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第2話 水無斗①

 阿澄は自室にひきこもった。

 ごくたまに、陰気な顔を引っ提げて家族の前に姿を見せるが、誰とも口をきこうとしない。

 食事は基本的に、母が自室まで運ぶか、部屋から出たときに冷蔵庫や戸棚から調達するか、そのどちらか。

 トイレと風呂は必要に応じて利用しているようだが、家の外にはいっさい出ない。当然、学校にも行っていない。

 そんな状態が、台風と金木犀の季節からずっと続いている。


 日中でも摂氏十度を上回らない日が続くようになったころ、突然、父が県外で一人暮らしをすることが決まった。

 仕事の都合だ、と父は述べた。言葉数は少なく、疑問質問に対する回答は消極的で、説明は充分とはいえなかった。

 水無斗は戸惑った。仕事を理由に家族が離れ離れになるのは、彼にとってはじめての経験だ。しかも、予想外で衝撃的な事態が、阿澄の不登校・ひきこもりに続いて起きた。

「ねえ、お母さん。お母さんまでどこかに行っちゃわないよね? そうしたら僕、一人になっちゃうよ。そんなの、嫌だよ」

 家族会議のあと、皿洗いを再開した母に、水無斗は涙声で不安を訴えた。母は作業の手を止めずにこう答えた。

「大丈夫よ、お母さんはどこにも行かないから。水無斗と阿澄が一人前になるまでは、どこにも行かない。それが無理でも、せめて阿澄が部屋から出てくるまでは」

 安心するには程遠い返答だったが、引き下がるしかなかった。


 新年度を迎え、水無斗は小学三年生に進級した。

 阿澄が身近にいない日常に、彼は慣れないなりに慣れつつあった。意地悪をされる心配がない安心感。頼れる人が欠けたさびしさ。その二つを等しい大きさで実感していた。

 後者の感情は日増しに増した。わがままな性格にも、すぐに手荒な真似をするのにもうんざりしているが、姉はいざというとき、あるいは気まぐれを起こしたときは、弟の味方になってくれる。

 疎遠になったことで気がついたが、殴り・殴られるのもコミュニケーションだ。それがゼロになってしまうのは物足りないし、さびしい。

 昔のような傲慢で乱暴な姉でも構わないから、戻ってきてほしい。

 願わくは、台風が日本列島に上陸し、庭の金木犀がオレンジ色の花を咲かせるころまでには。


 夏休みを目前に控えた夕方、阿澄が幽霊のようにリビングに現れてソファに腰を下ろした。

 そのソファに陣取って『マイモン2』で遊んでいた水無斗は、軽く狼狽してしまい、危うくゲーム機を取り落とすところだった。

 母がパートへ行っているあいだ、彼はテレビが観られるリビングで過ごすことが多い。だから姉が自室から出るのは、省略できない用事があるときだけだと把握している。

 阿澄が一階でこなす用事といえば、入浴することと、キッチンで飲食物を調達すること。しかし今回はどちらでもないらしく、しかも先客がいるリビングのソファに座った。

 久しぶりに間近で見た姉は、いくらか痩せたようだ。そのせいか、実寸よりもいっそうボリュームが感じられる胸を、ブラジャーをつけずにシャツ一枚で隠すというファッションは、ひきこもる以前と変わらない。リラックスしているらしく表情は柔和だ。ただ、朗らかに笑いながら暴力を振るう人でもあったと、少し身構える。

 そんな弟を、阿澄は顔から表情を消して見つめる。

 緊迫感を孕んだ沈黙に耐えきれなくなり、「お姉ちゃん、どうしたの?」と尋ねようとすると、いきなり抱き寄せられた。

 一瞬、頭が真っ白になった。追いかけるように、全身が熱くなった。二の腕に押しつけられた豊かな膨らみのせいだ。

「水無斗、あたし、今日でひきこもるのはやめるから。……うれしい?」

 水無斗の肩にあごをのせ、ささやくように問う。ぎりぎりくすぐったくない程度の吐息を耳朶に感じた。

 姉の変調を強く気にかけていた彼としては、もちろんうれしい。ただ、喉がからからに渇いてしまって一言もしゃべれない。

「お姉ちゃんにキスして。頬じゃなくて、唇に。そうしたら、もうひきこもらないよ。でもしてくれなかったら、どうしようかな」

 自分からキスをする度胸はない。しかし、そのせいで阿澄が再びひきこもってしまったら、後悔する。絶対に後悔する。

 板挟みにあって対応に窮し、身じろぎ一つできずにいると、いきなり胸を思いきり突かれた。

 ソファに仰向けになった水無斗に、阿澄は猛然と覆いかぶさって唇を重ねた。圧力はそう強くはなく、三秒ほどで離れた。

 姉は自分の体ごと弟の体を起こし、笑いかける。先ほどまで浮かべていた無表情からは一転、明るく屈託のない阿澄らしい笑顔。

「じゃあ、今日からひきこもるのはやめるね」

 二人はテレビを観ながら菓子を食べた。阿澄はずっと弟に体を密着させていたので、咀嚼音が常に耳もとにあった。ひきこもる以前とは違い、無意味に弟を叩いてはこなかったが、ゆっくりと意味深に、服の上から体をなぞることが何回かあった。

