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第6話 穏やかなまどろみの日々

 天黒と出会って十日――。

 南月は、文字通りの三食昼寝付き生活を愛娘達と堪能した。

 準備してもらった食事を摂り、愛娘達とお絵かきをし、TVやDVDを見て、絵本の読み聞かせをする。一緒に昼寝をするし、夜も九時には就寝した。

 夫を亡くした後、馬車馬のように働き続けてきた南月にとって、この十日間は夢のような日々だった。

 充実した療養を終えてから入ったマンションも素晴らしかった。

 部屋は以前とは比べものにならないくらい広く、ソファや大きな壁掛けTVといった新たな家具が増えていた。ただ、引っ越し屋が以前の部屋の状態を可能な限り再現してくれていたお陰で、初日から迷うことなく生活することができた。

 広くて温かい風呂と、柔らかくて包み込まれるようなクッションがあるソファは、南月と双子のお気に入りの場所となった。

 そんな新しい生活が始まって数日――。

「今日から出勤です。護さん、いってきます!」

 線香の香りの中で南月は夫の遺影に向かって手を合わせた。双子達も小さな手を合わせてちょこんと頭を下げる。そんな様子に笑みを向けてから、南月はスクッと起ち上がった。

「さぁ、行こう。今日もいっぱい遊ぼうね」

 笑顔で頷く双子の手を引いてエレベーターを降り、エントランスに向かう。今朝もスーツ姿のコンシェルジュが礼儀正しく頭を下げてくれた。

「おはようございます、稲美様。お車は前に回しております」

「いつもありがとうございます」

 コンシェルジュというサービスはとても便利だった。荷物の受取や買い物の代行を頼めるし、ひと声かけるだけでマンション内にある共用設備の利用準備が整い、時間を伝えておけば車もマンション前に回してくれる。

 ただ、南月は「様」と呼ばれることに慣れておらず、自分でできることを人にお願いするのが苦手だった。とはいえ、双子を連れた朝は、大変ありがたい存在だった。

 何度も頭を下げてマンションを出る。マンション前のロータリーは屋根付きで、雨が降っても濡れないのが良い。こんな恵まれた生活が送れるなんて、つい半月前には思いもしなかった。有り難みを噛み締めながらエンジンをかけた。童謡に合わせて二人が手を叩くのを聞きながら保育園へ向かう。

 天黒は本当に保育園を準備した。マンションから車で十分ほどの場所にある、山の上の保育園だった。

 園児は全部で五十人ほど。自然の中でのびのびと遊ぶことで心身の発達を促し、年齢の垣根を設けず集団生活することで思いやりの心を身につけるという園だった。

 小さな園舎の横に車を停めると、二人は小さな手でシートベルトを一生懸命引っ張っていた。

「はいはい。今、外すから。あ、ちょ、ちょっと待って!」

 車から降りると二人は南月の手をグイグイ引いて走り出した。

 たった三日の慣らし保育ですっかり園が気に入った二人。前の保育園では見られなかった積極的な様子に喜びを感じながら南月は今朝も軽やかな足取りで保育園の門をくぐった。

 すぐに保育士が近付いて来た。

「おはようございます。早紀ちゃん、早保ちゃん、今日も編み込んでもらった前髪、とっても可愛いねぇ」

 誉められた二人は嬉しそうにリボンに触れた。

「あ、早紀ちゃんと早保ちゃんが来た!」

 保育士に続いて、年長の子ども達が駆け寄ってきた。

 彼女達は初めて出会った双子の虜になっていた。通い始めた初日から「靴を脱ごう」「荷物を持って行こう」「連絡帳にシールを貼ろう」と甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていた。今朝も慣れた様子で教室の中へ誘導してくれる。その背中を見ながら南月は保育士に挨拶した。

「朝食もしっかり食べました。体調も大丈夫です。よろしくお願いします」

「分かりました。お預かりします」

 保育士は今日も優しい笑顔だった。その胸元には「心理発達相談員」というプレートが付いていた。

 保育園には、言語聴覚士や作業療法士、理学療法士といった発達の専門家が揃っていて、他に類を見ない体制だった。

「気になることがあっても、二歳では個性なのか留意すべき特性なのか、判断は難しいというのが正直なところです。でも、安心してください。とるべき対処法は簡単です。特別な訓練を頑張るのではなく、全ての子ども達に必要な『五感を刺激する遊び』を楽しむんです。遊びを通し、注意しないといけない点が見えてきたら、どんな特性なのか見極めて、必要なサポートを考えましょう」

「保育園・親御さん・お子さん、この三者はひとつのチームです。不安な事や心配な事はどんどん言ってください。皆で成長していきましょう」

 入園手続きの日にもらったこうした言葉が南月の心の支えになっていた。

 安心して預けられる――。

 そう思える保育園だった。

 園児達の楽しそうな声を背中で聞きながら再び車に乗り込んだ。そう。今日は二週間の療養が終わり、初めて出勤する日だった。

「さぁ、行きましょう」

 自分を鼓舞するように言うと、エンジンをかけた。

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