職場までは車で約十五分。オフィス街の一角にある十階建てのビルがそうだ。地下に駐車場があり、スペースが確保されていると聞いている。
「おはようございます」
駐車場の管理人に笑顔で挨拶し、ビルの清掃員や、一階のエントランスにあった総合案内所の人にも挨拶を向けてから、南月は二階を目指した。
「天黒不動産コンサルティングオフィス……」
緊張する。
出勤はスーツでなくていい、と言われた。
迷った挙げ句、ベージュのパンツに白シャツと濃紺のジャケットを選んだ。髪は特にセットせず、ふんわりとした自然なミディアムボブスタイルなので、堅苦しくは見えないだろう。
階段を一歩ずつ踏みしめて登る。すると、階段の踊り場を過ぎた所から、無機質な風景が一変した。クリーム色の壁になり、足元も木目が美しいフローリング調の床に変わった。
階段を登り切ると、来訪者を出迎えるように美しい緑の観葉植物が配置されていた。その近くに「天黒不動産コンサルティングオフィス」という社名プレートが掲げられていて、洒落たドアが開けられていた。
「……おはようございます」
そっと中に入って挨拶をした。フロア全体がオフィスになっていた。
「あぁ、おはよう! 入って入って」
出迎えてくれたのは永江だった。スーツではなく、いわゆるきれいめカジュアルというスタイルで、まだ松葉杖をついている。
「双子ちゃんは元気? あなたも随分、顔色が良くなったわね!」
「お陰様でゆっくりできました。子ども達も元気に保育園に通っています。ありがとうございます」
「安心して! あっちの退職は無事に済んでいるし、こっちの手続きも完璧! やっぱり餅は餅屋。弁護士に任せるとスムーズよね」
中へ案内されながら南月は相槌を打った。
不意に永江が頭を低くしたので、南月も反射的にそれにならった。
「アッチの方なんだけどね、多分、もう少しで一斉に摘発されると思うわ。役員は当然のこと、見て見ぬ振りした管理職や、甘い汁を吸っていた社員も全員、法の裁きを受けることになるはずよ。今までどれだけの人が搾取されて、泣かされてきたかを思うと……ね! 早くケジメを付けてもらいたいわ!」
「……」
「区切りが付いたら、あのビルはしっかり清掃・お祓いをしてもらって仕切り直し。あ。あっちの棚、自由に使ってね」
「は、はい! ありがとうございます」
「素敵なオフィスでしょ。お客様が多いから観葉植物多めで、明るい茶系ウッド家具が美しいカフェ風な内装にしてあるの。廊下も見た? 滑らない床に変えてもらったのよ」
永江は自分の足を示しながら笑った。
「滑らないって……」
「そうなのよ。コレなの、コレ。大雨の日にツルッと滑ってズデデデデって豪快に階段から落ちちゃってね」
「え、えぇぇ!」
「社長が即、滑らない床に加工してくれたの。お客様も危険だからって。ついでだから見栄えも良くしてもらったのよ。さぁ、中を案内するわね」
荷物を置くと、松葉杖をつきながら永江が奥へ歩き始めた。
「あ、そうだ。忘れないうちに……。はい、これ、お菓子。外へ行った時に社長が色々買ってきてくれるの。仕事の合間に適当に摘まんでね」
小さな紙袋を三つ渡された。え? と南月が目を瞬いていると、永江がフフフと笑った。
「双子ちゃんの分は持って帰って。あ、卵大丈夫? 焼き菓子なの」
「あ、ありがとうございます! はい、大丈夫です!」
「良かった。じゃぁ、オフィスの案内に戻るわね」
入ってすぐの場所に丸い木製のテーブルが並んでいて、相談エリアになっていた。空間を区切る観葉植物を挟んで事務スペースがあり、反対側にステンドグラス調のパーティションに囲まれたエリアがあった。
「あそこは社長のスペース。社長、稲美さんが出勤しましたよ~」
「あぁ、おはよう」
パーティションの向こう側には重厚な木製のデスクと革製のチェアが据えられていて、天黒が居た。既に仕事中らしく、パソコンとタブレット端末を操作しながら挨拶だけを寄越した。
今日も無地のスーツ姿で、チラリと覗く柄物のネクタイがいいアクセントになっている。
「い、稲美南月です。よろしくお願いします」
今更という気もしたが、勤務初日だ。デスクに向かう天黒に向かって頭を下げてから、永江の後に続いた。
社長用スペースの奥には、ミーティングルームと休憩室、そして、巨大な模型が置かれた部屋があった。
「凄いでしょ。この街の模型よ」
「すごく……精巧な作りですね」
「街の開発をしながら、完成した施設を盛り込んでいくの。ほら、あそこ。松山寺の所、保育園があるでしょ?」
「あそこは……準備してくださった保育園ですね」
「そう。実は先月、園長……えっと、今の園長のご主人が『山を手放したい』って相談に来たの。年齢が年齢で山の管理が難しくなってきた上、十年ほど運営してきた認可外保育園は赤字続き。病気も見付かって入院することになって、どうすればいいか、ってね」
「……そうだったんですか」
「そんな時にあなたに会ったもんだから、社長は『もうやるしかない』って。山ごと認可外保育園の経営権を買い取って、保育士さん達を募集して再スタートしたのよ」
「や、山ごと買い取り……!」
「そう。向こうもそれを望んでたし、丸ごと買った方が自由に開発できるから。これから園舎と園庭を広げるわ。駐車場も整備して、道路も市と話し合って拡張する予定。その後は、バスを通して人の流れの基礎作りね」
模型を示しながら永江が語る。その声は天黒にも聞こえているはずだが、顔を出さないし、居るかどうか分からないくらい静かだ。
「保育園の裏にある空き家もリフォームがスタートしてるのよ。お総菜屋になるわ」
「お惣菜屋、ですか?」
「園長の妹さんが経営したいって。保育園の隣のお総菜屋なんて、繁盛間違いなしよね。絶対、帰りに買っちゃうでしょ?」
「確かに……」
「山を起点に新しい人の流れを生み出すの。模型が少しずつ華やかになっていくって、楽しみじゃない?」
「は、はい!」
ねぇ、社長、と永江がパーティションの向こう側へ声を掛けたが返ってきたのは「あぁ」というそっけない答えと、不自然な咳払いだけだった。
「もう、社長ったら。この模型は社長の夢なのよ。構想が頭の中にあるはずなんだけど、あまり話してくれないのよねぇ。夢を語るのが恥ずかしいのかしら?」
永江はフフフ、と笑うと「仕事にかかりましょうか」と席へ戻った。