 仕事から帰宅した母は、部屋の外で弟と仲睦まじくしている阿澄を見て、絶句していた。

 阿澄は母から話しかけられてもろくに返事をせず、それどころか見向きもしないで、水無斗との戯れに耽った。

 夕食の一時中断を挟み、水無斗が入浴を済ませて自室に引き取るまで、阿澄はずっとリビングに居座ってその態度を崩さなかった。


 小学校は夏休みに入り、二人が自宅で過ごす時間は長くなった。

 水無斗はなかば意識的に、なかば無意識に、リビングで過ごす時間を増やした。阿澄も自室ではほとんど過ごさないので、必然にきょうだいが時空間を共有する機会は増えた。

 近距離で姉と過ごしたい欲望を自覚するたびに、水無斗は後ろめたい気持ちになった。しかし、実際に同じソファに姉と並んで座り、抱きしめられて女体の柔らかさを感じた瞬間、諸々の負の感情は跡形もなく消え去り、ただ幸福感のみに包まれるのだった。

 異性同士がみだりに体を密着させるのは、たとえきょうだいであってもよくない。頭では理解していたが、柔らかな膨らみに触れる心地よさは隠しようがなかった。

 ひきこもる以前と比べて、阿澄は暴力的な言動をほとんど見せなくなった。芯にあるずうずうしさ、強引さ、身勝手さは不動だが、全体的に優しさが少し増した。それだけの変化で、姉は格段に付き合いやすい人になった。

 姉は母が不在のとき、下は下着しか穿かないことが増えた。肉づきのいい白い太ももを目にするたびに、水無斗の口腔は干上がった。

 彼女は弟の手を自らの股に挟み、そのまま過ごすことがあった。彼はその状態から積極的に脱しようとはしない。むしろ指一本動かさないように神経を研ぎ澄ませ、内ももの柔らかさを享受した。そして、ショーツの内側のまだ見ぬ領域に思いを馳せた。

 姉といっしょにいたい、肉体的に親密でありたい気持ちは、とっくの昔に本人に悟られているに違いない。

 水無斗はあるときふとそう考えて、顔から火が出る思いがした。

 思ったことはすぐに口に出す阿澄なのに、黙っているのはなぜなのかと首をかしげた。しかし同時に、知りながらあえて触れられていない現状に、ある種の心地よさを感じてもいた。

 姉が在宅時にブラジャーをつけない習慣は続いている。ふとした瞬間に、本来ならば見えてはならないものが見え透き、心を揺さぶられることもしばしばあった。

 熱くなった体はいつまで経っても冷めず、そんなときは決まって、姉とコミュニケーションをとりたくなった。性欲を刺激される行為が伴うのであれば、暴力を振るわれてもいいと思うことさえあった。

 ひきこもりから脱した阿澄との関係は、性に目覚めつつある水無斗にとっての最大の関心事項だった。


 金木犀の季節と台風の季節は重複している。それゆえに、小さなオレンジ色の花は自然落下を待たずに落ちる運命を背負っている。

 阿澄が十二歳、水無斗が九歳の誕生日を迎えるその月も、今年何個目かの台風が上陸する予報になっていた。ここ数年で最大の勢力になると予想されていて、気象庁は口酸っぱく注意喚起していた。

 夏休みも終盤に差しかかったころから、阿澄は週に一・二回のペースで外出するようになった。

 行き先はもっぱら、自宅から徒歩五分の場所にあるコンビニ。気がすむまで雑誌を立ち読みし、菓子やジュースやその他の必需品を購入し、帰宅する。そして、求められてもいないアリバイを証明するように、読んだ青年マンガの官能的なシーンについて嬉々として語るのだ。

 姉はもともと活動的で外で遊ぶのが好きな人だから、頻繁な外出も不自然ではないが、台風が接近している今日は胸がざわめいた。姉が出かける前は、注意報が出ているわりには大人しかった雨と風が、出かけて間もなく猛り狂いはじめて、胸騒ぎは悪化した。

 ニ十分経っても阿澄は帰ってこない。普段コンビニに出かけたときと比べて遅いわけではないが、気象状況を考えれば遅すぎる。

 水無斗はかなり長いあいだやきもきしたが、やがて姉が帰宅した。玄関からの「ただいま」の声は元気そうで、胸を撫で下ろした。

 姉は脱衣所に行ったらしい。自室で服を着替えてくるはずだから、リビングに姿を見せるまでには間がありそうだ。水無斗は再び『マイモン2』で遊びはじめた。

 直後、リビングと廊下を仕切るドアが開け放たれた。

 鋭く振り向いた水無斗は、コンビニのレジ袋を片手に提げた、素っ裸の阿澄を目の当たりにした。

 世界に存在する人間が二人だけになった。

 阿澄はソファに座る水無斗の前まで移動し、レジ袋を足もとに捨てた。袋の口からこぼれた菓子の箱を開け、個包装から拍子木の形をしたチョコレート菓子を取り出す。それを弟の鼻先に突きつけ、

