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台風と金木犀
台風と金木犀
阿波野治
文芸・その他純文学
2025年01月11日
公開日
7万字
完結済
相原家のきょうだい、姉の阿澄は自分の「好き」に忠実に生きる自由奔放な少女で、弟の水無斗は気弱だが真面目で優しい少年だ。二人は互いに影響を与え合いながら、紆余曲折ある青春時代を送り、成長していく。しかし、きょうだいは決して赦されない罪を犯してしまう。

第1話 阿澄①

 白く、薄暗く、吐き気を催すほど清潔な部屋に置かれたベッドの上で、生後十四時間の阿澄は母の胸に抱かれている。

「ごめんね」

 母は涙を流しながら譫言のようにつぶやく。

「ごめんなさいね、阿澄。私が不幸な結婚をしてしまったばかりに、こんな世界に産み落としてしまって」

 阿澄は泣き出した。

 自分を産んでくれた人の悲しむ姿に感化されたのではない。こんな世界に産み落とされ、生きていかなければならないことが悲しくなり、泣いてしまったのだ。

 母は娘が母乳を欲しているのだと早合点し、急ぎがちに服の前をはだけて乳首を口に含ませた。とたんに阿澄は空腹を覚え、我を忘れて乳汁を貪り飲んだ。

 世界の終わりのような静寂が病室を満たしている。我が子を見下ろす母の顔つきと眼差しを、阿澄はいっさい記憶していない。


「阿澄が生まれようとしていたとき、お父さんは車の中にいたよ。病院の駐車場に停めた自分の愛車の中にね。朝食を食べていたんだ。出産がはじまったのが夜中の三時過ぎだったかな。お父さんたちが住む町にちょうど台風が来ていたから、外は雨と風がすごかったよ。たしか強風域に入っていたんじゃないかな」

 阿澄の父は機会を見つけては、本人を含む家族の前で、娘が生まれたときのこと語った。

「大慌てで病院に駆けつけたんだけど、なかなか出産がはじまらなくてね。先に朝食をすませておこうと思って、近所のコンビニまで車を走らせたんだ。買ったのは、中身がたっぷり詰まったクリームパン。車内は薄暗くて、黄色いはずのカスタードクリームが白く見えたよ。そのたっぷりと入ったクリームが、パンを噛みしめるたびに中からどろりとあふれ出すんだ。おいしかったよ。むちゃくちゃおいしかった。予定日がいよいよ近づいて、お母さんの出産のことで頭がいっぱいの日々を送っていたから、一人きりで食事ができてほっとして、だからこそそう感じたんだろうね。けっきょく、食べている途中で『出産がはじまった』って携帯電話に連絡が入ったから、パンは最後まで食べられなかったんだけど」

 特にクリームパンを食べるくだりは、しつこいくらいに何度も語った。

「まだ早朝で、外は台風で、車内は薄暗くて、クリームが白く見えたよ。カスタードクリームのはずなのに白かった。その白いクリームが、パンにかぶりつくたびにどろりとあふれて――」


 阿澄は適度に厳しく、適度に甘やかされながら育てられた。

 彼女の三歳の誕生日に、弟の水無斗が生まれた。

 水無斗は阿澄の思いどおりになることもあれば、ならないこともあった。どちらかと言うと後者の場合が多かった。

 厳しくも甘やかされて育った阿澄は、思いどおりにならないとすぐに癇癪を起こし、弟をぶった。すると彼は決まって、火がついたように泣き出した。

 泣き声を聞きつけて駆けつけた両親は、決まって水無斗の肩を持った。それが阿澄は気に食わない。両親が立ち去るや否や、叱られる前よりも強い力で弟をぶつ。すると彼はまた泣き出す。

 結果、長女に対する両親の対応はいっそう厳しくなり、阿澄はこらえきれずに泣いてしまう。それに刺激されて、水無斗はますます激しく泣きじゃくる。

 かくして相原家では、いつまでもいつまでも、二人の子どもの泣き声が響きつづけるのだ。


 相原家の子どもたちにとって、午後一時から二時にかけての一時間は昼寝の時間だ。

 二歳だった水無斗は、その日、母の手によって自分の布団に寝かされて早々に深く眠り込んだ。

 一方、昼寝をするつもりはさらさらない五歳の阿澄は、母が寝室から出て行ったのを見届けると、すぐさま布団から抜け出した。リビングのソファでテレビを観ている母の背後を抜き足差し足で通過し、庭に出る。

 西側の生垣際に植えられた金木犀の前の虚空に、無数の光の粒が浮かんでいた。それは霧か靄のようにも、蚊柱のようにも見える。

 光の粒の集合体は、阿澄に目撃されたのが引き金となって歪みはじめ、特定の形をまっしぐらに目指して変化していく。

 動きはじめた五秒後には、光の粒は一人の人間に変身を遂げていた。ねずみ色の襤褸をまとった白髪白髭の老爺。

 ホームレスだ、と阿澄は思った。

 しかし心の芯では、老爺は神だと認識していた。

 神は阿澄を正視し、浅く首肯した。目の当たりにしたばかりの映像を逆再生したような変化が神の肉体に生じ、五秒後にはもとの光の粒の集合体に戻っていた。

 近づこうと阿澄が一歩足を踏み出したとたん、光の粒たちは薄れて消えた。金木犀のオレンジ色の花が彼女の視界を埋め尽くした。

 神がうなずいた意味はわからないが、自分に向かってうなずいたのだから、自分という存在に関わるなにかを肯定してくれたのだ。五歳の阿澄はそう解釈した。

「なにか」の正体を知りたい欲求がないといえば嘘になる。ただ、神がわざわざ一介の人間の前に降臨し、なんらかのメッセージを送ってくれたのだから、それで満足するべきだと思った。

