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第3話 阿澄②

「あたし、学校に行くつもりはないから」

 阿澄は大きくはないがはっきりとした声でそう明言した。水無斗の童貞を奪った日以来断続的に開催されるようになった、阿澄の進路を巡っての母と娘の話し合いの場での一幕だ。

 学校という場に悪い印象や思い出はないが、わざわざ行きたいと思うほどの魅力は感じない。クラスメイトの男子たちに胸を見せたことも、高梨創介との放課後の戯れも、中学校での友人たちとの交流も、今となっては遠い過去でしかなかった。

 母は娘の意向に真っ向から反対した。理由は明言しなかったが、母が定義するところの常識にのっとった結果の不賛成らしい。

 阿澄は断固として持論を曲げなかったが、母も一歩も引かず、一向に埒が明かない。

 決着を着けるべく、阿澄はきっぱりとこう言った。

「お母さんの意見って、他人から借りてきているだけだよね。お父さんとか、テレビとか新聞とかネットとかで誰かが言っていた意見を。いかにも自分の頭で考えて導き出しましたって顔してほざいているけど、全部どこかで聞いたことあるからね。薄っぺらいから。自分のものでもない意見を拒まれて怒り出すって、あんたそうとうおかしいよ。仮に無理矢理どこかの高校に入学させたとしても、あたしは絶対に行かないから。お金をドブに捨てずにすむんだから、喜んであたしの意見を受け入れてよ。それとも、まさか、あたしが気に食わないから反対しているとかじゃないよね。それはそれで情けない理由だと思うけど、あんた自身はどう思ってるわけ?」

 挑発的な物言いに対する反発はあったものの、最終的に娘の意見は聞き入れられた。

 阿澄としては、どちらに転ぶかわからない戦いをものにしたというよりも、多少遠回りをしたが当然の結末にたどり着いたという認識だった。


 小雪がちらつく二月の終わりに、母は父が住む家へと引っ越していった。


 新年度を迎え、水無斗は中学一年生になった。

 進学を拒んだ阿澄は、自由気ままな日常生活を送りつつ職を探す身となった。

 アルバイトの面接にはことごとく落ちた。履歴書の書きかたからして怪しいうえに、面接の場に作り物の情熱すら持ち込まなかったのだから、不採用に終わるのも無理はなかった。

 阿澄は本気で職を探していない。進学しない代わりに働くという、母から提示された交換条件を呑んで、就職するふりをしているだけ。

 労働はしたくない。ただ、世界が拓けるのは胸が躍る。履歴書すら満足に書けず、不真面目な態度で面接に臨む、社会を舐めきった十五歳を雇う職場があるのなら、仕方なく働いてやってもいい。

 しかし、そんな甘ったれた考えを持つ人間に、収入を得る機会が提供されるはずもなかった。


 阿澄はアルバイトの面接が早い時間に終了しても、適当な場所で適当に時間をつぶし、水無斗が中学校から帰る時刻を待って帰宅する。

「お姉ちゃん、おかえりなさい」

 今日も期待どおり水無斗はリビングにいて、期待どおりの言葉をかけてくれた。

 ガラス製のローテーブルに置かれているのは、オレンジジュースがなみなみと注がれたグラス、コンソメ味のポテトスナックの袋。手にしているのは、携帯ゲーム機。プレイしているソフトは、『マイモン3』。最近発売になったばかりの『マイノリティーモンスターズ』シリーズの最新作だ。

 阿澄はもはや『マイモン』シリーズへの関心を失ったが、新しいモンスターが二百体も追加されて、マップも広大でやり込み要素も豊富で、などと語る弟の話を聞くたびに口角が持ち上がる。初代『マイモン』の知識は多少あるので、狭く浅くならゲームの話でも盛り上がれた。

 阿澄は水無斗が、セクシャルなボディタッチを前提とした姉との交流を、『マイモン3』以上に楽しみにしていて、だからこそ自室ではなくリビングでゲームをしているのだと見抜いている。

 弟らしい内気な下心を、素直にかわいいと思う。そして、自分だけに関心を向けさせたい欲求が膨らむのを抑えられない。

 阿澄は水無斗の隣に腰を下ろし、彼のジュースをためらいなく飲んだ。いまだに緩やかに成長しつづけている胸を弟の二の腕に押しつけ、唇を耳もとに寄せ、

「バイト、まただめだったみたい。面接した人のリアクション、なんかそんな感じだった」

 ゲーム機を操る水無斗の指は止まっている。彼の意識は今、姉からの肉体的干渉の予感と、姉が職を得るのにまたしても失敗した事実、この二つに等分に奪われているに違いない。