「いる?」

 水無斗はぎこちなく頭を振った。鼻孔からは五センチも離れていないのに、甘ったるいチョコレートの香りが遠い。

 阿澄は白い歯をこぼし、褐色のチョコレート菓子をさくさくとかじる。

 意気地なし、と言われた気がした。意気地なしだったと知って失望したのではなく、思っていたとおりに意気地なしだね、と。

 屈辱感とも照れくささとも違う、未知の感情が込み上げる。

 思わず目線を下げると、視界に飛び込んできたのは剥き出しの乳房。その白々として滑らかな表面に、菓子のこまかな破片が断続的に降りかかる。

 吹き抜けた強風に、裏口に置いてあるごみ箱が横倒しになったらしく、すさまじい音がした。その音がやむと、再び咀嚼音。一言もしゃべらない。阿澄も、水無斗も。

 菓子を食べきると、阿澄は手招きをした。ゲーム機をソファの座面に置いて立ち上がった弟を、おもむろに抱きしめた。発作的にでも、過度に情熱的にでもなく、するべきことを普通にするように。

 顔をなかば谷間に埋もれさせたまま、上目づかいに顔色をうかがう。阿澄は自らの胸を指した。白い丘に散った茶褐色の破片を、水無斗は黙って舐めた。舌が意思を無視して勝手に動いたのにも驚いたが、姉が切なげな声をこぼしたのにはそれ以上に驚いた。興奮が静かに高まり、舌の動きは次第に忙しなくなる。

 屈辱だとか照れくさいとか、そういった次元ではない。命令どおりに動いて、姉を満足させなければ。その一念だった。

 長いような短いような時間が流れ、掃除が完了した。

 恐る恐る顔を上げる。視界の中央に姉の顔を捉えた瞬間、ソファの座面に押し倒された。顔の両側を両手で挟み、逃げられないように固定したうえで、至近距離からまじまじと見つめられる。艶めいた黒目の隠微さに、彼は赤面した。無理やりにでも顔を背けようとすると、唇に唇を押しつけられた。肺の中の酸素を根こそぎ吸われるかのような窒息感に悶えた。

 やがて唇が名残惜しそうに離れ、遠ざかった。視線が重なると、阿澄はさも満足そうに顔面の筋肉を緩めた。幼子がするようなキスを弟の頬に与え、体の向きを逆にする。阿澄の顔が水無斗の股間の上に来て、水無斗の顔の上に阿澄の股間が来た。

 姉がなにをしようとしているのかを水無斗は悟った。今まで誰からもされたことがない行為だ。

 怖かった。やめてと叫びたかった。しかし、抗うだけの余力はない。緩急をつけたキスの連続により、水無斗は腑抜けも同然に成り下がっていた。

 阿澄は驚嘆に値する手際のよさで、弟が服の内側に隠し持っていたものを引っ張り出し、然るべき処置を施した。

 呆気なく、ため込まれていたものが迸り出た。


 以降の記憶には曖昧な部分が多い。

 それ以上のことをされた覚えはないから、阿澄は服を着るために自室まで行ったのだろう。追加の行為を及ばされなかったことだけはたしかだ、としか言えない。

 水無斗はやがて我に返ると、ソファの汚れをティッシュでていねいに、なおかつ大急ぎで拭い、自室に引っ込んだ。

 汚れてしまった衣類は、ビニール袋に突っ込んで押し入れの奥に放り込んだ。青臭いような生臭いような臭いを鼻腔に入れないように、息を止めながら袋の口を厳重に結んだうえで。

 袋をいつか捨てなければならない日が来ることは、もちろんわかっていた。しかし同時に、そのいつかが来る瞬間は、永遠にでも先延ばしにできる気がしていた。

 当時、水無斗はまだ十年も生きていない子どもだった。


 台風一過の朝、庭の金木犀の花は一輪残らず散っていた。

 墜落した無数の花弁はぬかるんだ地表にへばりついている。その様子はいかにも惨めだ。予定よりも早く散ってしまったのには同情したが、痛ましいとは感じないし悲しいとも思わない。

 水無斗は普段よりも冷酷な自分に気がついていたが、特になにも思わなかった。自身の心の変化も、金木犀の散りざまも、冷ややかになった彼にとっては取るに足らないことだった。

 テレビが放映する朝のローカルニュースは、大型台風が水無斗たちの住む県に一名の死者をもたらしたと報じた。彼の生まれ故郷で三年ぶりに発生した台風による死者だった。


 水無斗はその日以来、事後に罪悪感と自己嫌悪を確実に催す、悪しき行為に励む習慣がついた。

 引き金を引くのは、決まって阿澄だ。

 姉は台風の日のような大胆な真似はしなくなったが、日常的な密接な触れ合いは続いていたから、性欲を刺激される出来事の供給には不足しなかった。供給されない日でも、過去の経験を思い返すか、願望を前面に押し出した妄想を脳内で展開すれば、たちまち体の一部が醜悪な変化を遂げた。

 時期を同じくして、彼は昔ほど『マイモン2』に現を抜かさなくなった。ゲーム自体は依然として好きだから、毎日二・三時間は平気で遊ぶ。しかし、モンスターを全種類最大レベルまで育ててみるといったような、過度にやり込むような真似からは決別した。

 水無斗の世界は着実に広がりはじめていた。


 ソメイヨシノが咲き乱れる季節が訪れ、水無斗は小学四年生に進級し、阿澄は中学生になった。

 セーラー服に身を包んだ姿をはじめて見たとき、彼は姉が遠い場所に行ってしまった気がした。

 阿澄は中学校から帰宅すると、靴下とスカートとセーラー服を脱ぎ捨て、シャツとショーツだけの姿になってリビングのソファに陣取り、学校での体験を弟に語り聞かせるのを常にしていた。

 クラスメイトの女子に誘われて、絵心もないのに美術部に入部したこと。女友だちが片想いをしている、他校の男子生徒の話。クラスで仲よくしている男子生徒と、彼らの趣味嗜好について。

