仕事は毎日、定時上がりだった。
社長は早めに帰るし、永江も待ち構えていたように「帰るわよ」と定時で上がるので、南月も心置きなく退社できた。
まだ明るいうちに保育園に続く狭い坂道を登る。対向車とすれ違うタイミングを見計らいながら進み、畑の端に並ぶ駐車スペースに入った。
「あ~! 早紀ちゃんと早保ちゃんのママが来た!」
「えぇ~! これからお外なのに!」
「じゅんばんこですべるんだよ」
園の門をくぐると、賑やかな声に迎えられた。迎えに来たというのに「帰りたくない」という声に苦笑してしまう。
園庭の遊具に向かって駆けだして行く子や靴を履こうとしている子達が見えた。早紀と早保は年長のお姉さん達に囲まれて、お嬢様よろしく靴を履かせてもらっていた。
「すこしでいいから、いっしょにあそんでいい?」
「えんてい、ひろくなったんだよ!」
「あたらしいゆうぐ! きょうからあそべるようになったんだ!」
ちゃんと親の許可を得てから遊びに連れだそうとする姿がほほえましかった。早紀と早保も遊ぶ気満々なようで、南月ではなく滑り台を見詰めている。
「いいよ。少し遊んでから帰ろう」
「やったぁ!」
素晴らしい瞬発力だった。
オーケーをもらった直後、年長の子ども達が一斉に園庭へ駆けだして行く。早紀と早保も後に続いた。
可愛い背中を目で追っていると、意外な光景が見えた。
「……社長?」
以前の三倍の広さになった園庭で遊ぶ園児達の中に天黒が居た。ネクタイを外していて、子ども達に手を貸したり励ましたりしている。
「いつも早く帰るのは……開発先に足を運んでいたんですね……」
遊具は二、三歳くらいの子どもが楽しめる小さな滑り台から、就学前の子ども達が思う存分体を動かせるアスレチックまで、幅広い年齢層を対象としたものが設置されていた。天黒は子ども達の様子を通して、完成度を確認しているようだった。
「あ……」
天黒が小さな滑り台に近付いた。ちょうど、早紀が滑る番だった。早紀は滑り台の上で両手を広げている。下で待つ天黒も手を広げた。満面の笑みで早紀が滑り降りた。飛び出さないように天黒が受け止める。早紀はキャッキャッと声に出して笑っていた。
私も! と言わんばかりに早保も続いた。
「みんな、あんなに夢中になって……。遊具にも……、社長にも――」
親が来ていても見向きもしないで遊びに没頭する姿を南月は目を細めて見詰めた。
視線の先の天黒は、階段を上がる園児を後ろから見守り、無事に登り切ったのを確認してから、前に回る。そんなことを繰り返していた。
ふ、と。
子どもの動きを追う天黒の目と、様子を見詰める南月の目がぶつかった。
「あ……」
南月の口が小さな驚きを零すのと同時、天黒の表情も一瞬、揺れた。
なんとなく照れくさかったが、天黒も同じだったか。
ぎこちない会釈を交わした後、南月は落ち着かない笑顔を浮かべて視線を外した。そして、そそくさと教室に入った。双子の棚の前に座ると、着替えやオムツのストックなどをチェックした。服をたたみ直したり、オムツをきれいに並べたり、いつもより丁寧に棚を整えてからかばんを取る。
ゆっくりと戻った園庭には相変わらず楽しそうな声が響いていた。
夢中で遊ぶ双子に向かって歩いていると、園長が天黒に声をかけているのが見えた。
「園庭をこんなに素敵にしてくださり、ありがとうございました」
「いえ、喜んでもらえて嬉しいです」
子ども達に「遊んで!」と囲まれている天黒は照れたような笑みで頷いていた。
「主人が山を手放すと言い出した時、とても不安だったんです。しかも、社長に相談してすぐに全部買い取られてしまいましたし……。あの時は正直、戸惑いました。それが、保育士が倍に増え、園庭が広くなり、駐車場拡張工事も始まって、困っていた裏の空き家の修繕まで。社長の有言実行ぶりと、その速さ、そして優しさには感謝しかありません。入院中の主人に代わり、お礼を言わせていただきます」
深々と礼をする園長に、子ども達が「どうしたの?」と尋ねていた。「この方が園庭を広げてくれたんだよ」と園長が答え、子ども達が一斉に「ありがとう!」と言った。天黒はさらに照れて、顎の辺りをさする手を止められなくなっていた。
「この山は、主人と出会った場所で、一緒に子育てした場所。自分達の生きた証をなにか残そうって話をした山なんです。息子に相続を拒否され、売ると決めた時は悲しかったけれど、社長にお譲りして良かった。心からそう思います」
天黒は口元を手で隠したまま、何度もうんうん、と頷いていた。少しくらい「俺が作った」と胸を張っても良さそうなものなのに、謙虚なのか、シャイなのか。
オフィスでは見られない天黒の一面が見られて、南月は含み笑いを漏らしてしまった。