「こうも落ちつづけると、さすがに嫌な気持ちになるよね。お前はこの世界に必要ない人間だって言われているみたいで」

 阿澄の唇から流れ出す言葉は、彼女自身が失笑をもらしかけるほどに、本音から乖離している。

 彼女にとってアルバイトの面接は、大雑把にいえば暇つぶしのようなもの。無理に働かなくても、贅沢をしないかぎり生活資金には困らないのだから、採用されなくても落ち込む理由はない。親には未成年の子どもを扶養する義務があることを知らない阿澄ではない。

 しかし三つ年下の水無斗は、そんな社会常識さえもまだ把握していない。姉からの報告を受けた弟の顔は、さながら近い将来に核戦争が勃発する事実を突きつけられたかのようだ。

 誤った認識の是正には努めない。無垢ゆえの絶望に打ちひしがれる心につけ込んで、若いというよりも幼い肉体に物理的な干渉を及ぼす。戸惑いと軽い拒絶を示しながらも水無斗はそれを受け入れる。

 落ち込んでいる姉を慰めるためには、嫌でも受け入れるしかない。姉のために多少の犠牲を払うのは弟の義務だ。そう己に言い聞かせて本音を誤魔化しているのだと思うと、呵々大笑したくなる。

 ゲーム機が持ち主の手によって、膝の上からローテーブルへと移動させられたとき、それが勝利の瞬間だ。

 セックスに突入することもまれにあるが、たいていは体を触るだけで満足した。それだけでは不満なときにだけ本番を求めた。

 阿澄は自分が満足した時点で行為をすっぱり打ち切った。かわいい弟のためにサービスすることもあるが、基本的には己の意思が優先。水無斗に愛情を抱いているのはたしかだが、性の捌け口としての意味合いが強く、対等な性のパートナーと呼ぶには程遠かった。

 一線を越え、禁忌的な遊びが習慣と化しても、きょうだいの上下関係は厳然として揺るぎなかったわけだ。


 学校にも仕事にも行かず、水無斗は常に構ってくれるわけではないから、時間はあり余っている。

 高梨創介に存在を教えられて以来、趣味の一つになっているアダルト動画鑑賞が、最上の暇つぶし手段だ。阿澄はそれによって得た知識を、弟相手にアウトプットするのもやぶさかではなかった。

 物珍しかったり、実行は不可能に思えたりするそれらの行為は、だからこそ実践してみたくなる。痛かったり、汚かったりする行為も、彼女はむしろ積極的に実践した。

 水無斗が嫌悪感を示したり拒絶したりしても、程度が多少であれば無視した。彼は性に関するあらゆる干渉を、まずは拒んでみせなければ気がすまないところがある。拒絶反応をいちいち真に受けるのは馬鹿げている、というわけだ。

 どこまでが許容され、どのラインを越すと本気で拒絶されるのか。交流が重ねれば重ねるほど、あいまいだった基準が明確化し、弟を意のままに操れるようになっていった。境界線を検証する作業、それ自体も彼女にとっては愉快な遊びだった。

 そして時おり、許されない一線を敢然と踏み越えて弟を凌辱した。

 ラインを越えた直後は、弟は姉から遠ざかるが、一定期間経てば必ず戻ってくる。だからこそ阿澄はあえて禁を犯すのだ。

 唯一不満なのは、水無斗があらゆる状況において受け身なこと。

 阿澄は攻めるほうが好きだから、受動的な弟を一方的にいじめるだけでも基本的には楽しいが、もっと積極的になってほしいと思うこともある。しかし、現状では絵空事の夢物語。

 さまざまな新規なプレイを試すのは、新しい扉を開く鍵が見つかるかもしれないと期待しているからでもある。

 とにかく刺激が欲しい。単調な日常に波風を立ててほしい。

 願わくは、人生を一変させるような、台風並みの暴風雨を。


 中学生時代の友人とは卒業とともに縁が切れてしまった。連絡先は知っているが、連絡はいっさいとらない。一人残らず、そのような水準にまで関係が後退した。

 驟雨がだらだらと降る日曜日、阿澄は男友だちの一人に電話をかけた。中学二年生と三年生のときのクラスメイト、学校の中でも外でも行動をともにすることが多かった、旧友Aに。

 旧友Aは、阿澄からの約三か月ぶりの連絡に驚いているようだ。

「あたし、今暇なんだ。あなたは?」

「忙しいよ。さっき授業が終わったばかりで、これから友だちと遊ぶ約束だから」

「授業って、高校?」

「そうだけど……えっ? 相原は高校行ってないの?」

 阿澄は癪に障ったが我慢した。弟相手には絶対にとらない対応だ。

「都合がつく日に遊ばない? 今日は忙しいみたいだから、また別の日に」

「いや……。こっちにも友だち付き合いがあるから」

「友だち付き合い? 他に友だちがいたらあたしとは遊べないわけ? あんたを束縛しているやつがいるってこと?」

「そういうわけじゃないけど……」

 阿澄は角度を変えながら追及する。しかし旧友Aは、直接の答えになっていない言葉を、窓外で今も降りつづく雨のようにだらだらと重ねてのらりくらりとかわす。彼女は聞こえよがしにため息をついた。

