2000年3月12日。東京都心のとある高級ホテル大ホールにて。
世界経済を牛耳るメガバンクが一角、王寮銀行主催のその社交パーティには、煌びやかな礼服の裏にさまざまな思惑を隠した何百名もの男女が、己が勝利を掴みとるべく、グラス片手に獲物を探していた。
そんな会場の片隅に設置されたバーカウンター。そこではバーテンダーの青年がゲストのリクエストに応え、色合いも鮮やかなカクテルの数々を提供していた。
注文のピークを捌ききり、合間をみてシェイカーの拭き取りをしていた彼の元に、近づいてくる人影が一つ。
「ねえ、そこのイケメンのマスター。私にも一杯作ってくれるかしら?」
吸い込まれそうほどに鮮やかな赤いドレスに身を包んだ妖艶な女性。彼女は目の前のカウンターテーブルへとその豊満なバストを乗せ、頬杖を突きつつ上目遣いで彼へと注文を入れる。
「もちろんです。何に致しましょう?」
すました顔のまま彼が答えると、女性はわざとらしく意味ありげに笑みを浮かべる。
「そうね。
獲物を捉えた蛇のごとく彼の目だけをじっと見つめ、女性は彼の左頬を右人差し指の腹ですっとなぞる。彼は表情を崩さぬまま彼女の右手を優しく受け止めると、そのまま口元へと運び、甲にそっと口づけをして離した。
「ではお作りしましょう」
彼は先程まで拭いていたシェイカーの内側を彼女へと見せ、そのままテーブルに置くと、慣れた手つきでアップルブランデー・ベネディクティン・レモンジュース・オレンジキュラソーと順番に注いでいく。
「ふふ、紳士的なのね。それとも、私のような
「さて、なんのことでしょう」
悪戯に微笑む彼女の問いかけにも、シェイカーを振る彼のすまし顔は崩れぬままだ。彼女の前に置かれた上品に透き通るカクテルグラスの前に、檸檬色の液体が注がれていく。縁のギリギリまでしっかり注いだそれを彼女の元へそっと滑らせると、彼女はグラスをそっと右手で持ち上げ、艶やかな唇へとそれを傾けた。
「ねえ、せっかくだから隣、来てくれないかしら?」
透き通るような白い肌を酒でほのかに桃に染めた彼女は、開いている隣の席の座面を軽く叩きながら彼をいざなう。
「せっかくのお言葉で恐縮ですが、まだ仕事中ですので」
「こう見えてもここは戦場よ? みーんな自分たちのことで手一杯で、私たちのことなんか誰も見ていないわ」
彼の左頬を官能的にさすりながら、誘惑するように顔を近づけていく彼女。挑発的な距離感を保ちながら、その視線はじっと彼の瞳を捉え続けている。
するとついに誘惑に抗えなくなったか、彼はカウンターを出て彼女の隣へとそっと腰掛けた。
「ふふ。やっと来てくれたわね」
そう妖しく微笑む彼女の腰に、彼の意外とたくましい右手が回される。彼女はそっと彼に体重を預けながら、カクテルのマラスキーノチェリーを摘まみ上げると、そっと彼の唇へと押し当てた。
「お客様。少し飲み過ぎのようですね」
「ふふ。そうみたい。貴男、このホテルの従業員でしょう? もしよろしければお部屋まで。案内してくださらないかしら?」
「もちろんですよ、レディ」
彼のエスコートの手を取り立ち上がる彼女。しかしてそこに覚える強烈な違和感。酔った演技をできるほどには冴えた頭、それに反して異様にふらつき覚束ない足取り。酒の席を戦場とし、武器として扱ってきた彼女に判らぬはずもないアルコールの許容量。
遠のく意識が酒のせいではないことに彼女が気づいたときにはもう遅く、その赤いドレスは絨毯のように床へ拡がることとなった。
「お客様!? お客様!?」
何事かと続々と集まる野次馬と、必死の形相で声かけを続けるバーテンダーの青年。顔面蒼白に倒れ伏したその女性からの反応は無い。
「すみません! 私はAEDを取ってきますので、どなた様か心肺蘇生と救急車をお願いします!」
野次馬へと的確な指示を下し、ホールを出て廊下へと向かう青年。それっきり、彼が戻ってくることはなかった。