 中学校の話はどれも興味深かったが、ひとたび話題が交友関係に及ぶと、水無斗の心はざわめいた。放課後に美術部に参加する日があり、そうでなくても友だちと遊んでから帰宅する日もある影響で、きょうだいの交流は日に日に減っていた。

 姉の友人に姉を奪われるかもしれない。

 はっきりと意識することこそなかったが、そんな危機感が心の深い領域に根を下ろしていた。

 一方で、きょうだいという近しい関係だとしても、自力では姉と彼女たちとの関係を変えるのは不可能だし、そもそも干渉する権利はないと理解していた。嫉妬しているのではなく、環境の変化に戸惑っているだけだと思い込もうとした。

 その試みがある程度成功をおさめたのは、水無斗のほうでも姉離れを促す変化、すなわち友だちができたからに他ならない。

 消極的で口下手な彼と、他者との橋渡し役を務めたのは『マイモン2』だった。

 水無斗愛用の『マイモン2』のペンケースを見たクラスメイトの男子の一人が、休み時間に話しかけてきた。『マイモン2』について話をした結果、互いに『マイモン』シリーズが好きだと判明。それを機に事あるごとに言葉を交わし、行動をともにするようになったのだ。

 姉が『マイモン』で遊ばなくなって以来、水無斗はずっと一人でゲームを楽しんできた。学校が終わってから夕食時間になるまでの二時間あまり、気の置けない友人と菓子とジュースを飲み食いしながらゲームで遊ぶ。ただそれだけの時間が、こんなにも楽しいとは思ってもみなかった。

 ただ、友人を自宅に招くのは避けた。阿澄がいるからだ。

 在宅時はたいてい半裸、図々しい性格の姉は、できれば他人には紹介したくない身内だ。母が帰ってくればボトムスを履くなど、最低限の礼節はわきまえているが、それでも拒絶感は強かった。

 姉がいると知ると、友人たちの多くは瞳をらんらんと輝かせて興味を示した。中にはぜひ遊びに行きたいと希望する者もいたが、水無斗は必ず毅然と断った。まだ年少で世間知らずだからこそ、家庭の問題に立ち入るべきではないという気持ちは高いらしく、彼の意思はもれなく尊重された。


 日を追うごとに、阿澄の帰宅時間が遅くなることが増えた。

 夕食を食べはじめる午後七時が一応の門限だったが、彼女はまず守らない。一時間以上も遅れて帰宅し、「夕ごはんは友だちと食べたから、いらない」と、彼女のぶんの夕食が並べられたテーブルの前でいけしゃあしゃあと言ってのける。

 阿澄と母は対立しはじめた。家庭内の規則違反者に雷を落とす役回りだった父が別居したことで、ぶつからざるを得なくなったのだ。

 相原家の二人の女は、しばしば水無斗の面前で衝突した。

 母は理性的な態度で説教をはじめるが、阿澄は生みの親を小馬鹿にしたような、人を食った態度で応じる。それに腹を据えかねて、母は声を荒らげる。すると阿澄は急に弟にべたべたしはじめ、

「水無斗はお姉ちゃんの味方だよね? いつもこんなふうに仲よしだもんね。お母さんよりもお姉ちゃん、そうだよね?」

 などと返答に窮するようなこと言って弟を困らせ、母を呆れさせ、悶着をうやむやにしてしまうのだった。

 水無斗が困るのは、母と姉、両方を傷つけない答えを見つけられないからでもあるが、きょうだいがスキンシップをとるのを母が快く思っていないからでもあった。

 阿澄は母の目が届く環境でも平気で弟といちゃつくが、二人きりでいるときのようにあからさまな行動は控える。しかし、熱がこもりすぎて簡単に行為がエスカレートする。

 水無斗がふと視線を感じて振り向くと、母が家事の手を止め、我が子に向けるにしては険しすぎる顔つきできょうだいを見ている。彼の背筋は凍え、身じろぎ一つできなくなる。

 母はしかし、「いちゃついている」という罪状だけできょうだいを、あるいはどちらか一方を叱りつけない。放出に備えて怒りをため込んでいるようで、水無斗は薄気味悪く感じられてならなかった。しかし、阿澄は母を脅威には感じていないようで、実母をあざ笑うような態度を一向に改めない。

「ねえ水無斗、阿澄からなにか訊いていない? あの子が放課後、誰と、どこで、なにをしているのか」

 そう問い質されることもあったが、家の外での姉のことは水無斗もほとんど把握していない。彼のほうが知りたいくらいだ。しかし、きょうだいだとしても秘密があって当然だと、なんとなく呑み込める年齢に彼は達していた。

 プライベートを詮索してくる母に、彼は警戒感と不信感を抱いた。きょうだいの仲睦まじさを快く思っていないことも納得がいかなかった。前みたいに暴力をふるわれて嫌な思いをすることもないんだから、放っておいてくれればいいのに。


 夏休みに入って間もない昼下がり、相原きょうだいは市民プールに泳ぎに行くことになった。提案したのは阿澄だ。

 小学五年生。そろそろ本格的な親離れがはじまる年齢だが、家族ぐるみで余暇を過ごすことへの喜びはまだまだ強い。母は仕事の都合で参加は見送ったが、不安定な仲の相原家の女二人が行動をともにしないという意味では、家族三人で過ごすよりも気が楽だ。