「またセックスさせてあげようと思ったのに、ざーんねん。あんた、ゴムなしでやらせてもらえる女、いるの? こっちは暇だって言ってるんだから、つべこべ言わずに付き合ってよ」

 旧友Aは口をつぐんだ痺れを切らした阿澄の「なにか言えよ」の一言に、彼はこんな言葉を返して通話を切った。

「そういうところが迷惑なんだよ」

 その日一日、阿澄は荒れに荒れた。事情を知らない哀れな弟を泣くまで痛めつけ、さらには性的にいたぶった。


 父のもとへ去った母の代わりに、家事はすべて水無斗がこなす。

 料理の腕前は、日常的に食べるぶんには合格点に達している。ただしレパートリーが乏しく、帰りが遅くなる日は一から作るのが難しいため、出来合いの総菜やインスタント食品に頼る日も少なくない。

 水無斗は、健全な生活には手料理が欠かせないと思い込んでいる節がある。一方、胃袋が満たされて、なおかつ心がある程度満足できればそれで構わない阿澄は、包丁で食材を刻む弟を尻目にカップラーメンをすするなどした。

 さほど汚れていない部屋にも、週に一度は掃除機をかける。姉が昨日と同じ服を着ていることに気がつくと、洗濯を強くすすめる。

 そんな弟の生真面目さを、阿澄は窮屈でいまいましいと感じている。彼女はむしろ、とことん堕落したかった。

 汚れる運命から逃れられないなら、いっそ身を任せたい。性も、身だしなみも、食生活や住環境も、だらしないくらいがちょうどいいし、普通なのだ。そう思っていた。

 しかし、日によっては最高気温が摂氏三十度を超える季節になり、阿澄は唐突に気がついた。

 自分には家事をこなす能力がなく、家族に貢献できないのが後ろめたい。その感情を誤魔化すために、一家の成員が家事をする必要がない、堕落した生活を理想としたのだ。退廃的な情景を美しいと感じ、愛する心があるのはたしかだが、それが理由のすべてではなく、副因に過ぎなかったのだ。

 きょうだいのあいだには、性的な要素を介在させないコミュニケーションももちろんある。その筆頭が、水無斗が学校から帰ったあと、リビングのソファで交わす無駄話。話題は阿澄の気分次第で変幻自在に変わるが、定番は、弟がどんな中学校生活を送っているのか。

 話を聞いたかぎり、平凡だが充実しているようだ。現時点では学校の中だけの付き合いだが、友だちも何人かいて、その中には女子も含まれているらしい。

「水無斗に異性の友だち? あんたが勝手にその子と仲がいいって思い込んでいるだけじゃないの。疑わしいんだけど」

 阿澄はそう茶化したが、彼の心根の優しさに惹かれる異性がいてもなんら不思議ではない。

 堕落を是とした心理と同じだ。普通の枠から外れている自分が後ろめたいから、正常な周囲のほうこそ異常だと見なし、安心しようとしている。


 おしゃべりをしながら登下校している制服姿の女子高生や女子中学生を見るたびに、阿澄の心は揺れる。

 いかにも青春しているといった様子の彼女たちは、輝いていた。みずみずしさが横溢していた。学校という健全な環境で健全な集団生活を送っている者だけに宿る性質なのだろう、と阿澄は思う。

 学校に行かず、働きもしない日々は、とにかく退屈だ。

 なにか、人生が一変するような体験がしたい。

 いつからか、そんな願いが阿澄の胸に萌していた。


 阿澄が唯一手伝うことがある家事が、食料の調達だ。

 水無斗が料理に使う食材の買い出しを代行するのではない。食べたいものがあるときに店まで行き、弟のぶんも含めて買ってくるのだ。

 秋晴れの昼下がり、阿澄はチキンカツが食べたくなった。近所のスーパーマーケットで安価で販売されている、肉の柔らかさが売りの一品。客観的にはごちそうとはいえない、取るに足らない惣菜だが、水無斗が揚げ物を作れないせいかたまに無性に食べたくなる。