 部屋に戻ると、水無斗は口を半開きにして安眠を貪っている。阿澄は自分の布団に潜り込み、弟の耳元に唇を寄せてささやいた。

「水無斗、あたし、神さまを見たよ。だからきっと、水無斗もいつか会えるんじゃないかな。だって、あたしたち、血がつながったきょうだいなんだよ? だから、いつかぜったいに神さまに会えるよ」


 三歳の水無斗はイグアナばかり見ている。緑色の大きなその爬虫類は、止まり木にとまって身じろぎ一つしない。

 六歳の阿澄は、売り場の隅に置かれたハムスターのケージを覗き込んでいる。齧歯類が特に好きなわけではなかったが、夜行性にもかかわらず活発に動くので、暇つぶしに眺めるには好都合だった。

 爬虫類と哺乳類の両コーナーは、直線距離にして七・八メートル隔たっている。阿澄は最初こそ、母の言いつけを守って弟を気にかけていたが、ハムスターのケージを見つけたのを機に、自らに課せられた義務をすっかり忘れていた。

 不意に、饐えたような臭いが鼻先を掠めた。振り向くと、ねずみ色の襤褸をまとった老爺が阿澄の隣に佇んでいる。

 神だ、と思った。

 老爺は五歳の阿澄の尻をつるりと撫でた。唇が開き、隙間だらけの黄ばんだ前歯が露出する。

 次の瞬間、怒声が飛んできた。

 阿澄は弾かれたように振り向いた。売り場の出入口で、ぱんぱんに膨らんだレジ袋を両手に提げた母が仁王立ちしている。

 声が轟いた瞬間、老爺は静電気を感じたように尻から手を離した。

 母がつかつかと歩み寄ってくる。反対に、老爺はせかせかと速足でその場から去る。阿澄はそれを見て、老爺がただの変質者だと悟った。

「阿澄! なにか変なことされなかった? 怪我はしてない?」

 ロボロフスキーハムスターがおがくずを掘る音をBGMに、母の言葉と手に慰撫されながら、神には生涯で一度しか会えないものなのだ、と阿澄は理解する。

 台風と金木犀の季節、日曜日の昼下がり、百貨店屋上のペットショップで起きた出来事だった。


 幼稚園から小学校低学年にかけて、阿澄はおてんばだった。女子よりも男子と遊ぶ機会が多く、屋外で体を動かす遊戯を好んだ。

 彼女の大胆で物怖じしない性格は、女子よりも男子の美意識に敵った。なおかつ、基本的に男子は女子に優しい。度を越して活発な阿澄ですらも、お情けではなく仲間に入れてくれる。

 女子のくせに男子と、などと難癖をつけてくる者も中にはいたが、阿澄はそんな精神年齢の低い輩には一瞥もくれない。己の「好き」に全幅の信頼を寄せ、追い求め、殉じた。

「こんな世界」に産み落とされて間もないころと比べると、ずいぶんと人間らしくなった弟の水無斗に、阿澄が親愛の念を抱くようになったのはこのころだ。

 人見知りの水無斗は常に姉の後ろについて回った。阿澄は自宅にいるときは弟と人形遊びをするなどしたが、友だちに誘われるとほったらかして遊びに出かけた。弟は好きだし、いっしょに遊ぶ時間は楽しいが、同年代の男子たちと遊ぶほうがもっと楽しいからだ。

 阿澄は身勝手な性格に無自覚だった。誰からも苦言を呈されなかったからだ。彼女の周りにいる大人たちは、子どもとはそういう生き物なのだと信じ込んでいた。

 相原家の庭の金木犀が花を咲かせる。台風がそれを散らし、きょうだいはまた一つ歳をとる。そのようにして世界は流れていく。


 阿澄が八歳のとき、『マイノリティーモンスターズ』――通称『マイモン』というゲームソフトが発売された。

 合計二百種類のモンスター捕獲し、育成し、戦わせるという概要。コレクション性の高さと、育成の奥深さ、戦闘に問われる戦略性が広く高く評価され、爆発的なヒットを記録した。

 日本の多くの子どもたちと同じように、相原家の子どもたちにも『マイモン』が買い与えられた。

 日本の多くの男子たちと同じように、水無斗はモンスターを強く育てて戦わせることにのめり込んだ。一方の阿澄は、メインストーリーをクリアしたとたんに関心が薄れた。

 ゲームで遊ばなくなっても、テレビアニメは毎週欠かさずに視聴した。大好きな「マジケン」という犬のモンスターのグッズを集める趣味も続いている。しかし、火花が弾けるような情熱はどこかに行ってしまった。お年玉で買ったマジケンの特大ぬいぐるみも、いつしかほこりをかぶり、やがて押入れの中へと定位置を変えた。

 きょうだいが『マイモン』を遊ぶようになったときには、発売からすでに二年が経とうとしていて、二人がストーリーをクリアしたころに次回作の発売が告知された。それによると、『マイモン2』では新たなモンスターが二百体追加され、合計四百種類になるという。

 阿澄はうんざりした。きりがないと思ったからだ。

 彼女の『マイモン』熱は完全に冷めた。いまだに『マイモン』のゲームに熱中する弟の姿を見るたびに、無性にいらいらした。

「水無斗、『マイモン』なんてもうやめなよ。面白くないよ。そんなので遊んでも時間の無駄。あたしのクラスではもう誰もやってないし」

 いら立ちを隠さない声で苦言を呈したが、弟はそれを無視して『マイモン』で遊びつづける。爛々と輝く瞳は携帯ゲーム機の画面に釘づけで、姉の言葉をまともに聞いていないのは明らかだ。

