて、樹の幹にへばりついているセミかなにかを観察するみたいに。それを見て、ああ、この子は頭が弱いんだなって確信した。だってそういう態度って、知的障害者特有のものでしょ。別に障害者を差別するつもりはないけど、気持ち悪いなって」
知佳を「頭が弱い子」と嘲られた瞬間、水無斗の胸に怒りが生まれた。阿澄が言葉を重ねれば重ねるほどその感情は膨らんでいく。
しかし不意に、思いがけない感情が割り込んできた。
憐れみだ。阿澄に対する憐れみ。
「伊野瀬知佳は頭が弱い」という感想を、当日ではなく、弟が家を出る意思を伝えた今日という日に持ち出した姉が、ひどく弱い存在に思えたのだ。
姉が弱い――水無斗がはじめて抱いた認識だ。
「そんな子と二人で、やっていけるの? あんたはガキのころからずっとガキのままだから、将来的には結婚したいとか、ガキくさい早まった考えを持っているんだろうけど、そんな甘っちょろい考えが通用するとでも思ってるの? まさかだけど、愛があればどんな困難も乗り越えていけるとか、そういう馬鹿丸出しのことは言い出さないよね? 本気でそう思っているのなら、それはそれで面白いけど」
その発言を聞いて、弟に家から出て行かれたくないがために、弟と同居予定の人間の悪口を言い出したのだと水無斗は了解した。憐れみの感情は極限まで高まり、彼は切なげに眉根を寄せた。
なおも言葉を連ねようしていた阿澄は、その表情を見た瞬間、しゃべるのをやめた。
緊迫感とは似て非なるなにかを孕んだ静けさがリビングを満たしている。水無斗は姉の目を見ながら口舌を動かす。柔らかく握りしめた言葉の一つ一つを、手渡しで心までそっと運ぶように。
「ねえ、お姉ちゃん。お姉ちゃんがいくら知佳の悪口を言っても、僕はこの家から出ていくのをやめないよ。僕はこの家を出るか出ないか、迷っているから相談しているわけじゃなくて、決定事項を伝えているんだ。だから、これ以上汚い言葉を吐くのはやめて。お姉ちゃんだって、どうせ別れるなら気持ちよく別れたいでしょ」
阿澄は雷に打たれたような表情を見せた。弟から顔を背け、少し俯き、その姿勢で微動だにしない。
やがて、彼女は聞こえるか聞こえないかの声でため息をついた。
再び水無斗のほうを向いたとき、その顔には吹っ切れたような表情が浮かんでいる。何度も見たことがあるようで見たことがない、見る者を呆然とさせるような表情だ。
「そうだね。……うん、あたしが悪かった」
謝った。誤っても謝ることは絶対になかった、あの姉が。
「じゃあさ、水無斗、最後にお願いしていい?」
「……なに?」
「セックスしよう。最後のセックス」
これまでに阿澄とした中でもっとも穏やかなセックスとなった。彼女の動きは全体的に抑制され、攻撃的ではなかった。自らが消極的になった埋め合わせのように、弟に積極性を求めた。
水無斗はそれに懸命に応えた。彼女の反応を素直に受けとったならば、試みはおおむね成功をおさめたようだ。
心の奥まった場所にあった扉が開かれたような、そんな感覚を水無斗は覚えた。肉欲に囚われているという、今までの阿澄のイメージが根底から覆されそうな、実に穏やかなセックスだった。
事後、まずは阿澄がバスルームに行った。小一時間後に出てきたとき、彼女は憑き物が落ちたようなすっきりとした顔をしていた。
入れ替わりに水無斗も入り、シャワーを浴びた。リビングに姉は不在だった。少し話がしたい気持ちはあったが、自室に引き取った。
僕になにか言いたいことがあるなら、姉さんはなんらかの行動を起こしたはずだ。起こさなかったのだから、言いたいことはなにもないのだろう。だから、これでいい。
こうして、姉との関係に大きな区切りがついた。
知佳の猛勉強と、水無斗の献身的なサポートの甲斐あって、二人は無事に同じ大学に合格した。
「ああ、受かったんだ。おめでとう」
弟からの報告に、阿澄はさばさばと祝辞を述べた。嫌味っぽい言いかたではなかった。
引っ越しの準備は、紆余曲折ありながらも着々と整っていった。頼りないところもある二人だが、協力し合ったときは一足す一が三にも四にもなった。
知佳の両親は全面的に協力してくれた。水無斗の両親も、必要であれば金銭の出し惜しみはしなかったし、簡単ではあるが的確なアドバイスを送った。現状の親子の関係性を考慮すればもっとも誠意ある対応だ、と彼は納得した。
旅立ちの日、阿澄は自宅から忽然と姿を消した。
出発まで一時間を切っても帰ってこない。連絡もない。