 阿澄は暑さが和らぐ夕方を待って家を出た。

 見覚えのある人物を認めたのは、スーパーの駐車場を通って店に入ろうとしていたときのこと。

 視線を感じたらしく、その人物は運転席のドアを閉めながら振り向いた。阿澄の姿を視界に捉えて、彼は息を呑んだ。

 緊迫した沈黙が二人のあいだを漂う。見間違えるはずもない。

 高梨創介。

 五年ぶりに再会した元クラス担任は、くたびれたグレイのスーツに身を包んでいて、当時よりも生え際が大幅に後退している。阿澄に対する怯えと惹かれる気持ち、相反する二色が観測できたが、前者が優勢のようだ。臆病そうで、卑屈そうで、三十歳にもなっていないのに若さのかけらもない。

 高梨はあらゆる意味で、今晩食べる惣菜を買いにきた店の駐車場で会いたい男ではない。ただ、怖くないし不愉快でもない。それなのに無視して歩み去るなんて、この男に恐れをなしたみたいで癪だ。

 阿澄は真っ直ぐに歩み寄る。高梨は目を泳がせたが、逃げない。

「高梨先生、こんなところでどうしたんですか? 先生ってたしか、隣の県で教師を続けているんですよね」

 話しかけると、高梨は神経質そうに周囲を見回してから、

「わけがあるんだ。君と話がしたい。車に乗ってくれないか」

「そのわけを話してください。今ここで、きちっと。じゃないと車には乗れません。先生はどうしてわざわざこの店まで?」

 高梨は返答に窮したらしく、もどかしげに口をつぐんだ。やっぱりね、と思った次の瞬間、阿澄の耳もとに大胆に唇を寄せ、

「相原、君に会いたかった。このスーパーに寄ったのは偶然だが、この町まで車を走らせたのは、君に会いたかったからだよ。だから、相原、頼む。車に乗って、先生と話をしてくれないか?」


 自分が勤めている学校で児童相手に問題を起こしておいて、教師は続けられない。相原が聞いた「隣の県で教師をやっている」という噂は、相原が子どもだと侮った大人がついた子ども騙しの嘘だ。

 クビになったあとは実家に戻り、自室にひきこもった。しかし、三年前に「このままでは人間としてだめになってしまう」と奮起し、アルバイトをして生活費を稼ぐようになった。去年アパートを借りて移り住み、アルバイトを掛け持ちしながら正社員の仕事を探している。

 以上に要約できる身の上話を、高梨は車を走らせながら語った。

 阿澄はドラマのワンシーンにまぎれ込んだ気分だった。

 水無斗が不在の平日昼下がり、彼女は暇を持て余した挙句にテレビドラマを試聴することがある。

 ドラマの主要登場人物がクライマックスで語る訴えは、切実だが、パターン化されていてくどくどしい。広い意味での規則にがんじがらめになっていて、理屈っぽくて言い訳がましい。

 高梨の打ち明け話はそれに似ていた。

 ある意味では興味深くはある。ただ、聞いていて面白いものではないし、同情の念も湧かない。はっきり言って、うんざりする。

 高梨の話はだらだらと続いている。

 阿澄は無声で息を吐き、車窓の外に視線を逃す。既知のような、未知のような景色が時速六十キロで窓外を流れていく。

「長々と身の上話をして、先生はなにがしたいの?」

 言葉が途切れ、赤信号に引っかかったタイミングで本題に切り込んだ。高梨ははっとしたように元教え子を振り向いた。信号が青のままだったらどんな反応だったのだろうと頭の片隅で思いながら、

「ただ単に話を聞いてもらいたいだけ? だったら、今ここで車を降りるけど。ちょうど赤だし」

「違うよ、相原。私は謝りたいんだ。君にひどい目を遭わせたことを、今さらだけど謝りたい」

「教師をクビになって、社会的制裁ってやつも受けたんだから、それでもうその件はおしまいってことでよくない? あたしの中で先生は過去の人だから、今さら出しゃばられても迷惑なんだけど」

 しぃん、という音が聞こえそうな沈黙。高梨は口にするべき言葉を失ったとも、なにか言おうとしているが形にできずにいるともつかない、微妙な横顔だ。

「先生がしたいのは話じゃなくて、セックスでしょ? 違う?」

 ごくり、と高梨の喉が鳴った。

 信号が青に変わり、二人を乗せた車が走り出す。

「いいよ、先生。しようよ。あたしとセックスをするのが、先生の謝罪の第二段。それでいい?」

「……ああ」

 高梨の声は掠れている。ハンドルを握る手はかすかに震えている。

 阿澄は高梨に彼の自宅まで行くように命じ、上着のポケットから携帯電話を取り出す。

「もしもし、水無斗。あたし、今から友だちの家に行くことになったから、晩ごはんは一人で食べて。一人ぶん作るのが面倒なら、なにか買ってくれば。たとえば、スーパーでチキンカツとか。じゃあね」


