南月のデスクは既に準備されていて、専用のパソコンはもちろん、文具や名刺も揃えられていた。
「ありがとう……ございます」
名刺には会社のロゴが入った革製のケースが添えられているし、まだまだ判子文化が根強い会社勤めで便利なネームペンもロゴ入りだった。社員証を首から提げながら胸ポケットにペンを差していると、なんとなく嬉しくなった。
労働契約書など、入社時に必要な書類を永江から受け取っていると、天黒が近付いて来た。コーヒーカップを持っている。南月より頭ひとつ分上背があるため、近付かれると思わず身構えてしまう。それに気付いているのか分からないが、天黒は少し離れた場所で足を止め、デスクの端にそっとカップを置いてくれた。
「朝のコーヒーだ」
「あ、ありがとうございます」
「まず、九時から朝礼だ。まぁ、朝礼と言っても堅苦しいのは無し。コーヒーを飲みながら連絡事項や来客・外出予定などの情報共有をする」
「はい」
「今日は、午前と午後で合計七組だったか?」
天黒が永江に話を振る。永江はパソコンの画面を見ながら頷いた。
「えぇ。四組が新規の方ね」
「朝礼で確認・共有する情報だが、業務で利用するシステムに入力してある。まず、そのシステムの使い方を説明しよう」
南月のデスクの脇に天黒が腰を下ろした。それを見ながら南月は戸惑うような様子を見せた後、遠慮がちに口を開いた。
「お願いします。でも、……あの」
「なんだ?」
南月はコーヒーカップを手にしながら、上目遣いに天黒を見た。
「こ、この会社って……社員さんは……」
「永江君と君の二人だ」
「えぇ?」
思わず本音が出た南月を見て、永江が声に出して笑った。
「驚いた? このオフィス、できたばかりなの。本社から独立して法人化したのが四か月くらい前ね」
「よ、四か月……?」
「あぁ。今後、必要なら社員を増やしていく」
南月を雇っただろう、と言わんばかりに天黒が口を挟んだ。
「こ、これから、なんですね……」
天黒は静かに頷いている。永江はフフフと笑いながら明るい声で言った。
「不安になっちゃった? 大丈夫よ。利益が出ない事業なら法人化しないわ。それに、社長は本社の社長や副社長より優秀だから大船に乗った気分で働いて!」
明るく言う永江の言葉に対し、天黒が軽く咳払いをした。能力を比較することをやんわりと止めるような咳払いだった。
永江が「あっ……」と小さく声を漏らし、ペロッと舌を出した。
上司と部下の関係が良い意味で近いし、咎め方も柔らかだ。穏やかな社風を垣間見た南月はホッとしたような笑顔で「はい」と答え、コーヒーに口を付けた。
そんな南月の様子を見た後、天黒が説明を始めた。
「まず、パソコンを起動させよう。システムは自動的に起ち上がる。まず、ログインしてくれ。IDとパスワードは……コレだ」
前の会社では「マニュアル」を渡されただけで全て手探り。誰にも聞けず、それでいて即戦力になることを求められた。だが、天黒はひとつずつ丁寧に教えてくれる。そのこと自体が新鮮だった。
「ログインしたら、ここを見てくれ」
「はい」
効率的でシステム化が進んだオフィスだった。席に着いてパソコンを起動させれば自動でシステムが起動。カメラで顔が認識され、出勤記録が残るようになっていた。
「日常的に使用する画面はこれだ。ここからマニュアルを閲覧できる。困ったら、まず、ここを開けばいい」
「はい」
個人スケジュール、メーラー、連絡用掲示板、プロジェクト、メモなど。画面は分かりやすい構成で、会社全体で共有すべき情報や、仕事の進捗状況が見えるようになっていた。画面の中のどこになにがあるのか、それを覚えればすぐに仕事に取りかかれそうだった。
「今、受けている相談の内容を記録してあるから目を通しておいてくれ。今日、相談に来る客の案件もある」
「分かりました」
