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第13話 遂に来た! 恐れていたあの瞬間!

 おぞましい囁きだった。

 あまりのことで震えが止まらない。そんな南月のことなど無視し、男は服の下へ手を差し込んできた。男は本気だ。このままでは、本当に体を奪われる。南月が死に物狂いで体をよじり、声にならない悲鳴を上げた時だった。

「離れろ!」

 雷鳴のような声が聞こえた。

 怒気と殺気に満ちた声がしたと同時、自由になった。

「!」

 天黒だった。

 男の髪を背後から鷲掴みにし、その腕を背側へねじり上げて廊下へ引き摺って行く。

 そして、オフィスの外へ突き飛ばした直後、だった。

 ガシャンッ! と、激しい音が響き渡った。

 天黒が入口の扉を蹴り飛ばしていた。革靴が扉にめり込んでいる。扉は見事に変形し、はめ込み式のガラスも無惨に割れていた。

「……なんの用だ」

 腹の底に響く冷たい声だった。

 かろうじて転倒を避け、なんとか立ち上がった男は、一瞬、怯んだ表情になった。だが、すぐに不遜な顔に戻ると、スーツの乱れを直す仕草をしながら鼻を鳴らした。

「可愛い弟が立ち上げた小さな会社の経営状態が心配でな。新たに社員を雇ったとなれば、経費もかさむ。ひとつ大口の仕事を紹介してやろうと思って来てやったんだ」

 一度言葉を切った後、男はニヤッと唇の端を持ち上げた。

「色々な意味で『優秀』な社員のようだ。握らせる手当ても永江の比ではないだろう?」

 ククッと喉を鳴らす男を静かに見詰めていた天黒がゆっくりと踏み出した。砕けたガラスを踏みしめる音がする。

「……」

 距離を詰めた天黒は無言で男の胸ぐらを掴んだ。グイッとその体を自分の方へ引き寄せる。

 男の耳元に天黒の顔が近付いた。

「――二度と、来るな」

 唇が触れる近さで刃の鋭さを秘めた言葉を送る。

「……」

 充分な間の後、鮮やかな青の視線を交わらせて念押しし、天黒は男の胸元をドンッと押した。

 続いて言葉を失ったままの男に顎をしゃくって見せた。階段は後ろだ。

「……フンッ! 兄に対して随分な真似をしてくれるじゃないか。偉くなったものだな」

 男は怒りに満ちた目を向けてきたが、睨み合いで、分の悪さに気付いたか。

「仕事を紹介してやれる状況ではないな。……実に残念だ」

 咳払いを残して男は踵を返した。振り返ることなく階段の向こうへ消えていく。

 その足音が完全に聞こえなくなってから天黒は南月に駆け寄った。

「稲美、稲美!」

「いやです……いや!」

 南月はまだパニック状態だった。

 頭が痛い。

 息ができない。

 唇も、手も、足も震えが止まらない。

「稲美!」

「いや、いやいやいや!」

「稲美、稲美、稲美!」

「たすけ、てっ、お願い! いやです! いや、いやいやいや!」

 頭の中を駆け巡る忌々しい記憶――。

 全身の感覚までそれに支配されていて、なにも聞こえない。

 恐怖と絶望の海で溺れる。溢れ続ける涙で頬を濡らしながら、南月が叫びかけた時だった。

「南月!」

 空気がビリビリと震えた。

「……っ……」

 南月の動きがピタリと止まった。

 自分を見下ろしてくる視線を正面から受け止める。慈愛に満ちた目が見えた。

「南月、もう大丈夫だ」

「……しゃ、ちょ……」

「大きく息を吸え。そして、ゆっくり吐くんだ。あぁ、そうだ。もう一度、吸って、吐く」

 鮮やかな青の目に操られるように息を吸う。

 促されるがまま深呼吸を繰り返すと、乱れた心が徐々に落ち着きを取り戻した。

「兄の凶行を謝らせてくれ。申し訳ない」

 天黒が頭を下げた。

「二度と近付かせないと約束する」

 そう言った天黒の手が動いた。しかし、行き場に迷うように揺れ、元の位置へ戻っていった。

「大丈夫か?」

「……は、はい」

「今日はこのままオフィスを閉める」

 南月がコクンと頷いたのを見てから、天黒はパーティションの方へ歩きだした。振り返ることなく社長のスペースに収まり、そのまま静寂が続いた。

「……」

 南月は自分の席に座り、キュッと胸の前で手を握りしめた。

 酷い目に遭った。だが、それ以上に脳に焼き付いたのは……。

 南月!

 混沌と狂乱を打ち破る鋭い矢のような天黒の声だった。

「……」

 雑音全てを一瞬で消し去る声が頭の中でこだましていた。

「しゃ、ちょ……」

 パーティションの方を見た。影が見えた。もう、普通に仕事をしているのだろうか。

 素っ気ないし、よそよそしさを感じるくらい距離がある。でも、いつも見守ってくれていて、必ず助けてくれる。

「社長――」

 軽い痺れのような、むず痒さのような、不思議な感覚が胸の辺りを這う。迷うように視線をさまよわせ、パーティションに近づくかどうか、躊躇していた時だった。

 不意に、視界が揺れた。

「……?」

 胸の奥で心臓がドクンと大きく拍動した。

 ふわりと体が浮くような感覚に襲われ、思わずデスクを掴んだ。

「か、体が……」

 体の奥から指先に向かって波が起こる。繰り返される波に洗われるに従い、体温がじわじわと上がるのを感じた。

 熱が広がるのと同時、腹の奥に違和感が生まれた。呼吸が浅く速くなり、四肢から力が失われていく。デスクに倒れ込んだ南月の腕が当たってペンや書類が床に散乱した。

「大丈夫か!」

 天黒が駆け寄って来た。しかし、その足音が止まった。続いたのは、掠れた声だった。

「……発情、か?」

 聞こえた言葉に南月は目を見張った。背筋を冷や汗が伝う。

 そうだ。この異変は一度だけ覚えがある。初めて発情が起こった日だ。あの日も同じような異変が唐突に訪れた。

「どうし、て……もう、ずっと……起こってなかったのに……ちゃんと……飲んで……」

 抑制剤で周期はコントロールできていたはずだ。それなのに、なぜ――。

 驚きと焦りで頭の中が真っ白になった。

「どうし、て……どうして……」

 自問を繰り返しても発情は治まらない。体は容赦なく熱を帯び、湧き上がる衝動が強くなった。浅く速くなる呼吸も艶めいてきて、服が触れただけでピクンと反応してしまうほど肌が敏感になってしまう。

「間違いない。発情だ」

 聞き慣れた天黒の声がやけに魅力的に聞こえた。さらに、天黒がまとうアルファ特有の圧倒的な存在感に体が反応してしまう。

「すまない……。これには……、俺も耐えられそうにない」

 絞り出すような声だった。

 続いて聞こえたのは、誰かと電話で話す声だ。「部屋を」とか「すぐに行く」とか。そんな言葉が途切れ途切れに聞こえた。

「……南月」

 抱き上げられ、名を呼ばれた。間近にある目は美しい青だった。

「……社長」

 自分を抱き上げるのはアルファだ。だが、なぜだろう。恐怖心はなかった。

 しばらく見詰め合った後、その胸に顔を埋め、目を閉じる。この後、どのようなことが起こるのか。オメガの体は分かっていた。

 数分後、南月は社長専用車の助手席で天黒のジャケットに顔を埋め、強烈で官能的なアルファの香りに酔い痴れていた。

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