 阿澄はかっとなって水無斗の手からゲーム機を奪いとり、床に叩きつけた。画面が真っ暗に染まり、彼は悲鳴を上げた。声の大きさと甲高さが癪に障り、弟の顔を殴った。たちまち泣き出した。

 阿澄はゲーム機をむんずと掴んで裸足のまま庭に出て、金木犀の木に向かって力任せに投げつけた。投げたものは枝に命中し、花のいくつかがぱらぱらと落ちた。ゲーム機を拾い上げて電源を入れてみたが、画面にはなにも映らないし音も聞こえてこない。

 彼女はさも満足そうにうなずき、リビングに戻って弟に壊れたゲーム機を差し出した。いやいやをして受けとりを拒絶したので、胸を突いて尻もちをつかせた。また泣き出した。彼女はゲーム機をごみ箱に捨て、おやつを求めて戸棚の中を漁る。

 水無斗が再び『マイモン』をプレイするのは、次回作である『マイモン2』が発売されるまで待たなければならなかった。


 相原家の周囲には雑草が生え放題になった空き地が多く、阿澄は季節になると水無斗を連れてよく虫捕りに行った。

 彼女は虫捕り自体よりも、雑草をかき分けながらフィールドを駆け回るほうが好きだ。飽きっぽくて移り気な性格だから、虫を探す場所を次々に乗り換える。もともと体力と脚力が高く、自分自身の快楽を最優先に行動を決めるため、毎回のように弟を置き去りにした。

 水無斗が自力で追いつくか、阿澄が気まぐれから弟を迎えに戻るか。これまではそのどちらかだったが、日没がすっかり早くなったある秋の日の午後、彼女は弟を放置して一人で帰宅した。

 その日きょうだいが遊んだのは、自宅からは少し遠い、二人がはじめて訪れた空き地。阿澄は帰り道がわかったが、水無斗は途中で迷った。道の真ん中で泣きじゃくっているところを近隣住人に保護され、交番を経由して母に引き渡された。

「だめじゃない。阿澄はお姉ちゃんなのに、水無斗のことをほったらかしにして。水無斗はまだ小さいんだから、あなたが守ってあげないといけないのに。もっとお姉ちゃんらしく振る舞いなさい」

 母は厳しく叱りつけたが、娘はそっぽを向いて黙っていた。

 水無斗は無事だったからそれで一件落着なのに、お母さんはしつこくあたしを責める。ちんたらしていた水無斗にも責任はあるのに、なんのお咎めもない。そんなの、ずるい。不公平だ。

 阿澄は腹が立ったが、ぐっとこらえて口をつぐんだ。

 母は早いテンポで非難の言葉を投げつけてくるので、反論の言葉を用意するのが間に合わない。大人だけあって口達者だから、なにを言っても理路整然と反論されそうだ。それならいっそのこと沈黙し、母の言葉には言い返すだけの価値もないと暗に表明したほうが、敵にダメージを与えられる。そう判断しての沈黙だった。

 形の上では一方的な諍いに、父が慌てて仲裁に入った。妻、娘、どちらの態度にも苦言を呈したが、阿澄に対する叱りかたのほうが格段にソフトだった。

 夫婦のあいだで口論が勃発した。ソファにふんぞり返ってそれを眺める阿澄は、心の中で母に向かって「ざまあみろ」と吐き捨てた。

 母のしつけに父がダメ出しをしたこの一件で、阿澄は彼女が教育者として必ずしも優秀ではないと看破した。その母の反撃を許すくらいだから、父も似たようなものだろう。

 これ以降、阿澄は他者から広い意味での攻撃を浴びると、冷笑的に受け流す対応を多用した。剥き出しの感情を前面に押し出して反撃するばかりだったのが、柔軟に対処できるようになった。

 さらには、母と口論になったときに、わざと彼女を挑発するような言葉を吐いたうえで、はらはらしながら成り行きを見守っている水無斗を弁舌巧みに自陣営に引き込み、さらには父も味方につけ、三対一の数的優位を作り出してやり込め、留飲を下げることをよくやった。

「姉らしく振る舞え」という母からの忠告は、もちろん無視した。結果的に姉らしい振る舞いになることもあるだろうが、自分からそうするつもりはない。土下座をして頼まれたとしても嫌だ。

 自由に、自分がやりたいことだけをやって、生きる。

 まだ十歳に満たないが、阿澄は確固たる信念を確立していた。


 学年が上がるにつれて、男子児童は阿澄と遊ばなくなっていった。

 彼女はしかし、女子児童と仲よくなろうとは思わなかった。好きなことだけを追い求めていたかったからだ。

 必然に水無斗と戯れる機会が増えた。姉から交流を求め、弟が嫌がりながらも最終的には受け入れる、という形が大半を占めた。

 臆病だが心根の優しい弟は、姉の暴力的な言動を恐れていたが、それ以外のすべてを愛しているといっても過言ではなかった。弱さと愛情、二つの意味から姉に依存せざるを得なかった。

 阿澄はそれにつけ込んで、弟をときにいじめ、ときに猫かわいがりするという形で愛した。

 甘い言葉という飴と、暴力という鞭の使い分けは巧みだった。無理やりなにかを強いるだけでは、面白くない。恐れを抱きながらも姉から離れられない水無斗だからこそ、かわいかった。

 多少いびつながらも、きょうだいの関係は安定性を保っていた。


 今年いくつ目かの台風が日本列島を縦断し、金木犀の花が一つ残らず散り落ち、相原家の夕食に赤飯が出た。

 その日を境に、十歳になったばかりの阿澄は、性という未踏のジャンルに関心を持ちはじめた。

 そのころ、きょうだいはまだ入浴をともにしていたが、阿澄はそのさいに水無斗の性器にいたずらをするようになった。

 行為は執拗で、ときに暴力的で、弟の意思を無視した。彼女自身は、触ると嫌がり、嫌がるのが面白いからいたずらをしているという認識だったが、性への好奇心が原動力なのは疑いようがなかった。