いつものように遊びに出かけたのだろうが、一言も交わさないまま行ってしまうのは悔いが残る。出発までに帰ってくるようにメールで要請したが、音沙汰はない。
姉からの返信は、水無斗が知佳とともに高速バスに乗り込み、座席に腰を落ち着けた直後にようやく届いた。
『これからはあたしじゃなくて、恋人の相手をしたほうがいいよ。水無斗はあたしじゃなくてあの子を選んだんだから』
阿澄ではなく知佳が隣にいる新生活は、慌ただしいながらも、一日のどこかにほっとできるひとときを挟みながら流れていく。
互いに大学生活には無難に適応した。
水無斗は家事ができない知佳に代わってその仕事をこなしながら、学業も決しておろそかにはしなかった。
知佳は日々の課題に食らいつき、持ち前の飾り気のない性格を武器に交友関係を広げた。高校生まではいじめを受けた経験もあるということで、水無斗はそれを心配したが、大学生にもなるとそんな幼稚な真似をする人間はいないようだ。
困難は枚挙に暇がなかったが、二人は団結し協力しながら一つ一つ乗り越え、順調に愛を育んでいった。
まぎれもなく、充実した大学生活だった。
大学の長い夏休み期間を間近に控えて、水無斗は帰省というイベントを意識しはじめた。
「夏休みだけど、帰省はどうする? やっぱりお盆に合わせてかな」
七月に入って二回目の日曜日、水無斗手製のパスタとサラダとスープの夕食を終えたあとで、彼はそのことを知佳に話した。言われるまですっかり忘れていたらしく、彼女は驚いていた。
いっしょのバスで地元に帰る。それぞれの実家で数日間過ごす。二人で遊びに行きたい場所があれば出かける。いっしょのバスで現在の住まいに戻る。そんな予定が速やかに立てられた。
水無斗が母に電話をかけると、久しぶりに顔を見たいが家には来てほしくない旨を伝えられた。父の意思を確認してもらったところ、母と同意見だという。
家族の絆を修復する困難さを突きつけられたようで、水無斗はショックを受けた。しかしすぐに気持ちを切り替え、家族三人で食事する約束をとりつけて通話を切った。
姉への連絡手段にはメールを選んだ。文章は簡潔さを心がけて、用件とは無関係の情報はすべて省いた。
送信して半時間ほどで電話の着信があった。姉からだ。かすかに胸がざわめくのを感じながら出ると、
「水無斗に見せたいものがあるから、ぜひ会いに来てよ」
数か月ぶりに聞く阿澄の声。わざと明るい声を出しているようでもあるし、あふれ出そうとする喜びを抑えつけているようでもある。
胸騒ぎが悪化した。四か月間の一人暮らしは、姉にどんな変化をもたらしたのだろう?
具体的な日時などについて話し合ううちに、阿澄の性格や人格といった根本的な部分までは変わっていないことがわかった。ただ、不安の霧は濃く、深く、おいそれとは払拭できそうにない。
水無斗と同じタイミングで両親に電話をかけていた知佳は、満面の笑みで会話の一部始終を報告した。彼は恋人の無邪気さに救われる思いがしたが、不安を一掃するには力不足だ。
姉に異変を感じたことは伝えなかった。
知佳に隠しごとをするのは慣れていないせいで、その日は眠りに落ちるまで精神状態が安定しなかった。いつもどおりに明るく振る舞う最愛の人が、恨めしいくらいに羨ましかった。
平凡な平穏が崩れ去るかもしれない。
寝つきが悪い夜が連なった。
帰省当日、水無斗は期待よりも不安を強く抱えて、知佳とともに故郷行きの高速バスに乗り込んだ。
知佳は久々に家族と会えるのがうれしいらしく、車内ではいつもにも増してよくしゃべった。
出会ったころから色あせない無邪気さと朗らかさに、水無斗は緩やかに落ち着きを取り戻していった。懐かしい故郷の景色が窓外に見えてからは、姉は思わせぶりな態度をとって弟をからかおうとしたのだ、という考えが支配的になった。
しかし、三叉路で知佳と別れたとたん、不安がぶり返した。玄関ドアの前で足を止めたときには、あまりにも強く心臓が拍動するので、シャツの左胸を右手で強く握りしめたほどだ。
その手を伸ばしてインターフォンを鳴らす。
しばらく待つと、足音が近づいてきた。鼓動の高鳴りは最高潮に達した。ドアが開かれた。
阿澄だ。牛柄のベビーウェアを着た赤ん坊を胸に抱いている。
彼女はおぞましい微笑で口角を彩り、弟を地獄へと突き落とす言葉を吐いた。
「おかえり。この子、あたしと水無斗の子どもの槐多だよ。ほら、顔をよく見て。水無斗にそっくりでしょ?」
