病室は、本当に特別な部屋だった。
クイーンサイズの電動リクライニングベッドに、簡易キッチン、ダイニングセット、応接セット、車椅子でも入れる化粧室、ミストサウナ付きバスルーム、そして会議室まであった。南月が双子と一緒に住んでいたアパートよりずっと広いし、内装も高級感があって美しい。政府関係者や要人が使う部屋だ、と永江から聞き、南月は目を丸くした。
「いろいろ事情がある場合、こういうところの方が都合が良いのよ。それに、社長のお父様、えっと、親会社の社長も体調崩したらいつもココだし、天黒不動産は常連みたいな感じだから気にしないで」
本社の副社長・お兄様も結構色々あってココに潜伏することがあるのよ、と永江は声を落として言った。そんな話を聞いて良いのか、と南月がドキドキした時、天黒が戻って来た。
「お帰りなさい~」
明るい永江の声に迎えられた天黒は、そのまま湯を沸かし、箸や皿、お茶、お吸い物といった準備を始めた。南月が思わず身を乗り出したが視線で制された。永江はニコニコと笑顔のままテーブルが整うのを待っている。
「さぁ、いただきましょう!」
ほらほら、と永江に促され、南月は恐々としながらベッドを降りた。
双子が眠っているのを確認してからダイニングテーブルにつく。そこには、ウニや本マグロ、トロといった豪華なネタをはじめ、イサキやシャコなど、なかなか珍しい寿司が並んでいた。見ているだけで心の食欲が満たされていく。
「遠慮しなくていいのよ。会社の福利厚生の一環だと思って」
まるで自分が買ってきたかのように言いながら永江がウニを頬張った。遠慮もなにもない姿につられ、南月も箸を延ばす。天黒に向かって「いただきます」と頭を下げてからシャコを口に入れた。
「お、美味しい……」
自分のために用意された寿司――。
それを思うだけで胸がいっぱいになるのに、味も良いから堪らない。
「こんなにゆっくり食事するなんて……久しぶりです」
「乳幼児を抱えている間はまともに座って食事、しかも熱い物なんて絶対ムリよね。パンとか白飯とか。とにかく何か腹に入れば万々歳って感じだったわ。ほら、しっかり食べて!」
ネタが美味いのは当然のこと、シャリも絶品。口の中でホロリと崩れ、ネタの味を引き立てつつ喉の奥へ滑っていくシャリなど初めてだ。いくらでも食べられそうなほど美味かった。
「育児とフルタイムの仕事……。よく独りで頑張ってきたな。色々あったと思うが、ここでリセットだ。優秀な弁護士が処理を全て引き受けるから安心してくれ。彼等は守秘義務を絶対に守るし、問題があれば俺が動く。今は自分のことだけを考えて休め」
テーブルにはついているものの、あまり箸を延ばしてこない天黒の言葉は耳に心地良かった。
初めて会った人達なのに、この温かさと安心感はなんだろう。熱いものが込み上げてきて、ホロリと頬を伝うのを感じた。
「あ、ちょ、ちょっと! な、泣かないで。ほらほら。お寿司がしょっぱくなっちゃうわ」
慌てる永江の横で、天黒がそっとボックスティッシュを差し出してきた。まともにそちらを見ることもできず、南月はしばらく両手で顔を覆っていた。
「……ありがとうございます」
やっとの思いで礼を言った。
だが――。
「あ、あの!」
南月はハッと顔を上げた。
大事なことを忘れていた。
そう。今、南月は働けない状況だ。それを思い出した南月は表情を硬くした。
「あの……、手を尽くしていただいたことは本当に嬉しいのですが……」
「が?」
「僕は……貴社で働くことができません」
涙を拭った目で天黒を真っ直ぐに見詰め、続いて永江の顔を見てから南月は言った。
「申し訳ありません」
箸を置き、頭を深々と下げた。
「理由を聞かせてもらえないか?」
先に口を開いたのは天黒だった。断られたというのに、その声はとても落ち着いている。
「そ、そうよ! 理由を教えて! うちとしては、あなたみたいに優秀な人材を『はい、そうですか』って簡単に手放したくないの」
「ゆ、優秀って……?」
「え、あ、あぁぁっ。いや、その……ごめんなさい」
永江が「しまった」という顔をしていた。失言が多いタイプかもしれない。だが、それを責めることなく静かな声で天黒がフォローする。
「就活の時、オメガ専用の人材紹介サイトに登録しただろう? あれは天黒グループの会社だ。データが削除されていなかったので、学歴や資格の情報を見ることができた」
「そ、そうなのよ! あなた、一体、いくつ資格を持ってるの? 相当な知識量よね。秘書検定もCBS資格まで持ってるでしょ?」
「あ、いえ、まだCBSは……準CBS資格までです」
「え~と……、似たようなものよ。TOEICも九百点超えてるし」
「資格は持っていても僕には実務経験がないですし、社会経験も浅いので……」
褒めちぎられて焦ってしまい、自らの欠点を口にする南月だったが、天黒はそれをサラリと流してしまった。