 水無斗は七歳にして、姉と混浴する習慣を自らの意思でやめた。彼の小学校入学を機に、きょうだいは別々の部屋で寝起きするようになっていたから、姉離れがいっそう進んだ格好だ。

 阿澄はそれでもなお、弟と戯れる機会を積極的に作った。

 取っ組み合いを仕掛けて急所に攻撃を加える。無理やり服を脱がせて笑い転げる。馬乗りに押さえつけて鼻血が出るまで顔面を殴打する。

 行為は暴力的になりがちだった。攻撃的で体格に勝る彼女にとって、弟はちょうどいい遊び道具だった。

 小学生になっても弟はよく泣き、たびたび両親に被害を訴えたが、阿澄はきょうだい仲が真の意味で壊れる心配はしていなかった。水無斗が姉を恐れながらも愛し、依存していると知っているから。

「水無斗、おいで。ぎゅってしてあげる。仲直りしよう。もうあんなことは一生しないって約束するから。ねえ、水無斗ってば」

 暴力の嵐が吹きすさぶ時間がやがて終息すると、阿澄は弟が逃げ込んだ自室のドアを開け放つ。満面の笑みで両手を広げ、猫撫で声で甘い言葉を投げかける。

 消灯された暗い部屋の中、ベッドの上で膝を抱えた水無斗は、怯えと不信の眼差しを姉へと注ぐ。

 阿澄は笑顔もポーズも崩さない。自分の強さと強みも、水無斗の弱さと弱みも、この世界の誰よりも知っているから。

 弟はやがて甘言に屈し、ベッドから下りて姉に抱きつく。

 阿澄は聖母のように抱きしめ返すこともあれば、暴君のように殴り飛ばすこともある。すべては彼女の意思一つで決まる。

 あたしは神だ。

 ときどきはそんなふうに、思ってもみないことを思ってみる。


 阿澄の胸は急速に膨らみはじめた。

 ブラジャーは彼女には苦痛でしかなかった。必要どころか、自分にとって真に必要なものの成長を阻害しているようで忌々しかった。

 阿澄は自宅ではノーブラで過ごした。彼女の胸は日々成長し、絶えず緩やかに締めつけられているような状態だったから、肉体面での苦痛を軽減するための処置でもあった。

 自宅で家族とダイニングテーブルを囲むたびに、阿澄の正面が定位置の父が、何食わぬふうを装いながらも、暗い光が宿った瞳で胸の膨らみを凝視してくることに彼女は気がついていた。

 二回り歳が離れた雄のその行動に、彼女は言語化するのが難しい示唆を受けた。気がつかないふりをしたほうが得策だと直感し、それに従った。

 こうしてまた、台風と金木犀の季節が過ぎていった。


 小学五年生の阿澄は、七月の日射しが斜に照りつける渡り廊下で、クラスメイトの男子児童たちに向かって胸をさらけ出した。

 ケース入りのリコーダーを手に、阿澄が次の授業が行われる音楽室に向かっていると、後ろから歩いてきたクラスメイトの男子五人組からいきなりからかわれた。発言したのは、クラスの中心的なグループのリーダー格の男子。内容は、彼女の男っぽさを揶揄するものだった。

 普段この手の被害に遭ったとき、阿澄がとる対応はさまざまだ。罵り返す、暴力を行使する、無視する――どれを選ぶかはそのときの気分次第。たいていの場合損得勘定は考慮されないため、自分よりも体が大きい男子に殴りかかることも珍しくない。

 阿澄は最初、彼らを無視しようとした。しかしすぐに気が変わり、彼らの前に立ちはだかってシャツを大きくまくり上げた。

 家族以外の人間に、下着をつけているとはいえ胸を見せたのははじめてだ。周りには五人以外にも何人もの児童がいたが、手つきにためらいがなかった。

「よく見ろ。どこが男っぽいんだよ、ばーか」

 捨てゼリフを吐き、彼らに背を向けて遠ざかっていく。

 高揚感も、悔やむ気持ちも、羞恥の念さえもない。馬鹿で幼稚な男子たちに効果的な一撃を食らわせてやったのだ。そんな思いだけが阿澄の胸にはあった。


 翌日、阿澄はクラス担任の高梨創介から、放課後に教室に居残るように命じられた。

 黒板に落書きをして暇をつぶしているうちに、教室から阿澄以外の児童は去り、校舎は静けさに支配された。

 机で書き物をしていた高梨は、阿澄にチョークを置くように命じ、黒板の前で彼女と相対した。生真面目な性格につけ込まれて、一部の児童から姑息ないたずらの標的にされることもある新任教師は、黒縁眼鏡を人差し指で押し上げてこう言った。

「相原、君はクラスの男子たちに胸を見せたそうだね。下着をつけていたとはいえ、異性相手に。先生は今年教師になったばかりだけど、まさか君みたいな恥知らずの女子児童がいるなんてね。さっぱりわからないから、教えてほしい。どうしてそんな真似をしたの?」

 阿澄は無言でシャツをめくり、純白の下着に包まれた胸をさらけ出した。

 高梨の喉がくっきりと鳴った。食い入るように見つめている。亀のように首を突き出し、まばたき一つせずに真剣な眼差しで。

「……なるほど。こんな立派なものを持っているのなら、誰かに見せたくなるのもうなずけるよ。じっくり見てもいいかな?」

 阿澄がうなずいたので、高梨は遠慮なくそうした。彼女が少し心配になってくるくらいに長々とそうした。

 やがておもむろに上着の内ポケットから携帯電話を取り出し、写真撮影機能を使って撮影する。携帯電話を教卓に置き、顔面を眼鏡ごと彼女の胸に押しつけ、髪の毛を振り乱して頬ずりをする。