 高梨の住まいは絵に描いたようなボロアパートだった。木造の二階建て。狭い駐車場。車が停まる。

 階段を上ってすぐの一室が高梨の住まいだった。

 玄関ドアを開けると出迎えたのは、悪臭。強烈ではないが、無視できるほど薄くもない。ドアのすぐ内側から大量のごみ袋が積み上げられていて、奥へ向かえば向かうほど密度が高まっている。

 なにか言い訳をしたそうに突っ立っている高梨を無視し、ごみ袋で狭められた通路を奥へと進む。

 突き当りの六畳ほどの一室は、薄汚い布団が敷かれたままだ。床の上に、インスタント食品やコンビニ弁当の空き容器が大量に放置されていて、布団の四囲をほとんど隙間なく埋めている。

 敷き布団の上に腰を下ろすと、湿った感触がした。戸口で棒立ちしている高梨に向かって、

「おなか空いた。ごはん、なんでもいいからちょうだい。マジでなんでもいいから」

 彼は声が聞こえなかったかのように棒立ちしつづけていたが、阿澄が怒鳴りつけようとした瞬間、我に返ったような顔になってキッチンへ向かった。自然とため息がこぼれた。

「……どうして、あたしはここにいるんだろう」

 見慣れない景色。嗅ぎ慣れないにおい。高梨がなにを持ってくるのかは神のみぞ知るが、きっと食べ慣れない食べ物なのだろう。

「……水無斗」

 あいつがこの場にいたなら、あたしは物憂い気分にならずにすんだはずだ。ちょっかいをかけずにはいられないし、心配して声をかけてくれるのに。

 出し抜けに、足音が聞こえた。

 はっとして振り向くと、高梨が阿澄の目の前で足を止めた。手ぶらで、下半身裸。男性器は雄々しく天を指している。

 阿澄は思わず笑ってしまった。

「先生、どうしたの?」

「なんでも食べると相原は言っただろう。僕のものを食べろ」

 彼女は言われたとおりにした。放出まではあっという間だったので、五年前を思い出す暇もなかった。

 喉を鳴らして飲み干し、改めて食事を要求しようとすると、押し倒された。股間から生えたものは早くも元気を取り戻している。

「先生、たまっているんだね」

「ああ。したいんだよ。したくて、したくてたまらないんだ。君が小学生のときみたいにセックスをしよう。我慢できないんだ、相原」

 自らの意思で服を脱ぎはじめると、高梨に無理やり剥ぎとられた。シャツが破れる。ブラジャーが引きちぎられる。

 乳房を掴む力が荒々しい。蹴飛ばしてひとまず間合いをとろうとしたが、飢えた野犬のようにむしゃぶりついてきた。下半身の服を脱がされ、強引に押し入ってくる。

 小学五年生のときに、トイレでしたときと似た体位だと気がつき、阿澄は行為を許可した。元クラス担任は痛みを感じるほど激しく動き、拍子抜けするほど呆気なく果てた。

 ひと息ついたのも束の間、再び挑みかかってきた。力尽くで彼女に特定の体勢を強制しながら、獣のように攻め立てる。

 守勢に甘んじる阿澄は、あたしが弟に望んでいたものはこれだったのだ、と完璧に理解していた。攻めるだけではなく、攻められたい。積極的な愛を示してほしい。ただ、今の水無斗にそれを望むのは酷だろう。

 年齢を重ねるとともに、歳月の経過とともに改善されるものなのだろうか?

 わからない。だったら、どうすればいい?

「好きだ、相原! また私の子を孕んでくれ! 頼む頼む頼む――」

 楽しもう。このちっぽけな男とのセックスを楽しみ尽くそう。

 少しでも気を抜くと脳裏に浮上してくる弟は、ひとまずかたく立ち入りを禁じることにして。


 ごみの上で高梨が眠りこけている。一糸まとわぬ姿で、大口を開けていびきをかいている。

 股間についているものは萎えている。正反対の状態ばかりを目にしてきたので、違和感がある。別の生き物というよりも、死んでしまった肉体の一部のようだ。

 戦闘態勢に入っていない男の分身は、見るからに哀れだ。それでいて、隠し味のように愛おしさが混じっていて、つい眺めてしまう。

 何回連続でしたかは数えていない。これほどまで連戦が続いたのははじめての経験なので、さすがに疲れた。

 ぼーっとしていると、不意に水無斗の顔が脳裏に浮かんだ。

 阿澄は電話をかけた。ワンコールで繋がった。

「お姉ちゃん! もう夕食の時間過ぎてるけど、今どこでなにしてるの? 友だちの家に遊びに行くって話していたけど」

 水無斗の声は動転する気持ちを懸命に抑えているかのようだ。

 窓を見ると、いつの間にか真っ暗だ。

「心配だから、教えて。答えて。お姉ちゃんはどこでなにをしているの? 誰と過ごしているの? 夕食は? いるの? いらないの? どっちなの? ねえ、お姉ちゃんってば」

