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第3話 記憶に埋もれた「幸せの始まり」

 懐かしい光景が見えた。17歳くらいの時に住んでいたアパートだ。

 不登校のまま中学を卒業し、高校にも行けないまま家に籠もり続けた頃の記憶だ。

「南月、荷物を家に入れて欲しいんだけど」

 部屋の外で母が言った。ゆっくりとした足音が去って行く。

「……」

 少し時間が経ってからそっと廊下に出た。リビングのソファには、コルセットを巻いて腰をさする母が座っていた。

 視線が合った。

 母は静かだったが、その目は雄弁だった。

 南月は何も気付かないふりをして玄関に出た。ぎっくり腰以降、手摺りがなければ歩けなくなった母は、宅配サービスを利用するようになっていた。今日は火曜だ。

「……」

 周囲に人が居ないことを確認してから扉を全開にする。今日は三つの発泡スチロールと二つのコンテナが積まれていた。

 トイレットペーパーや米、ドライアイスが添えられた食料品を中へ運び込んでいる時だった。

「申し訳ありません!」

 突然、階段を駆け上がって来る足音と共に、謝罪の声が飛んできた。

「!」

 あまりに急で南月は強ばった表情で硬直した。

「申し訳ありません! お荷物を確認させてください!」

 発泡スチロールを持った配達員が、肩で息をしながら深々と頭を下げていた。

「え、あ……」

「申し訳ありません。配達間違いです。他のお客様の箱がひとつ混ざっていないでしょうか。確認させてください」

 今度はいくらか落ち着いた声で言われ、南月は数歩後ろに下がってから無言で頷いた。

 顔を上げた配達員は南月と大して変わらない年頃の青年だった。少し垂れ気味の目と、目尻の下に二つ並んだほくろが印象的だった。制服の胸元の名札が見えた。

 稲美 護。

 護という漢字が南月の心に留まった。

 まだ開けていなかった一箱が間違いで、護は再度謝罪してから階段を降りて行った。

「……」

 真面目そうな人――。

 そんな第一印象だった。

 この日から、南月は自分の部屋から外を見るようになった。

 南月の家の周辺は火と木が配達日で、護は雨の日も風の日も大体同じ時間に来た。いつも同じ場所にトラックを停め、慣れた動きで荷台のドアを開けて荷物を代車に乗せていく。

 雨の日は荷物に手早くカバーをかけ、走るようにして運んでいた。少しでも荷物が濡れないような配慮が人となりを表していた。

 擦れ違う人に挨拶する姿も気持ちが良かった。会釈というには丁寧過ぎる動きに釣られ、挨拶された方も頭を下げていた。南月は心温まるやりとりを見るのが好きだった。

 南月にとって護は「母を助けるサービス」だった。それがいつの間にか「心を静かに温めてくれる存在」になり「外との繋がり」に変わっていった。南月の中に小さな変化を起こすもの。それが護だった。

 ある日、南月は宅配サービスのカタログ裏面に載った通信教育の案内に気付いた。組合員価格で受けられるとあった。

「お母さん……」

 そっと指で差すと母は驚いた顔をしたが、すぐに頼んでくれた。その日の夜、両親が嬉しそうな声で話しているのを、南月は部屋で聞いた。

「……ちょっと、頑張ってみよう」

 カタログを見るようになった南月は、中学・高校の学習を進めただけでなく、在宅試験で取得できる資格も勉強した。郵送されてくる教材を受け取るのと、宅配サービスが同じ時間になることもあった。

「コツコツ勉強できる人は凄いと思います。ボクは勉強が苦手で体を動かす仕事に就いたんですよ」

 まぶしい笑顔で誉められたことは純粋に嬉しかった。しかし、照れてしまって何も返事ができず、通信教育会社のロゴ入りの段ボール箱を持ったまま動けなくなったのを覚えている。

 学習を終え、修了証書を書留で受け取った時も、護がそこに居た。

「おめでとうございます!」

 修了証書在中、と書かれた封書を手に、郵便局員のお爺さんと護に拍手され、胸がいっぱいになったこともあった。

 少しずつ自信を持てるようになり、護の笑顔と優しさが心の支えになって、南月の時間は動き出した。

 そして――。

 南月の隣にはいつも護がいるようになった。護となら外へ出られるようになり、護の職場の人達にも祝福され、二人で幸せを育むようになった。

「護さん、いってらっしゃい」

「はい。いってきます」

 あの朝――。

 護はいつものように南月と双子にキスしてから仕事へ行った。秋雨前線が停滞しているおかげで、なかなかすっきりしない天気が続いている日だった。

「今日も濡れて帰って来ますね」

 昼を過ぎ、いつもより早く昼寝を始めた双子の隣で、南月は洗い替えの作業服のボタンを付け直していた。

 不意に、救急車のサイレンが聞こえた。

 早紀がビクッと反応して泣き始め、すぐに早保も同調した。そこからぐずぐずが続き、このまま黄昏泣きに突入してしまうのか、と南月が溜め息を吐いた時だった。スマホが鳴った。護の職場からだった。

「護さんが……事故に?」

 泣いている双子を抱いて救急病院へ駆け付けた南月を出迎えたのは、真っ赤な目をした護の上司だった。固い表情の医師と看護師に案内されて再会した護は恐ろしく冷たかった。

「ご主人に……間違いないですか?」

 医師の問いに、南月は一度だけ頷いた。

「配達中、転倒したお爺さんを助けに行ってトラックに……。カーブだったから運転手から見えなかったって」

 南月の後ろで上司が泣きだした。

「……」

 目の前の光景が理解できず、立ち尽くしていた南月は看護師に連れられて廊下へ出た。ベンチに座り込んでいると、上司がそっとバッグを差し出して来た。

「稲美さんのトラックにあった私物です」

 バッグには、タオルやペン、スケジュール帳の他に、ひまわり畑で撮った家族写真が入っていた。南月がそっと手に取る。上司が嗚咽を漏らしながら言った。

「いつも……いつも持ち歩いていて『かわいい』『天使』『太陽だ』って……。これを見ると、疲れも吹き飛ぶって……」

 今日も普通に帰宅し、いつも通りの笑顔が家の中で弾けると思っていた。それが永遠に叶わなくなったと言われてもピンとこない。南月は呆然と写真を見詰め続けた。

「……」

 双子がぐずり始めた。抱っこ紐の中でもぞもぞと動いていたが、ついに二人同時に泣き始めた。南月は急いで立ち上がり、体を揺らして二人の背中をトントンと叩いた。

 救急車のサイレンが聞こえた。

 それはどんどん近付いてくる。すぐ傍で止まった。

 そこから非日常の時間が始まる。ぼんやりとそう思った。

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