 阿澄の全身は火照った。高梨の顔が触れている領域がもっとも高温だ。力任せに押しのけたいような、より深く密着したいような。遅まきながら、他人から胸を触れられた経験がなかったと気がつく。

 高梨はやっとのことで顔を離すと、下着越しに胸を触診した。くすぐったかったが、すぐに慣れた。忙しなく手を動かし、口を半分あけた顔でしきりにうなずく彼は、実年齢よりも幼く見えた。

 触診がひととおり終わると、下着に隠れていた部分の様子も自分の目でたしかめ、指で触りはじめた。電撃的な、痛みとは似て非なる感覚が駆け抜け、体がぎこちなく波打つ。羞恥の念が込み上げてきたが、すぐにどうでもよくなった。

 高梨創介はこの行為をどこまで続けるのだろう? 次にどんな行為に踏み切るのだろう? この場における唯一の被行為者として、最後まで見届けたい。

 しかし、高梨は急に廊下を気にしはじめた。不器用な手つきで下着を元の位置に戻し、耳もとでささやいた。

「大問題だ。これは大問題だよ、相原。明日の放課後も居残るように。わかったね?」


 その日の夕食の席で、父が久々に阿澄の生まれた日の話をしたことが、彼女の心に印象深く刻みつけられいる。

「外は台風で大荒れでね、ライトは点けていなかったから車の中は暗かった。だからなのかな、本来は黄色いはずのカスタードクリームが白く見えたよ。不思議だよね。その白いクリームが、パンを噛みしめると中からどろりと――」

 自分が生まれる前の世界で起きた出来事を、水無斗はいつもどおり興味深そうに目を丸くして、箸の動きさえ止めて聞き入っている。母は「またその話か」というふうに呆れ顔で聞き流している。

 阿澄はその日はじめて、クリームパンのエピソードは一から十まで父の創作なのではないか、と疑った。


 翌日から、高梨創介と交流するのが阿澄の放課後の日課となった。

 触れ合っているあいだ、ブラジャーが本来の位置にある時間は五分にも満たなかった。高梨は多種多様なやりかたで成長期の胸を刺激した。唇や性器にも見向きもせずに、ひたすらその部位のみを攻めた。行為は総じて変態的かつ執拗で、回を重ねるごとにエスカレートした。

 放課後の触れ合いおける彼女は常に受け身だ。積極的になる必要性は感じないし、高梨も望んではいないらしい。言いなりになるつもりは毛頭ないが、好奇心と肉体的快楽を満たしてくれるなら、大人しくしていることも厭わないというスタンスだった。

 行為が佳境に入ると、決まって廊下を気にしはじめる高梨とは違い、阿澄は秘密の戯れが第三者に露見する心配はまったくしていなかった。足音や気配には常に細心の注意を払っているから、危険は事前に察知して回避できる自信があるという意味ではない。生きとし生ける存在はいつか必ず死ぬように、自分たちの行為は誰にもばれないと信じて疑わなかった。

「相原はこうやって胸をさらけ出したのかな? ほおら」

 七日目に、高梨はとうとう自らの下半身を露出した。

 禍々しいその突起物に、阿澄は自ら手を伸ばし、触れた。こちらが自らさらけ出した胸に高梨が行為を及ぼしたように、自分もそうすべきだと考えたからだ。

 高梨は意外そうに目を丸くした。しかし、すぐに失くしていた宝物を見つけたような顔に変わり、教え子の手をとって動作をサポートした。

 彼ははじめ、刺激を受けるたびに失笑をもらしていたが、経験を重ねるにしたがい、脚色されていない声をこぼすことも増えた。決して快い音色ではないが、そのたびに阿澄の頬は緩んだ。

 野球の試合のように攻守交代が峻別されていた戯れは、次第に境目が溶け合って曖昧になり、混沌と化していく。戦況が複雑さを増すと、阿澄は経験不足から取り残されそうになったが、懸命に食らいついた。その姿勢を、どうやら高梨は喜ばしく思っているらしい。

 阿澄は相手の気持ちなどどうでもよかったが、未知なる扉を開いてくれるのはありがたかった。彼女が高梨創介に期待している役割は、煎じ詰めればそれに尽きるのだから。

 はじめて口を使ったときは一線を越えたと思った。

 ただし、怯まない。阿澄はブレーキをかけるのではなく、アクセルを踏み込んで高梨にぶつかっていく。その先に待ち受けている光景は、彼女の冒険心をもれなく満足させた。

 味を占めた阿澄は、さらなる愉楽を求めてますます果敢になった。先へ進めば進むほど、刺激的な光景が視界に飛び込んできた。知らず知らずのうちに彼女は魅了されていた。そして、欲張った。

 もっと先へ進みたい。見たことがない景色を見たい。未体験の快楽を味わいたい。


 高梨との放課後の戯れを終えて帰宅すると、リビングにはたいてい水無斗がいる。彼はランドセルを下ろすと、自室ではなくリビングで菓子を食べながら、両親から買い与えられた『マイモン2』で遊ぶのを毎日の楽しみにしていた。

 またそのゲームか、と阿澄は鼻で笑う。

『マイモン2』には合計四百種類ものモンスターが登場するという。そのすべてを捕獲することに躍起になっている弟を、阿澄は見下していた。いくらエンカウント率が低かろうが、入手方法が煩雑だろうが、根気強くプレイすれば誰でも全種類手に入れられる。そんなゲームのなにが面白いのだろう?