阿澄は散らかりきったリビングで、自らが槐多と命名した赤ん坊が、自分と水無斗の実の息子であることを、ありとあらゆる情報を持ち出して説明した。
人間の平均的な妊娠期間。槐多の誕生日。きょうだいが最後にセックスをした日付。雑然とした室内に点在するベビー用品の数々。
以上の情報を考慮すれば、槐多の父と母が誰なのかは明らかだ。
説明を受けるまでもなく、水無斗は槐多が自分の子だと理解していた。顔が水無斗に瓜二つなのだ。
近親相姦の結果、誕生した子ども。
呪われた、罪深き子どもをこの世界に送り出した自分。
ショックのあまり頭が働かず、姉の発言の大半が、右の耳から左の耳へと通り抜けていった。
呆然とする弟の意識を現に引き戻すためだとでもいうのか、阿澄は急に突拍子もないことを言い出した。
「水無斗が覚えている最古の過去って、なに? あたしはね、自分の生後十四時間ごろの記憶があるよ。白くて薄暗い清潔な部屋――ようするに病室なんだけど、お母さんが『こんな世界に産み落としてしまってごめんなさい』って泣いてた。お母さんの泣いている姿を見たら、なんだか無性に悲しくなって、あたしまで泣いちゃってね。『こんな世界に産み落としてしまってごめんなさい』――今の水無斗はまさにそんな心境なんじゃないの?」
水無斗は忽然と理解する。
姉は頭がおかしいのだ。だからこそ、まだ幼かった僕に性的な悪戯をして、挙句の果てにセックスまでした。
「うわの空だね。まあ、無理もないかな。今の水無斗と話しても時間の無駄だから、槐多といっしょにお母さんのところに行ってくる。お母さんとはね、育児のアドバイスをしてもらううちに仲直りしたんだ。水無斗もいっしょに来てもいいけど、一人で考える時間も必要なんじゃない? 部屋のものは自由に使ってくれていいから。もう一人の息子とも会ってくるから、どんな様子だったかは帰ったら報告する。じゃあね」
阿澄はベビーベッドから息子を抱き上げ、蝶のように掌を振って相原家を去った。きょうだいが対話しているあいだ、槐多は一秒たりとも泣かなかった。
散らかったリビングにいつづけても気が滅入るだけだ。だからといって自室に行く気にはなれず、庭に出ると、まだ花をつけていない金木犀の前に無数の光の粒が滞っている。
不安にも似た恐怖が込み上げた、次の瞬間、光の粒の集合体は特定の形を目指して蠢き、ねずみ色の襤褸をまとった白髪白髭の老爺に変身を遂げた。
神だ、と水無斗は直感した。
神は水無斗に向かって静かに首肯した。人型になったのとは逆の変化をたどって光の粒の集合体へと回帰し、薄れて消えた。
「……そうか」
呆けたように金木犀を見つめながら、水無斗はひとりごちる。
「起きてしまったことは起きてしまったと認めて、生きていくしかないんだ。なにが起きたのだとしても、起きてしまった事実は消せないのだから」
神がほんとうにそう伝えたかったのかはわからない。己に都合のいいように解釈しているだけなのかもしれない。それでも、その思いを胸にこれからの日々を生きていきたいと思う。
水無斗は神を模倣するように浅くうなずき、金木犀に背を向けて庭をあとにした。
阿澄が生まれた日、彼女の両親が住む町に台風は上陸していなかった。そもそも、地球上のどこにも台風は発生していなかった。
午前七時半を回り、町はすでに朝を迎えている。空には快晴が広がっていて、無風だ。
阿澄の父は車の中でパンを食べている。
病院近くのコンビニの駐車場の隅に停めた愛車の運転席。外がまだ暗かった時間帯から照明をつけていたので、車内は明るい。食べているのは税込み百円のアンパンで、中に詰まっているあんこの量は少なめだ。
そのすべてが、父にとってはどうでもいいことだ。
なぜなら、彼の妻がもうじき出産をする予定なのだから。
「あの人の血が流れた子どもなんだから、将来はきっと美人になるんだろうなぁ」
アンパンを咀嚼しながら父はひとりごちる。食べながらしゃべるという、行儀の悪い真似をするのにもまったく抵抗はない。なぜなら、彼は今、妻が待望の第一子を出産するという幸福を目前に控えているのだから。
「しかし、まさか、過ちを犯すことはないだろう。なんといっても、かわいい、かわいい我が子なんだから」
父は駐車場に隣接する民家の庭を眺めながら口を動かす。猫の額ほどの狭隘な庭の隅に金木犀が植わっていて、小さなオレンジ色の花が咲き誇っている。
その花を眺めながら食べていると、独特の香りに鼻孔がくすぐられるようで、ますます幸福な気持ちになるのだった。