 阿澄はほほ笑んで答える。

「今日は家には帰らない。まだまだ友だちの相手をしなきゃいけないから。戸締り、ちゃんとしてから寝るんだよ。おやすみなさい」


 阿澄は高梨の部屋に泊まり、セックスに明け暮れた。

 高梨は絶倫だ。性欲は極めて旺盛で、放出した直後を除けば常に発情している。行為中は無尽蔵なのではないかとさえ錯覚された。

 高梨は阿澄が命じても部屋を掃除しようとしなかった。寝る周辺が汚いのは、逆に風情があっていいと自分に言い聞かせたが、風呂場とトイレが汚れているのは許しがたい。

「あたしの言うことを聞かないと、帰るよ。マジで」

 語気を強めて警告すると、彼は重い腰を上げてその二か所をきれいにした。そして、きれいになったばかりの場所で彼女と交わった。

 食事やその他の必要なものは、その都度高梨に命じて持ってこさせた。彼は文句一つ言わずに命令に従ったが、言うことをきいたんだからやらせてくれますよね、という眼差しを送りつけるのも忘れなかった。

 高梨は素直さがかけらもないし、性格的にはかなり歪んでいるが、それでいて水無斗と通じるものがあった。


 阿澄は夜になるたびに、弟の携帯電話に「今日も帰れない」と連絡を入れた。姉を案じる気持ちをにじませながらも、根掘り葉掘り尋ねようとしない、というよりもできない水無斗がいじらしかった。

 ときには気持ちが揺れたが、けっきょくは高梨のもとに居座った。

「今日もまた泊まることになったから、お留守番よろしく。学校にはちゃんと行くんだよ。ごはんは栄養バランスを考えて食べてね」

 日増しに弟に優しくなっていくのが我ながらおかしかった。

 阿澄からの忠告を、水無斗は常に二つ返事で聞き入れた。電話越しの弟は素直で、無知で、無垢な中学生でしかない。しかしその実、姉は男のもとにいるととっくの昔に察し、嫉妬の炎を燃やしているのだと思うと、噴き出しそうになる。

 しかし、まさかその男が、元クラス担任だとは想像もしていないだろう。そう思うだけで、タガが外れたように大笑いしてしまう。すると決まって、阿澄の異変を察知した高梨がどこからかすっ飛んできて、彼女を心配するふりをして乳房を執拗にいじくるのだ。

 肉体的な興奮が冷めても心の高ぶりが治まらないとき、高梨は阿澄と肉体的に密着したがった。しかし彼女は断固として拒んだ。高梨家に宿泊しているのは、あくまでも高梨とセックスをするため。恋人ごっこも夫婦ごっこもしたくなかった。

 セックス中は高梨が攻勢をかける時間帯が長いゆえ、彼は勘違いをしている節があったが、阿澄は断固たる対応で上下関係の維持に努めた。基本的には態度で、ときには暴力で。その方法が効果的だからだと考えたからでもあるし、高梨相手にしゃべるのが面倒くさいからでもある。それすらも面倒くさいときや、聞き分けが悪いときは、帰宅をちらつかせて命令に従わせた。

 七日目に阿澄は、高梨はロリコンの蔑称が適当な変態性欲の持ち主ではなく、単なる性欲過多の男だと認識を改めた。

 彼女の体は十六歳を前にして成熟し、幼女の気配をもはや残していない。彼が実践する阿澄の肉体への愛しかたは、幼女しか愛せない者のそれでは明らかにない。

 高梨創介はいたってノーマルだ。臆病者ゆえに弱い存在に狙いを定めているだけであって。

 阿澄は高梨を憐れんだが、同情はしない。彼女にとって彼は、単なる歯応えがあるセックスの相手でしかなかった。


 高梨の規則的ないびきが六畳間に聞こえている。

 あたしが望んだ「人生が一変するような体験」を、今あたしはしているのだろうか?

 万年床の上、素っ裸で大の字になった阿澄は自問し、自答する。

 そんなもの、わからない。終わってみるまでわからない。

 ――でも、終わってしまったら振り返ることはできないよ?