 高梨創介との戯れが日常と化したのを機に、きょうだいの距離は開きつつあった。


 このころから阿澄は、万事を冷ややかに見る癖がつき、特に自分よりも劣ったところを持つ同性を能動的に嘲笑するようになった。

 たとえば、テレビや雑誌で自分よりも胸が小さい女性を見ては、モデルのくせに、タレントのくせに、と内心でせせら笑う。

 たとえば、道で擦れ違った若い女性のコーディネートを観察しては、だせぇ、恥ずかしくないのかよ、などと心の中であざ笑う。

 たとえば、不器量なクラスメイトの女子から話しかけられても無視する。

 国宝級のブスのくせに、あたしと同列だとでも思っているの? ああ、うざい、うざい。とんだ勘違い女! ブサイク菌がうつるから気安く話しかけんなよ、ブサイク。死ねよ、ばーか。

 本心を声に出さないのは、相手を傷つけたくないからでも、報復されるのが怖いからでもなく、阿澄の美意識に適う対応だからに他ならない。ただし、その対応に難癖をつけられた場合には、一頭の獰猛な獣となって反撃に転じた。

 必然に阿澄は孤立した。

 しかし、彼女には高梨がいる。放課後の小一時間、禁忌的ゆえに愉快な遊戯の時間が確約されている。

 春の嵐はとうの昔に過ぎ去った。台風が日本列島に上陸するにはまだ早すぎる。彼女が性の愉楽を知ってからというもの、季節はずっと透明な汗が煌めく夏のままだ。


 高梨から宿題が出された。交流の中断を余儀なくされる夏休みのあいだ、所定のウェブサイトにアップされている動画を見て知識をたくわえ、練習を重ねて技術を磨いておくように、とのお達しだ。

 教えられたURLにアクセスすると、悪趣味なデザインのアダルトサイトが表示された。数ある動画の中から、サムネイルとタイトルの組み合わせが気になったものを再生してみる。

 前置きの茶番を見たときは期待外れの予感も過ぎったが、いざ本番がはじまると目も意識も釘づけになった。まばたきすらも抑えて見入り、我に返ったときには汗だくだった。部屋の冷房をつけ忘れていたのだ。

 遅まきながらエアコンを点け、本番シーンを再視聴しながら自慰に勤しんだ。映像と音声は期待どおり阿澄の気持ちを昂らせた。有線イヤホンでの視聴だったが、隣り合った自室で『マイモン2』で遊んでいるはずの水無斗に大音量で聞かせてやりたいと思った。

『モンスターはちょうど三百七十匹捕まえたよ。全部で四百体だから、コンプリートまであと少しなんだ』

 弟は最近そう話していた。

『三百七十? へえ、たくさん捕まえたんだね。お姉ちゃんが今までしたオナニーの数もそれくらいかな。水無斗はどうなの?』

 へらへら笑いながらそう言ってやりたかった。


 阿澄は疎遠になりつつあった水無斗に積極的に絡むようになった。

 小学校低学年で小遣いが少ないにもかかわらず、『マイモン2』のトレーディングカードをたびたび買っている弟は、慢性的に金欠だ。

 阿澄はカードや菓子を買ってあげるのと引き換えに、弟の体を触った。彼女は水無斗よりも小遣いが多く、たまに菓子を買うくらいしか使い道はないから、幼い弟を買収する金には困らなかった。

 高梨から言われていた「練習」の相手にするのが目的だったのだが、いざ触れ合ってみると弟はかわいかった。姉に従順なのがかわいいし、カードや菓子という単純な餌につられる純粋さもかわいい。

 姉からの執拗な、ときに痛みを伴うボディタッチを、水無斗は見返りをもらっているゆえに我慢している。その妥協の底に見え隠れする、姉への愛情を見つけた瞬間に勝る幸福を阿澄は知らない。

 艶めかしく指を体に這わせるたびに、不可抗力的にこぼれる幼い声は、高梨のそれとは比べ物にならないくらいに愛らしい。それを口に含んで噛みしめ、チューインガムのように唾液まみれにして、口腔に注ぎ返したくなる。

 高梨との交流を機に蓄積してきた知識を、アダルト動画を観覧して磨き上げてきた技術を、弟相手に思う存分試したい欲求が彼女にはあった。

 とはいえ、過激に振る舞ったせいで嫌悪感を持たれ、拒絶され、機会そのものを失ったのでは元も子もない。修復されつつあるきょうだい仲を逆行させたくない、という思いもある。性器にいたずらしたい気持ちをぐっとこらえ、添い寝をしながら髪の毛を梳いてやるだけにとどめる、といった譲歩もたびたびあった。

 水無斗を徹底的にいじめたい欲求は常にあったが、踏み止まった。心身ともに未成熟な弟への配慮というよりも、高梨創介に対する期待が大きかった。

 先生は、夏休み明けになにをするつもりなのだろう?

 セックスのなんたるかをすでに知っている阿澄にとっては、考えてみるまでもない疑問だ。


 相原家の庭の金木犀は、まだ花を咲かせないうちから独特の芳香をほのかに漂わせているようだった。

 二学期初日、阿澄は胸を弾ませて登校した。

 校庭で行われている始業式のさなか、彼女は急に気分が悪くなった。熱中症に似ているが、一度だけかかったことがあるその症状とはなにかが違う気もする。

 なにはともあれ、近くにいた教師に体調不良を申告する。保健室で休むようにとの指示が下ったので、列を離脱した。

 校舎内は人気がなく深閑としていて、なにか決定的なことが起こりそうな気配が色濃い。

 二階に達すると同時、阿澄は息を呑んだ。教室から高梨創介が現れるのを見たからだ。

 思いがけない出現にも驚いたが、それ以上に、険しい表情をしていたことに驚いた。まるで校内で児童が児童を刺す事件でも起きたかのように緊迫しているのだ。

 高梨はすぐに阿澄に気がつき、つかつかと歩み寄ってきた。手首を掴み、有無を言わさずに男子トイレの中へと引っ張り込む。

 足を踏み入れたとたん、金木犀が香った。嗅ぎ慣れているはずなのに、はじめて嗅ぐ匂いのように感じられた。個室の隅でオレンジ色の芳香剤の容器が横倒しになっていて、「キンモクセイの香り」と書いてある。