 阿澄はスクール水着を着用した。着るのは小学六年生の夏以来らしく、きつそうだ。圧迫された胸部の肉が袖口からはみ出ていたし、少し動いただけで臀部に食い込む裾は頻繁に正さなければいけない。

 思春期の男子の宿命として、水無斗は姉の肉体に双眸を吸い寄せられた。前屈みになったさいに、胸もとから覗いた谷間は信じがたいほどに深く、目がくらむほどに白く、彼の股間は発熱するとともに硬化した。

 しかし、邪念に囚われていた時間は全体としては短く、年齢相応の無邪気さで姉と水遊びに興じた。

 最大の功績は、弟以上に無邪気に振る舞った阿澄にある。濡れた髪の毛を跳ねさせながら、元気いっぱいなかけ声とともにビーチボールをトスする姿は、青春を謳歌する十代の少女の一つの理想形であり、完成形だった。膨らみと谷間と食い込みから意識を逸らしきれない醜悪さすらも、いつしか青春の一部になっていた。

 あっという間に一時間が過ぎ、二時間が経った。

 日陰のベンチで飲みものを飲みながら休憩していると、阿澄に話しかけてきた者たちがいる。

 総勢五名。全員が男子で、水着姿で、阿澄と同年代だ。五人中四人が頭髪を染めていて、三人がアクセサリーを身に着けている。揃いも揃って柄が悪い。

 五人中二人がクラスメイトで、三人がその友だちで、全員が同じ学年だと阿澄は説明した。それに続いて弟だと水無斗を紹介すると、

「なんでスクール水着なんだよ。小学生じゃあるまいし」

「ていうか、弟といっしょってどうなの? せっかくの夏休みなのに、ガキのお守りって。もったいなさすぎでしょ」

 五人が口々に阿澄を冷やかした。

「お前ら、人のこと言えるのかよ。男五人だけでプールって、あり得なくない? どっちが虚しいのって話」

 彼女も負けじと言い返す。

「ばーか。女をナンパしに来たに決まってるだろ」

「ああ、そうだったんだ。で、成果のほどは?」

「見てのとおりだよ。まあ、まだ来たばっかりだからな」

「ほんとに? すでに何人もの女の子に声をかけたけど、相手にされなかっただけじゃないの」

「見てもいないくせに、うぜぇな。これから本気出すんだよ」

「出しても無理でしょ。だってあんたたちって――」

 阿澄は彼らの日ごろの態度や性格、癖などを列挙し、異性にもてないのも無理はないと肩を竦めてみせた。五人はすかさず束になって反論したが、弁舌の勢いは彼女のほうが上のようだ。

 水無斗の目には、姉は自然体に振る舞い、堂々と彼らと渡り合っているように見える。

 五人は水着越しの膨らみに無遠慮に目を注いだ。阿澄が口にした冗談にコメントするさいには、二の腕や肩などに気安く触れた。

 阿澄は視線にもボディタッチにも不快感を示さない。ときにはお返しとばかりに体の一部を触り返し、冗談半分に股間に触れようとすることさえあった。

 交友関係や趣味についてなど、内容は総じて他愛ないし、くだらない。しかし円滑に流れ、途切れることを知らない。

 水無斗をのけ者にした会話の総時間は、阿澄と二人で水遊びをしていた時間を上回った。

「もうかなり時間経ってるね。あたしは弟の相手しなきゃいけないから、あんたたちは他の女に声をかけてくれば。じゃあね」

 危惧していた、弟を残して六人でどこかに遊びに行く事態は、阿澄のその発言によって回避された。

 そのあと姉は、中断前と同じ調子で弟と接したが、水無斗は心から楽しめなかった。帰りにおごってバニラ味のソフトクリームも、期待していたほどの味ではない。

「美味しいね。今まで食べた中で一番なんじゃない?」

 しかし、子どものように口もとを白く汚した阿澄がそう言うものだから、彼は仕方なしに言葉と首の動きで同調した。

 期待が大きすぎただけだ。そう自分に言い聞かせた。


 別居して以来、水無斗は父に一度も会っていない。離れ離れになった当初は、義務のように週に一回メールで近況を報告し合っていたが、いつの間にかその習慣は消滅してしまった。

 姉との関係はいびつで、話したくない。小学生としての生活は平凡だから、特筆するべきところはない。文面にはいつも悩まされ、父と会話する喜びは感じているのに執筆が苦痛で仕方ない。

 話題に窮した挙句の果てに、父がよく話していた、姉が生まれた朝のクリームパンのエピソードに触れてみようかと考えたことが何回かあったが、実行するのはなぜかためらわれた。

 もしかすると父のほうから触れてくるかもしれないと期待したが、送られてくるメールはいつも、

『水無斗は元気でやっているか。お父さんは元気だ。お母さんを助けてお姉ちゃんと仲よくやって、健康に気をつけて勉強をがんばれ』

 そう要約できる内容のものばかり。

 僕のほうから触れられていれば、父さんとの週一のやりとりはもっと続いていたかもしれない。そう思ったが、後の祭りだ。

 母はときどき父の住まいに足を運び、食事を作るなどしているようだが、家族三人が揃う場で夫の話題を出すことはない。父のことを話さないという意味では、彼の家に行くことのない阿澄も右に同じだ。