 ばーか、終わるっていうのは、高梨との同棲が終わったらという意味だよ。死ぬっていう意味じゃないし。

 ――生きていたとしても、終わってしまったら客観的には無理じゃない? その中にいるときではないと、客観性を保つことなんて。

 だから、終わったあとじゃないと評価できないだろ。中にいるときは赤でも、終わる最後の瞬間に青に変わるかもしれないんだから。

 もう一人の自分は沈黙した。壊れてしまった古いラジオのようにしゃべり出す気配がない。

 勝った、と思った。高揚感を伴わない勝利だ。

 いびきが三秒ほど止まり、また規則的に聞こえ出した。


 高梨がアルバイトに出かけた朝、阿澄は今日が自分と水無斗の誕生日だと気がついた。

 家に帰りたくなった。水無斗の顔を見たいとか、住み慣れた我が家で暮らしていた日々が懐かしいとか、帰ってなにをしたいとかではなくて、ただただ帰りたい。

 もう何日、この汚くて臭い部屋に居座って、セックスをするだけの日々を浪費しているのだろう? 高梨はここ二・三日で明らかに勢いが落ちていたし、彼女としても飽きてきた。引き上げ時だろう。

「先生、あたし、今日でうちに帰るから」

 高梨が職場から帰宅する夕方まで待って、単刀直入に告げた。

 彼は散らかった部屋の戸口で呆然と立ち尽くしている。発言内容が呑み込めていないようなので、阿澄はセリフを復唱した。彼の手から安物の小さな鞄が落下した。マンガだ、と思った。

 もうこれ以上、この男に付き合う意味はない。

 阿澄は畳から腰を上げ、棒立ちする男の脇を抜けて玄関へ向かおうとした。とたんに足を止めていた時間が動き出し、肩を掴まれた。睨みつける彼女に向かって、高梨は唾を飛ばしながら捲し立てた。

「相原! 先生のどこが気に入らなかったんだ? この生活のなにが不満なんだ? 教えてくれ、相原!」

 阿澄は頭を振った。

「もっと紳士的なプレイを心がける。だから、頼む。もっとここにいてくれ。なあ、相原!」

 阿澄はこれにも同じ動作で応えた。

 高梨は反射的になにか言いかけたが、思いとどまって口をつぐんだ。もどかしげに唇が動いたが、発声は伴わない。阿澄が手を払いのけようとすると、彼は意を決したようにこう言った。

「相原、いや阿澄。最後に先生とセックスをしないか?」

「お断りします」

 言下にぴしゃりと撥ねつける。高梨の顔にショックの色がありありと浮かんだ。言葉ではなく、物理的に払いのけられたとでもいうように、肩を掴んでいた右手の力が抜け、滑り落ちて垂れ下がった。

 どこまでもマンガ的なリアクションだが、阿澄は今回は好感を抱いた。険しい顔つきを大幅に和らげる。

「先生。ほんとうは先生が仕事に行っているあいだに帰ってもよかったんだけど、帰らなかった。なぜかわかる? それはね、伝えたいことがあったからだよ。とてもとても大切なこと」

 阿澄は高梨の耳に唇を近づけ、ささやく。

「先生はあたしを孕ませてなんかいないよ」

 呆けた顔が元教え子を見返した。阿澄はいきなり高梨を突き飛ばした。足を滑らせて転び、背中からごみの山に突っ込む。顔は呆然としたままで、視線の方向は依然として彼女だ。

 阿澄は顔を背け、悠然たる足取りで部屋を出ていく。


「水無斗、今日やっと帰れることになったよ。ちょっと遅くなるけど、夕食は家に帰って食べるから、ちゃんと用意しておいてね」

 電話は駅のプラットフォームでかけた。声がわかりやすくうれしそうだったので、阿澄までうれしくなった。

『僕は今から買い物に行く予定だから、好きなものを買ってこられるよ。お姉ちゃんはなにか食べたいものはある?』

「えーと、そうだな。いつも行くスーパーで売ってる――」

 阿澄が高梨と偶然再会を果たしたのは、スーパーマーケットまで総菜を買いに行ったからだった。その総菜が食べたかったのだが、なにを買うつもりだったのかが思い出せない。

「ううん、なんでもない。あたしはなんでもいいから、水無斗が好きなものを買ってくれば」

 秋風とともに電車がホームに滑り込んできた。


 薄闇の中を帰宅した阿澄は、庭の金木犀の前で足を止めた。花をつけていた。たしか、出かけるときは咲いていなかったはずだ。

 思い出そうとして、家を出たときには、そもそも金木犀の木など気にもとめなかったことに気がつく。

 どうせ、台風が散らしてしまうのだから。

 心の中でうそぶいて、玄関ドアを開けて「ただいま」と言った。飼い主の帰宅を待ち侘びていた子犬のような足音が聞こえてきた。


 きょうだいの誕生日ということで、水無斗が拳よりも大きなシュークリームを買ってきていたので、夕食後に二人で食べた。ホイップクリームといちごクリームがたっぷりと詰まったそれは、ボリュームの面からも味の面からもきょうだいを満足させた。