 阿澄の体調はいつの間にか正常に戻っていた。心臓はリズムを保ちながらも力強く拍動している。魂が静かに昂っている。

 高梨は真っ先に阿澄の服を脱がせた。今度は逆に阿澄に服を脱がせてもらいながら、彼女の裸体を粘度の高い手つきで触る。冷たい手だった。自分の体が熱くなっているせいで相対的にそう感じるのだということに、心まで熱くなっている彼女は気づかない。

 裸の二人は事前に取り決めを交わしていたかのようにキスをする。

 高梨は阿澄を便座に座らせ、何通りかのやりかたを使い分けながら、発展途上の肉体に入念に下準備を施す。すべてアダルト動画で観た行為で、手つきも慎重かつ穏やかだったので、安心して身を任せられた。動画の中で男優たちが実演していたよりも格段に下手くそなのも、かえって安心した。

 行為を及ぼされる阿澄の顔は、リラックスしているとき特有の柔和な表情に包まれている。一方の高梨の面差しは極めて真剣で、他者からの嘲笑を断固として拒絶している。

 それが教え子をいっそう和ませる要因になっていることなど知る由もない新任教師は、一心不乱に己の役割に徹し、

「いくよ、相原」

 とうとう阿澄の狭い入口をこじ開け、内部への侵入に成功した。

 激しい痛みに体を縦に貫かれ、柔和な表情は崩壊した。思わず爪を立てて彼の裸にしがみついた。

 前後運動がはじまった。開始時から続く荒々しい息づかいとはうらはらに動きは機械的だ。

 動かれるたびに痛かった。阿澄は高梨の裸の肩に爪を立てながら、決定的な瞬間が訪れるのを待ちつづけた。

 高梨の腰づかいがにわかに激しさを増した。阿澄は奥歯で悲鳴を噛み殺す。前後運動の速度はいっそう加速する。声を押し殺しきれない。高梨もうめいている。頭の中心が白くぼやけていく。意識が彼女のもとから飛び立とうとする寸前、

 断末魔のような声とともに白が解き放たれ、行為は全停止する。

 体勢が崩れて便座から滑り落ちそうになったが、高梨に抱きとめられた。彼は阿澄の耳に唇を寄せ、息を弾ませながらささやく。

「相原、この交わりで君は私の子を孕んだよ。きっと孕んだよ。愛しているよ、相原」

 金木犀の芳香の中、高梨創介は生真面目な教師の皮をかぶった神なのではないかと、阿澄は本気で疑った。

 なぜって、神でなければ、こうも自信をもって断言できるはずがないではないか。


 呼吸音がうるさい。

 高梨のせいばかりではなく、自分の荒い呼吸も混じっているからだと、しばらくして阿澄は気がついた。

 校庭から校歌が聞こえてくる。一人の教師と一人の女子児童がトイレでなにをしたのかを知りもしないで、学校がある地区を流れる川や、町並みや、友情の素晴らしさを、児童一同は歌い上げている。

『相原、この交わりで君は私の子を孕んだよ。きっと孕んだよ。愛しているよ、相原』

 阿澄はため息をつきたい気持ちをなだめ、静かにまぶたを閉じた。


 高梨と交流したあとは決まって空腹になる。いつもは帰宅まで我慢するのだが、この日は通学路にあるコンビニに寄った。選んだのは、クリームパン。

 店を出るとさっそく封を開け、かぶりついた。

 入っているクリームのボリュームが乏しく、やけに甘かった。


 高梨創介とはじめてセックスをしたあと、阿澄は彼への興味を失った。

 始業式の翌日の放課後、物欲しそうに、物言いたげに見つめてくる彼を無視して下校したのは、ひとえに気乗りがしなかったからだ。

 さらにその翌日、高梨に放課後に教室に居残るように求められたが、セックスはしない旨を伝えた。

 手ほどきをしてくれた恩義は感じている。高梨創介という個人に嫌気が差したわけでも、行為に怖気づいたわけでもない。しかし、セックスをするのは気乗りがしない。だから、しない。

 そうちゃんと説明するべきなのだろうが、面倒くさかった。考えた末、手っ取り早い方法を選ぶことにした。

「だったら高梨先生とセックスをしたこと、あたしの親にばらしてもいいですか? 親が許可してくれたのなら、毎日してもいいですけど。ていうか、先生は毎日あたしに放課後は居残りを命じているから、あたしたちの関係を怪しんでいる人はたくさんいると思いますよ。今のところ奇跡的に誰にもばれていないですけど、調子に乗っているとそろそろ危なくないですか」

 高梨の眼鏡の奥の瞳に動揺の色が浮かんだ。不安そうなその表情は、姉の粗暴な振る舞いに怯える水無斗に通じるものがある。

「一週間に一回なら構わないけど、どうですか?」

 高梨は納得がいかないような、安堵したような微妙な表情を見せながらも、「じゃあそうしようか」と答えた。

 性の教師としてのこの男の役目は終わったのだ、と阿澄は思った。


 帰宅すると、庭の金木犀が今年最初の花をつけていた。

 リビングのソファで、水無斗がチョコレート菓子を食べながら携帯ゲーム機で遊んでいた。

「水無斗、ただいま」

 阿澄は弟の隣に腰を下ろす。菓子を奪われると思ったらしく、彼は菓子の箱を胸に抱きしめて身構えた。

 彼女は弟にほほ笑みかけ、姉ではなく母の手つきで頭を撫でる。口を半分開けた顔が姉を見返した。

 阿澄は水無斗に手を振ってリビングをあとにした。


 天気予報は日本列島に台風が接近していると伝えている。

 阿澄は何日も前から台風のニュースを見ている気がした。台風はこのままずっと南シナ海にとどまりつづけ、最後の審判の日までニュースで取り上げられつづけるのかもしれない。