 水無斗だけがまれに、深い考えもなしに、もしくは二人の非情に抗議する意味を込めて、慣れない一人暮らしをする父を案じる言葉を口にした。そして場を気まずい空気に染め上げた。


 阿澄と母は冷戦状態に突入した。以前は阿澄の行動や態度にこまかくクレームをつけていた母が、なにも言わなくなったのだ。

 母に心境の変化のきっかけとなる出来事があったのかは、水無斗にはわからない。彼にとって母は、現状、家族の中で二番目に心を許せる人だが、もっとも知悉していない人でもある。

 一方の阿澄は、母の突然の変化を歯牙にもかけずに、門限破りやその他の母の気に障るような行為を堂々とくり返した。

 姉らしい態度だと水無斗は思う。一方で、嬉々として当てつけるような真似を頻発するその姿勢に、受け入れがたいものを感じた。

 きょうだいの距離が広がる速度は加速しつつあった。


「お母さん、来年からお父さんのところで暮らすから」

 六年生になって初となる始業式に臨んだ日の夜、母と二人きりのリビングで水無斗はそう告げられた。

 胸を物理的に突かれたような衝撃に襲われた。ただ、ひとたび風が吹き抜けてしまうと、父の別居が決まったときからこうなる運命だった気がした。突然の決定よりも、最低限の冷静さを保てている自分に彼は戸惑った。

「お姉ちゃんはこの家で暮らしたいって言っている。お母さんもそれがいいと思う。水無斗はお母さんたちとお姉ちゃん、どっちといっしょがいい? ……なんて、いきなり言われてもすぐには決められないよね。期限まではたっぷり一年あるから、じっくり考えて」

 母は世にも悩ましい二択という認識らしいが、水無斗の心は秒で定まった。

 彼が望んでいるのは、阿澄と暮らす未来だ。

 父や母といっしょに暮らすのが嫌なわけでも、阿澄を一人にするのが忍びないわけでもない。水無斗は母よりも姉に親近感を抱いているから、どちらかしか選べないなら阿澄を選びたい。それだけのこと。

 ただ、二つから一つに決めてしまうことで、思いがけない不都合な事態が起きるかもしれない。そんな漠然とした予感に恐れをなしてしまい、その場では回答を口にできなかった。


 阿澄が夕食の時間になってもリビングに姿を見せず、電話をかけても出ないので、水無斗は部屋まで呼びに行った。

 父が別居して以来頻繁にあることだ。母が連絡しても応答しないのも。母が自ら呼びにいくのではなく、息子に役割を任せるのも。

「お姉ちゃん、晩ごはんできたよ。いっしょに食べよう」

 ドアをノックして呼びかけたが、返事がない。ドアノブを回してみると、鍵はかかっていない。恐る恐るドアを開く。

 部屋は散らかっている。脱ぎっぱなしの下着、菓子の空き容器、使用ずみの丸まったティッシュ。シーツが乱れたベッドの上で、シャツにショーツという姿の阿澄が横になっている。

 もう一度呼びかけると、肩がぴくりと反応した。緩慢に伸びをして、首を持ち上げて眠そうな目で弟を直視する。夕食の準備が整った旨を改めて伝えると、「わかった」と答えてあくびをし、事切れたように首を垂れた。

 ドアを閉めようとした水無斗の目は、部屋の隅に置かれた美術セットを捉えた。アタッシェケースを小型にしたような鞄は、うっすらとほこりをかぶっている。

 今度こそドアを閉ざし、階段を下りる。考えるのは、姉について。

 家族といっしょに食事をとろうとしないこと。門限を破らない日のほうが少ないこと。いつ見ても部屋が散らかっていること。

 水無斗には阿澄の人生が緩やかに悪化し、退廃的なものへと変わりつつある気がしてならない。そんな姉と二人きりで暮らしていたら、僕までどうしようもなく堕落してしまいそうだ。

 もしかすると母は、父がどうこうではなくて、自分までもが堕落するのが嫌でこの家から出て行こうとしているのかもしれない。


 母は水無斗と阿澄の誕生日の前日、おいしいと評判の洋菓子店でホールタイプのフルーツケーキを買ってきた。しかし、阿澄が夜食として一人で半分近くも食べてしまった。

 これに母は激怒した。犯行が発覚したのは、朝食の準備をしようと冷蔵庫を開けたときだったため、ヒステリックな怒声が早朝の相原家に響き渡った。

 水無斗の誕生日の前日に買ったのだから、水無斗の誕生日ケーキに決まっている。それなのに食べたのだから悪質性は高い。私へのいやがらせのつもりでやったのだろうが、水無斗も巻き込んだのだから罪の重さは二倍だ。

 母はそのような趣旨の言葉を感情的に並べ立て、阿澄を手厳しく非難した。しかし非難されたほうは馬耳東風、なにを言われても他人事のような態度をとりつづけ、怒りに向き合おうとしない。

 これに母は呆れ返り、「そんなに食べたいなら、全部一人で食べればいい」と吐き捨てて出勤した。阿澄はしかし、もうケーキには手をつけなかった。

『仕事から帰ったら、ケーキの残りを三人で食べよう。まだたくさん残っているから、きっとおなかいっぱい食べられるよ。口には出さないけど、お姉ちゃんも反省しているみたいだし、赦してあげて』

