「⋯⋯お母様は何で自殺を?」
「知りません。母が私を捨てたのは私が5歳の時です。私は母を無条件に慕ってました。一度、母は金の無心に実家に戻りましたよ。その時も私を一瞥もしませんでした。不倫する人間は自分のことしか考えないんですよ。でもね、子供は無条件に母親を求めてます。今、千鶴さんが守りたいのは、あそこで眠っている子ですか? それとも、自分の経済的な安定ですか?」
千鶴さんが震える目でクーファンで眠る赤ちゃんを見つめる。
固く目を閉じて、ゆっくりと目を開くと徐に話し始めた。
先程の様子が嘘のように、落ち着いている。
「ここのカフェで夫に出会ったんです。私は大学に入ってこのカフェでアルバイトし始めました。そして、程なくして妊娠して今に至る訳です」
「カフェでアルバイトをしたら妊娠するとは初めて聞きました」
私の棘のある言葉に、千鶴さんは目を見開く。
おそらく勘当した彼女の親から散々責められただろうから、何も言わないが学生の身分で妊娠するなんて無責任極まりない。
「じ、実は正尚さんはゴムアレルギーでして⋯⋯」
「ラテックスアレルギーだから、コンドームをつけられなかったと? アホですか? ラテックスアレルギーの方用のコンドームも作られてますよ」
千鶴さんと会話をする度に母が父の言いなりだったのを思い出す。避妊できない、学生で自立もしていない、それならば、子供ができるような事をすべきではない。
「でも、好きな人と結ばれたいと思うのは自然な事です」
私は今、彼女を傷つける覚悟を持って会話をしているが、彼女も私を傷つけているとは気がついていないだろう。
彼女の考えの「自然な事」が私には理解できないどころか、吐き気がするほど抵抗がある。
「好きという気持ちと避妊しない事は結びつきませんよ」
「⋯⋯私のこと嫌いですか? なんか、責められているような気がします」
千鶴さんの言葉に私はそっとクーファンに眠る子を見つめる。言いなりになっている母親を責めたかった5歳の私。今眠る赤ちゃんは言葉も発せず、自分の母親の情けなさにも気がつけない。
「嫌いではありません。ただ、千鶴さんが大切にしているのは何か気になっただけです」
「もちろん、子供です! 正尚への愛情などもうありません。だけど子供を育てるにはお金が掛かるんです。私には学歴もないし⋯⋯」
学歴がないというが、大学中退でも高卒という立派な学歴がある。彼女の口ぶりから察するに、高卒を学歴と見做さない家庭に育っていそうだ。
「このカフェの仕事⋯⋯フードは主に千鶴さんがしていると伺っています。調理師の免許も持っているのですよね」
「もちろんです。正尚がゴムアレルギーなので、感染症後の今ゴム手袋をつけてフードをする必要があるという結論に至りました。当然、妻として調理師の免許は取りました。この間やっとです。2年以上の調理業務経験を経て、調理師試験を受けて何とか⋯⋯」
「何もできないみたいに自分を語っていますが、本当にそうですか? 本気になれば自立して愛する子を育てていく事もできるのでは?」
私も含め、すぐに女は男に一生を託す。相手が自分の一生を託すに値するかどうかを見定める前に、心に渦巻く不満を押し込めるように男に縋り付く。それをウザイと思うのが男。実際、原裕司は私が縋り付くと避けて、逃げようとすると縋り付いてきた。もう、男が何を考えているのか考えるだけ損。それ以前に私のようなイレギュラーな人間は、もはや気持ちを排除して利益だけに特化したロボットにならなければ生きていけないのかもしれない。
酒井千鶴は妊娠、出産、家族からの勘当という様々な出来事の最中、調理師免許を取るくらい実際は努力家。最初来た時の彼女は鬱状態だったのか、普通ではなかった。それでも、今の彼女は会話が通じるくらいちゃんとしている。「子供を守る」という事が彼女の中の生命線になっていた。それだけで、今クーファンで眠る子も彼女のお腹の中にいる子も救われている。
「大学中退して、親にも勘当されてます。学歴もないし就活もできません。それなのに、あの正尚さんが不倫するなんて⋯⋯」
「正尚さんは、千鶴さんにとってどのような方ですか? 男ってチャンスがあれば不倫する生き物ですよ? 他の男とは違うと思わせるだけの男なんでしょうか、酒井正尚は⋯⋯」
不倫によって家庭を壊された私にとって不倫は身近だった。それでも、その後の人生で他の子の親は不倫もせず仲睦まじかった。私だけがハズレの親を引いたのかと絶望した。
しかし、商社に入社して、不倫があまりにそこらにあって驚いた。稼ぎの良い男の周りには女が群がる。派遣の受付嬢は「腐っても商社マン」と言いながら、誘われればすぐに乗る。派遣社員は最短が3ヶ月だからか、そこでエリートを掴むことに必死。入社当初は真面目そうだった同期も遊び人に変わっていく。そんな中、婚約した原裕司も所詮同じようなものだった。人など環境によっていくらでも変化する。
「⋯⋯はぁ、どうしよう。分かんない。私、高校までは勉強ばっかしてて、正尚さんが最初の彼氏なんです。だから、分かんない。私の何が間違って家族から距離を置かれてるのかも分からない。唯一信じた正尚さんの気持ちがなぜ私から離れたのか分からない。山田さんに言われて自分が最低の母親だと気が付いても、何をして良いか分からない」
顔を手を覆って泣き出した酒井千鶴。私は自分が彼女をあけすけに追い詰めたのに、私怨故にやり過ぎた事に気付いている。お腹に子供がいて、やっと首が座ったような子供が側にいて、親からは切り離されて藁をも掴む思いで『別れさせ屋』を訪ねた彼女。
「酒井正尚を今も愛してますか?」
私の言葉に酒井千鶴が一瞬考えた後、ゆっくりと首を振る。
私の覚悟が決まった。