 セックスは週一回と約束した翌日から、阿澄は体調不良に悩まされていた。常時ほのかに頭痛がして、倦怠感に全身を侵され、胃が重苦しいのだ。

 その日阿澄は、週一で課せられた義務をさぼる意味も兼ねて、最寄りの総合病院で診察を受けることにした。

「先生。今日は病院に行かなきゃいけないから、もう帰るね」

 そう伝えると、高梨はなぜか狼狽した。なにかを恐れているらしいが、何度問い質してもはっきりしない。これ以上顔を見たくなかったので、ごちゃごちゃとなにか言っているのを無視して帰宅した。

 病院で診察を受けたい旨を母に伝え、保険証と金を受けとって家を出る。待合室のテレビでは、ワイドショーの時間帯だというのに、台風のニュースばかり延々と流れていたのが印象に残った。診察室で医師に症状を伝えると、簡単な質疑応答を経て、検査を受けることになった。

 人生経験が浅い阿澄は最悪の未来を想像した。不安と戦いながら、医師や看護師からの指示に従って検査をこなした。

 そして妊娠が発覚した。


 帰り道は風が強かった。南シナ海に長らくとどまっていた台風はようやく重い腰を上げたらしい。それとも、無闇やたらに強いだけの無関係の風なのか。

 たしかなのは、阿澄が胸に抱えている大問題と比べれば、そよ風に等しいということ。

 父が会社から帰宅するのを待って、両親に検査結果を伝えた。事実を隠蔽するという選択肢も頭を過ぎったが、そうするのもなにか面倒くさかった。だから、そうした。

 決断の決め手となったのは、二・三年前に阿澄の自室にゴキブリが出現した一件を思い出したこと。

 不快感が具現化したような醜悪なその昆虫を、彼女は最初無視しようと考えた。しかし生かしておけば、この先ずっと同居する羽目になる。部屋のドアを開け放しておけばいつか出て行ってくれるかもしれないが、出て行った事実をこの目でたしかめないと安心できない。

 だったら退治しようと意を決し、筒状に丸めたファッション雑誌を武器に、死闘の末にゴキブリを始末したのだった。

 種の違いはあるが、人間の場合もそれと同じだ。

 命の種という気持ち悪い虫は、早めに処分してしまおう。早めに処分してしまうに越したことはない。先送りにしたところで、どうせ向き合わなければならないし、戦わなければならないのだから。

 阿澄は打ち明けた。男子児童の前で胸を露出した一件から、高梨と週一でセックスをする約束を交わしたことまで、洗いざらい。

「ようするに阿澄は、その高梨とかいう教師以外とは関係を結んでいないんだな? 今お前のお腹の中に宿っている命は、高梨の子以外に考えられない。そういうことだな?」

 父が念を押すように確認を求めた。娘が話し終え、重苦しい沈黙が場を満たし、母の咳がそれを破った直後のことだ。

 阿澄はたっぷりと二十秒ほど黙考したのち、父の顔を見返してうなずいた。母が不安そうな目で二人を交互に見た。

 阿澄は黙っていた。もう誰とも口をききたくなかった。


 あとになって気がついたが、その日を境に、父は阿澄が生まれた日のクリームパンのエピソードを語らなくなった。

 少なくとも、阿澄の前では。


 それからは猛スピードで進んだ。

 当事者でありながら蚊帳の外に置かれた阿澄に、一時停止ボタンを押す権限はない。いつの間にか乗っていた乗り物の座席に腰を下ろし、目的地に到着するそのときを大人しく待つしかなかった。

 台風がとうとう日本列島に上陸した。相原一家が暮らす街を暴風域に巻き込み、一人の死者も出すことなく太平洋へと抜け、温帯低気圧に変わって人々から永遠に忘れ去られた。

 大人の世界のルールは煩雑すぎて、小学五年生の頭ではとても把握しきれない。具体的にどのような取り決めが交わされたのかは、話し合いに参加していない阿澄は知る由もない。

 たしかなのは、ただ一つ、高梨創介が阿澄と水無斗が通う小学校から去ったことだけだ。


 高梨創介が阿澄のもとから消えてから、彼女が小学六年生の七月を迎えるまでの約九か月間、彼女の記憶はきれいに失われている。


『相原、この交わりで君は私の子を孕んだよ。きっと孕んだよ。愛しているよ、相原』

 阿澄は時おり、二学期の始業式の日に高梨創介とセックスをしたあと、彼からかけられた言葉を思い返した。

 当時の彼女は、そう断言したのは高梨が神だからだと考えたが、彼との関係が終わった今となっては、でたらめだとしか思えない。

 当時はまったく気がつかなかったが、そもそも高梨は断言などしていない。「きっと」という言葉をさり気なく頭にくっつけて、ちゃっかりと逃げ道を残している。

 高梨創介は神ではなく、ただの人間、こらえ性のないロリコン野郎だ。

 人間はやはり、神には生涯で一度しか出会えないらしい。

 台風と金木犀の季節にはまだ遠いが、阿澄は考え込む。考え込まずにはいられない。

 あのとき神は、あたしに向かってうなずいたけど、あたしになにを伝えようとしたの……?

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