 誕生日に重苦しい雰囲気が家内に漂うのを水無斗は嫌がり、母にメールでそんなメッセージを送った。

 正午過ぎに送られてきた返信で、母は息子の提案に快く賛意を示した。しかし、阿澄の罪を赦すとは一言も書いていなかった。

 今のところ、全面的に衝突する事態こそ起きていないが、母と娘の関係の険悪さは隠しようがない。

 一方、一時期よりは遠くなったが、冷え込んでいるとまではいえない仲のきょうだいは、誕生日プレゼントを交換する予定になっていた。阿澄が前夜、入浴を終えたばかりの弟を階段で呼び止めて、一方的に開催を宣言したのだ。

 水無斗は突拍子もない提案だと感じたが、つい二・三年前までは、誕生日のプレゼント交換は恒例のイベントだった。久しぶりに姉と当たり前の形で交流できる喜びに、彼は二つ返事で承諾した。

 ただ、プレゼント選びには悩まされた。約束を交わした時点で、開催まで二十四時間を切っていたし、その日は学校があるから、放課後に遠くの店まで買い物に行くのは難しそうだ。

 そもそも阿澄が喜ぶプレゼントがわからない。美術部には足が遠のいているようだし、『マイモン』からはすでに卒業している。彼女が唯一日常的に購入している化粧品は、彼がもっとも不案内な分野の商品だ。

 迷った末、ケーキを買って帰ることにした。

 立ち寄ったのは、通学路にあるコンビニ。選んだのは、新発売のモンブランケーキ。

 プレゼントは直前まで秘密にしておきたかったのだが、目論見は実現しなかった。ケーキは要冷蔵のため、学校から帰宅した阿澄が冷蔵庫を開けたさいに発見されてしまったのだ。

 もっとも、彼女はほんの少し口角を持ち上げてみせただけで、ケーキのケの字も口にしなかった。普段は平気で空気の読めない行動をとる姉の、姉らしからぬ行動がたまらなく眩しかった。

 誕生日プレゼントの話は、夕食を終えた直後に出た。

「お姉ちゃんへのプレゼント、ケーキにしたんだ。モンブランケーキ」

 水無斗は二人ぶんのジュースを用意しながら告げた。

「えっ、マジ? 水無斗、ケーキなんて買ってたんだ。全然気づかなかった」

 阿澄はわざとらしく驚いてみせた。そのリアクションがなぜか無性にうれしくて、彼は堰を切ったようにしゃべった。学校帰りに買い物をするのははじめてだったので緊張したことや、いろいろな種類がある中で秋だからモンブランを選んだことなどを。

「なるほどね。あたしのことを想って買ってくれたわけだ。水無斗はほんとうにあたしのことが大好きなんだね。大好きなのは前から知っていたけど、あたしの気持ちを考えてケーキまで買ってくれるなんて、大人になったね。そうだよね、来年でもう中学生だもんね」

 阿澄は弟の頭を撫でる。その手つきはいつになく優しい。水無斗ははにかみ笑いをこぼしながら行為に甘んじた。

「じゃあ、さっそく食べよう。お皿に移して持ってきて」

 水無斗はまごついた。モンブランは母の帰宅後に、フルーツケーキの代わりに三人で食べるつもりだったからだ。恐る恐るその考えを伝えると、

「は? なんで食べちゃいけないの? 今すぐ食べるからジュースを注いだんじゃないの?」

 険しい表情、険のある声で質されて、たちまち心身が強張る。

 阿澄は小さく舌打ちして起立した。キッチンに直行し、冷蔵庫からフルーツケーキの袋を取り出す。袋から箱を取り出し、箱からケーキを取り出し、ごみ箱に捨てる。唾を吐き捨て、箱と袋も同じ場所に突っ込む。ごみ箱を蹴飛ばす。横転し、ごみとともにケーキの残骸があふれ出した。また唾を吐く。

 水無斗は呆然と傍観することしかできない。

 阿澄は今度こそモンブランが入った袋を取り出し、リビングまで戻ってきてローテーブルに置いた。そして、手首のスナップをきかせて水無斗の頬を平手打ちした。高らかに響いた乾いた音が、なにかのはじまりと終わりを告げた。

 言いたいことがあるなら言ってみろ、という目で阿澄は弟を睨む。

「……ごめんなさい」

「口を動かす暇があるなら用意してよ、ケーキ」

 水無斗はすぐさまフォークと皿を持ってくる。今さらのように、ぶたれた頬が疼きはじめた。

「食べさせてよ、水無斗。お姉ちゃんのことが好きなんでしょ?」

 姉の表情がほんの少し和らいだが、弟の肩には力がこもったままだ。もっと機嫌をとらないと。そんな思いのもと、すくった一口ぶんのケーキを口まで持っていく。

 阿澄はそれを口腔におさめて嫣然と微笑し、弟の唇に自らの唇を重ねた。味覚的な甘さを感じ、風邪をひいたときのように頭が熱くなる。息苦しくなるくらい激しく唇と舌を蹂躙される。

 阿澄はやがて唇を離し、シャツを脱ぎ捨てて上半身裸になった。乳房にモンブランをなすりつけ、舐めるように命じる。ためらっていると、髪の毛を付け根から掴まれ、力任せに顔を押しつけられた。水無斗は一心不乱に舌を動かした。満面に付着したクリームを、今度は阿澄が舐める。鼻孔まで舐められながら、あっという間に服を脱がされた。押しつけるようにソファに座らせ、またがってくる。