「使い方や分からないことは遠慮無く聞いて欲しい」
「ありがとうございます」
安心して働ける場所――。
そんな風に感じられ、南月の緊張はスゥッと解けていった。
天黒コンサルティングオフィスは、その名の通り不動産に関する相談を受ける事務所だった。不動産投資の相談や、相続で問題になっている土地の処分方法に関する相談、価値が上昇している土地の購入に関する相談など、様々な背景を負った人々が相談に来ていた。
電話などで聞き取った相談内容によって、永江が担当になることもあれば、社長の天黒自ら相談に乗ることもあり、弁護士が同席することもあるらしい。
南月も不動産鑑定士の資格を持っているので専門家として相談に乗ることが可能だが、実務経験がないので実際の事例を頭に入れていくところからスタートだった。
南月が相談事例の記録を読み始めた時に予約客が訪れた。午前中の客は永江の担当だった。
天黒がコーヒーを淹れたり、資料を準備したりサポートしている。社員が少ない分、社長も全ての仕事に携わるスタイルらしい。
自分の席に座っていながら、南月は全身の神経を耳に集中させた。不動産の相談と言っても、相談内容によって必要な知識は様々だ。独りで相談を受けられるようになるまで時間がかかりそうだった。
全く違う相談内容が昼までに三件続いた。それに対応した永江は大きく伸びをして溜め息を吐いた。
「うぅん……、やっぱり相続に関する相談が一番大変ねぇ」
複雑な表情で永江が言った。それを見ながら南月は小さく頷いた。
「いろんな考え方の人が居ますね」
「残された土地に関係する人が、みんな同じ考え方なら方向性も定めやすいんだけど。そうならないから、相談に来るのよね」
手元の資料を見ながら永江は再び溜め息を吐いた。後ろに立つ天黒が小さく頷く。
「この案件は確実に揉める。早々に弁護士と税理士に介入してもらった方がよさそうだな」
「そうねぇ。じゃぁ、依頼打診の書類を作りましょうか。あ……、でも……、郵便局の当日発送、間に合うかしら」
時計を見て永江が首を傾げた。
「あ、あの! 僕が行きます。動けばできる仕事ならなんでも! 動くことくらいしかできませんし……。ファストレターパックを買って窓口で出せばいいんですよね」
「そうね。私はまだこんなだし。健康な若者にじゃんじゃん動いてもらいますか!」
永江は笑顔だし、天黒も視線を外して笑いを一生懸命抑えていた。思い出し笑いのような、柔らかな笑みだ。
「じゃぁ、まず、そこの料金後納の郵便物を出して、ファストレターパックを二十セット買ってきてくれる? 帰りに郵便局裏手のパン屋さんでサンドイッチを買ってきて。電話で注文しておくから受け取るだけでいいわ」
「はい!」
南月は笑顔で返事をすると、郵便物を大きな紙袋に入れるなど、出掛ける準備にかかった。
やることが分かれば、即動く。永江に郵便局や店の場所を教わると、天黒から社用車の鍵と現金の入った袋を受け取った。
「社用車はビルの向かい側にある月極駐車に止まっている。ナンバーはキーに付けたタグを見れば分かる」
「分かりました。では、行ってきます」
「あぁ、頼む」
間近で見るとやはり圧迫感がある。南月がオメガだから特別強く感じてしまうのかもしれないが、五感全てに働きかけてくるものを受け止め切れず、南月は鍵を持つとすぐに身を引いた。
「気を付けてね~」
永江の言葉を背中で聞いた南月が外へ出た後、天黒がポツリと呟いた。
「動けばできる仕事……。動くことしかできない……か。昔、聞いたことがある台詞だな」
「はい? 社長、なにか?」
「いいや。なんでもない。笑顔と挨拶が気持ちの良い社員を雇えたな、と思って」
「人選能力を自画自賛ですか」
永江の言葉に笑みを返した天黒は、窓の外に目を向け、社用車に向かって駆けていく南月の背中をじっと見詰めていた。