「経験は採用してから積ませればいい」
「……」
「基礎的な知識を持つ勤勉な人材は貴重だ。ぜひ、手に入れたい。会社はそのための努力を惜しまない。働けない理由を聞かせてもらえないか?」
改めて問われ、南月はキュッと口を結んだ。そして、ベッドですやすやと眠る双子を見た。話してしまうと、全てを認めてしまうようで怖かった。
「……」
視線を双子から天黒に戻した。しばらく迷ってから南月は小さく頷いた。
「実は……今日、保育園から退園するように言われたんです」
「え? 退園? そんなこと言われるの?」
「その……あの子達の発達が問題で……園では手に負えないと言われました」
「えぇ! 手に負えないってどういうこと?」
永江が大袈裟に驚いた。だがすぐに口を押さえ、眠っている双子を見遣る。二人が静かに眠っているのを確認してから声を落として言った。
「とっても良い子だったわよ? あなたが検査に行っている間、ここの部屋でずっと一緒に居たけど、お絵かきは上手だし、TVを見ながらかわいく踊るし、トイレだってちゃんと行ったのよ。途中、ママが恋しくて泣いちゃったことはあったけど……。ソファに座った社長の左右にちょこんと座って絵本を一緒に読む姿なんて、雑誌の見開きを飾ったっておかしくないくらい愛らしいものだったんだから!」
ほら、と永江がスマホを差し出して来た。何枚も撮影したらしく、南月が気を失っていた間の様子がよく分かった。
「あ……、勝手に撮ってごめんなさい! あまりにかわいくて……。でもでも、横分けした前髪を上手に編み込んでリボンまで付けて! 忙しい朝に双子ちゃんにそんなことまでしているママになんて酷いことを! あの子達が手に負えないなんて、その保育園、大丈夫?」
永江は完全に南月の味方だった。その言葉に心が少し軽くなる。
「ありがとうございます。でも……、然るべき機関に相談して専門家に診てもらった方がいい。仕事を辞めて子どもと向き合うべきだ、と言われてしまって……」
南月は言葉を濁した。
子どもの発達は難題だ。専門家と言っても、どういうところへ行けばいいのか分からないし、ケアといっても具体的になにをすべきなのか。それに、自分の愛情が足りなかったような言い方もされてしまい、子育てが間違っていたとも思えてしまう。多くの問題が複雑に絡み合っていて、解決の糸口を掴むのは容易ではなかった。
南月が途方に暮れていると、天黒がふむ、と頷いた。
「保育園に預けないと働けず、また、相談する先も探さなければならない、ということか」
「はい」
申し訳ありません、と南月が頭を下げると、天黒が「そうか」と再び頷いた。
聞こえた返事に、南月は寂しい笑みを浮かべた。目覚めてから今まで、急転直下の展開で、できすぎとも言える話が転がり込んできた。正直なところ、断るのは惜しいという気持ちがある。でも、仕方がない。
短い時間だったが、人の温かな心に触れられて嬉しかった。
そう思った時だった。
「よし、分かった」
「え?」
天黒が力強く頷き、立ち上がった。その動きに視線を奪われる。
「俺が君の世界を創造しよう」
「えぇ?」
真っ直ぐに目を見詰めてくる視線に全身を縛られる。アルファの絶対的な力を感じたが、今度は不思議と恐怖を感じなかった。
「安心して預けられる先があり、相談できる相手が居て、適切なケアを受けられれば良い。そうだな?」
「は、はい……」
「他に問題点はあるか?」
「え、あ、い……いえ。預け先があれば……」
「よし。やはり、君は当社で働いてくれ。俺が保育園を作り、育児の不安を解決する場も構える。当社は君を得ると同時、今後、優秀な人材を集めるための基盤を整えることになる。これはメリットしかない」
言い終えると天黒は永江にタクシーチケットを渡して部屋を出て行った。手にはスマホが握られていて、早速、どこかへ連絡しているようだった。永江はその背中に「お疲れ様でした」と声をかけ、寿司に戻る。
「……保育園を……作る?」
「安心して。社長は作ると言ったものは作るから。明日、お給料のこととか、休暇のこととか資料を持ってくるわ。そうそう。双子ちゃんの必要なものも言ってね。準備するから」
「じゅ、準備って……永江さん、足を怪我しているのに!」
「あぁ、気にしないで。明日からシルバーさんが手伝いに来てくれるの。元保育士の人を手配してるから安心して。朝と夕方とか、昼間三時間とか、一日中居て欲しいとか。どんな形で手伝いに来て欲しいか、言ってね」
「……」
「天黒不動産コンサルティングオフィスへようこそ! よろしくね」
そう笑った永江は自分の分の寿司を平らげるとタクシーチケットをヒラヒラさせ、松葉杖をついてゆっくり部屋を出て行った。
「ど、どういうこと……?」
あまりの展開に頭が付いていかない。
南月はしばらくの間、呆然とドアを見詰めていた。