 おぞましい予感に、水無斗は幼子がいやいやをするように頭を振った。それでいて、肉体は正反対の意思を表明している。

 阿澄は弟に抱きついて肉体を拘束したうえで接続し、動き出した。背徳の愉楽に涙があふれた。

「知ってた? お姉ちゃん、もう処女じゃないんだよ。はじめてしたのは十一歳のときで、水無斗よりも一年早かったんだ」

 顔の両側を両手で挟んで真正面に向きを固定し、唇が触れ合いそうな至近距離から見つめながら、喘ぎ喘ぎ阿澄は言う。

「なにも心配はいらないよ。子ども、作ろう。お母さん、お父さんのところに行っちゃうから、代わりの家族を作ろう。水無斗、来て」

 呼びかけられてから限界が訪れるまではあっという間だった。

 放出しているあいだ、水無斗の体は小刻みに波打った。涎が垂れ落ち、涙が流れ落ちた。なにもかもが流れ出した。

 水無斗の体に付着した残滓を、阿澄は我が子を世話する母のていねいさで舐めとり、太ももに垂れたものをティッシュで拭う。丸めたそれを床に投げ捨て、弟の耳に吐息を吹きかけながらささやく。

「水無斗。邪魔者が消えて二人暮らしをするようになったら、お姉ちゃんといっぱい、いっぱい楽しいことをしようね。約束だよ」


 母が帰宅するまでに片づけられるものは片づけたが、完璧にこなせた自信はない。さっさと部屋に引っ込んだ姉とは対照的に、水無斗は茫然自失から抜け出すのにかなり時間がかかった。

 リビングに姿を見せた母は、フルーツケーキがごみ箱に捨てられていると知って絶句した。

 水無斗はただ一言「ごめんなさい」と謝った。阿澄がやったとは告げなかったし、言い訳もいっさい慎んだ。

 母は依然として言葉を失っている。

 再び謝罪の言葉を口にしようとしたとき、母は失笑をもらした。不快感よりも同情の念を催す、すべてを諦めたような薄ら笑いを。

 水無斗は確信している。母はきっとこの瞬間、ほんとうの意味で、二人の我が子を置き去りする決心がついたのだと。


 大みそかの夜、阿澄が夕食を終えて自室に戻り、水無斗と母はダイニングで二人きりになった。

 食器類はすでに洗い桶に放り込まれている。湯呑みの中の緑茶から立ち昇る湯気は、今にも消えそうに弱々しい。大みそか恒例の歌番組は、姉の退室を機にテレビの電源ごと消し去られていた。

 母は無音で茶をすすり、おもむろに息子に視線を合わせた。言葉で促されずとも、求められていることはわかっている。

「お母さん、僕、お姉ちゃんといっしょに暮らしたい。お父さんとまた暮らしたい気持ちはあるけど、お母さんについて行きたい気持ちはあるけど――でも、もう決めたことだから」

「……そう。そうしたいのなら、そうしなさい。お母さんは水無斗の意思を全面的に尊重するわ」

 母はため息混じりにそう答えて、茶を一口飲む。そして、ひとり言のようにつぶやく。

「もう大人だからね、水無斗は。もう子どもじゃないから……」


『お母さんから連絡が来たと思うけど、僕からも報告しておくね。僕、お姉ちゃんと暮らすことにしたよ。またいっしょに暮せなくてさびしいけど、もう決めたことだから』

 水無斗は久しぶりに父にメールを送った。

 予想に反して、返信は五分も経たずに送られてきた。

『お父さんもさびしいし、残念だけど、水無斗の決断を全面的に尊重するよ。お父さん自身は、水無斗もこちらに来てくれると信じていたんだけど、水無斗から返事をもらってみると、そちらを選ぶのが普通だし、正しいことなんだって考えが変わった。お父さんは一人っ子だったけど、両親よりもきょうだいと暮らしたい気持ち、理解できる気がするよ。ある意味では親よりも大事な存在なんだろうね、きょうだいがいる人間にとってのきょうだいというのは』

 読んでいるうちに水無斗はたまらない気持ちになった。やりとりはこれで終わったとも受けとれる文面だが、もっと話がしたかった。ただ、話題が思い浮かばない。

 四人で暮らしていたとき、僕たちはどんな話をしていたんだっけ? 父さんが好んでしていたお気に入りの話、なにかあったかな?

 賢明に頭を働かせるうちに、阿澄が生まれた日のエピソードについて話してもらうのはどうだろう、と思いつく。

 個人的にずっと気になっていたし、いいアイディアだと思った。ただ、父はいつからかその話題を家族の前では話さなくなったから、こちらから口火を切るのは怖い。

 考えた末、こんなふうに切り出してみた。

『僕が生まれた日に、なにか面白い出来事が起きたとか、ある? 唐突でびっくりしたと思うけど、ふと気になったから訊いてみようと思って』

 長い、長い間が空いた。そのくせ、返信の文章は短かった。

『ないよ。そんなものは特にない。台風の季節ではあったけど、空は晴れ渡っていたしね。平凡で平穏な一日だったよ』

 除夜の鐘が鳴りはじめた。終わりとはじまり、両方を告げる音が。

 少しの刺激でクリームがパンからあふれ出したのは、中にたっぷり入っていたからじゃない。あふれ出してほしいと願いながら食べたからこそ、あふれ出したんだ。

 水無斗は照明のスウィッチに手を伸ばし、部屋を暗黒に染め上げた。



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