 父との思い出。母との思い出。二つの過去を胸に抑えつけて、阿澄は上機嫌そうに笑声を響かせる。水無斗も笑う。きょうだいの笑い声が絶えない、にぎやかなひとときとなった。

 水無斗は高梨とは明確に違う。阿澄は高梨の言動に失笑を漏らすことはあっても、二人で笑い合うことはなかった。原始人のように素っ裸で終日過ごし、事あるごとに腰を振っていた。

 今日はセックスはなしかな。とりあえず、今日のところは。

 水無斗はたぶん、姉とのセックスよりも姉自身を愛している。


 一週間に一度のペースで台風が日本列島を襲った。

 阿澄はそれを上回るペースで外泊した。泊まるのは決まって知り合いの男の家。携帯電話に登録されている男性に片っ端から連絡を入れ、性を取引材料に宿泊の約束を取りつけるのだ。

 阿澄は以前にも増して奔放になった。

 扉を開いたのは、高梨創介。

 認めざるを得ない。凡庸で臆病な若い元クラス担任は、阿澄の性にまつわる扉を二度も開いてみせたのだ。

 体を交えた男から別の男を紹介してもらうことで、連鎖的にセックスの相手を確保できた。阿澄が家をあける頻度は次第に高まった。

 多少なりとも申し訳ない気持ちになったし、気の毒だとも思ったが、阿澄は放恣な生活態度を改めなかった。ひとえに、自分の「好き」に従順でいたかったから。

 水無斗とは以前ほどはセックスをしなくなった。

 嫌いになっていないし、飽きてもいない。失望させられるような出来事はいっさい起きていない。それにもかかわらず遠くなった。すれば確実に喜びを覚えるし、してよかったと心から満足できるのに、スタートラインにつくのが気乗りがしないのだ。

 セックスを抜きにした日常の付き合いは続いたが、いっしょにいる時間は次第に減少した。他の男とセックスする機会が増え、彼らのために使う時間が長くなったのが最大の要因だ。

 機会の減少に対して、水無斗がどう感じているのかはわからないし、知ろうともしなかった。


 転がり落ちていく。

 ひっきりなしに体に感じる痛み。なす術もなく落ちていく実感。

 それがもたらす倒錯的な快楽をいつしか理解できるようになった。

 このまま、どこまでも落ちていこう。

 落ちて、落ちて、落ちつづけて――たどり着いたどん底から見る景色はどんな眺めなのだろう?


 十六歳になってはじめての春が訪れようとしていた。

 大人数の男相手の乱痴気騒ぎのあと、広い寝室に裸のままほったらかしにされた阿澄は、自身の最古の記憶を忽然と思い出した。

 生後十四時間の彼女は、白く、薄暗く、吐き気を催すほど清潔な部屋で、母の胸に抱かれていた。母は泣きながら、譫言のようにくり返していた。こんな世界に産み落としてごめんなさい、と。

 今になってみれば、母の意見は間違っているとしか思えない。

「――こんな世界に生まれたあたしが悪かったんだ」

 とうとうたどり着いたどん底。そこから見上げた視界に映し出されたのは、薄汚れた白い天井だった。

 白は光。しかし、汚れている。汚れている光など、数多の苦難を乗り越えてまで手に入れたくない。

 だから、このどん底でしばらくのあいだ、大の字になって寝ころんでいよう。

 これ以上落ちる心配はないから、安心して横になっていられる。

「生まれてきてごめんね。……水無斗」

 つぶやいて、まぶたを閉じた。


 阿澄は夢を見た。

 薄暗い車内の助手席に阿澄は座っている。外は暴風雨らしく、降りしきる雨と吹きすさぶ風の音がやかましい。

 運転席では彼女の父がパンを食べている。クリームパンだ。パンを噛むたびに白いクリームが押し出され、口もとを汚している。父は口についたものを拭おうともせずに黙々と食べている。疲れたように、それでいて幸福そうに。

 ああ、ほんとうだったんだ。

 お父さんがよく話してくれたエピソードは事実だったんだ。

 突然、父が阿澄のほうを向いた。視線が重なる。彼は父性愛あふれる微笑を満面にたたえ、食べかけのパンを娘の鼻先に突きつける。

「ほら、食べなさい。お父さんのクリームパン。おいしいぞぉ」

 阿澄はこくんとうなずき、亀のように首を伸ばしてパンにかぶりついた。

 白亜のクリームが迸り、視界を、意識を、覆い尽くした。

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