「私の夢は、生きる理由はクライミングです。全国大会に出場し、オリンピックへの出場権を来年取れる予定です。周囲からの期待のためにも頑張りたいと思います」
将来の夢とかいう、小学生の授業のようなクソみたいな授業が行われていた。とても退屈であった。
かけがえのないものを、希少ではないことを希少価値の唯一無二と決めるのは良くないことを俺は知っている。それだけが生きる意味で、生きるすべてだとすればそれを失った途端に生きることができなくなるからだ。やる気、気力、意欲、食欲、好きなことに興味を持てなくなる希死念慮。鬱への入り口だ。
その授業は四人ひとつのグループで話し合い、各班の代表者が発表するというものであった。話し合う意味は感じられなかった。考え方が全く違う人間の思考の末端を見ることで一生理解できない人間に向き合い、許容する術を身に着けて世の中を生きていけるようにしたいのだろうか。夢を見る人間はすべて違う人間なのだからその違う人間が見る夢が百人百通りなことぐらい、そんなことぐらい赤ん坊でもわかるってのに。
「矢箆原くんはありますか、夢」
「へぇ、珍しいな。不良の俺に物おじせずに話せるなんて。委員長以外にこのクラスにいるとは思わなかったよ」
「授業だからです。そうでなければ話しません」
「それはそうだな。失礼なことを言った」
「いえ。改めて、夢を聞かせてください」
「夢は、今はないよ。小さな頃なら、本当に小さな頃なら。幼稚園児とか。そこまで遡ればあると思う。だから俺はそのレベルでしか持ってない。話のネタにもならないよ。ごめんな」
「聞かせてください」
「え。いらないだろ、もう。山縣さん含めて他の三人は話した。イラストレーター、消防士、ドローン操縦士。みんなしっかりと自分に向き合い、いい夢を持っている。申し訳ないけど、発表は三人のうちの誰かでお願いしたい」
「小さい頃でもいいです。こんな機会をつくられない限り矢箆原くんの考えを聞くことはできないですから。お願いします」
俺は少し悩んだ。どこまで話すか。何を話すか。さっきはでまかせで子供の頃にはあったと言ったが、正直覚えていない。俺に将来の夢はない。今どきの小学生は公務員を将来の夢にするらしいが、自分が働く姿も想像できないため公務員の夢もない。真面目に働かなければいけない職場で働くことができる人はすごいと、素直に思う。俺にはできない。だからできないことを言うことにした。
「俺の夢は世界一周。俺は何もできない人間なんだ。だからせめて知らないことを知りたい。知らない国、知らない文化、知らない食べ物、知らない人。なにも知らないから知ることから始めたい。そのためのお金を稼ぐだけで人生終わりそうだけどな」
「それは、いい夢だと思います。将来の夢と聞いたら、自分がなりたいことか職業、働きたいことを挙げることが多いと思います。やりたいことが明確で、この班で一番実現の可能性があります。職業は運とか、周りの環境で大きく左右されますから。是非発表してもらいたいと思ったのですが。みなさんは」
「賛成。矢箆原がそんなこと考えてたなんて知らなかった」
「いいと思う。いい夢だよ」
「私も賛成。みんなに聴いて欲しいな」
「や、辞めてくれよ。思いつきで適当に言ったんだ。真に受けるなよ」
「それでも、いい夢です」
三人の意思は固かった。こんなはずじゃなかった。適当にやり過ごすつもりだった。こんなクソみたいな授業。やる価値も見いだせない時間。俺は自分の存在価値を、存在証明を一生できない人間だ。夢なんてあってたまるか。夢なんて見てたまるか。そんなこと許されるわけがない。そうなんだよ。許されちゃいけない。いけないんだよ。いけない。セイシンセイブツが俺を常に見ているんだ。見逃さないように。逃れないように。だから俺は泣いていないといけない。泣くことしか許されていない。希少価値を人生に張り付けることすらできないのだ。脆く、それがなくなった瞬間にこちら側に落ちる可能性すら俺は作れない。既に落ちている。だから、本当はこの時間、詭弁でも夢を真面目に語れるこの空間に生きることを、それが建前でも許されていることに俺は縋らないといけなかった。でもここで泣いてはいけない。全てを話すことになってしまう。余計な非理解者は作っては不便だ。しかたない。生きることを許されている現状では、こういうこともある。避けることこそ、それこそ許してはくれない。
「わかったよ。発表する。世界一周の夢を話す」
そして俺はこの高校生活で初めて人前に出た。それはかなりのストレスで、見ている人間すべてが殺人のための武器を持った敵に見えた。嘘ではなく。もうどうしようもなく、信じられないのだ。変に思われたらどうしようかな、みたいな子供の感情を持った高校生の比ではない。子供な高校生と同じではない。俺は醜いセイシンセイブツだ。
その昼休み、祐希にその話を振られた。
「良い発表だったぜ。お前が人前に出るなんてな。奇跡だ」
「そうだな。奇跡だ」
「私も聞きたかったです、咲くんの夢」
「思いつきだ。適当にその場を凌ぐための方便さ。聞くまでもない」
「私も咲くんの発表良かったと思います。きちんと話ができていました。クラスメイトとはいえ、大勢の知らない人だったんです。それが私は良かったと思いますよ」
「そうかよ。麗委員長が言うなら、そうなんだろうな」
慣れないことはするんじゃないな、まったく。疲れて鬱病を悪化させるだけだ。小春に告白するのは自然なことだったのに、どうでもいいことを誰かに強いられるのは苦痛だと分かった。知らない人間を一度に突きつけられては堪らないことも分かった。知ってはいたが、こうして現実で遭遇するのは俺の人生では稀だ。常に見ないふりして、目の前に来ても視線を合わせなかったからな。
自分語りほど人間としてダサいことはない。語るなよ、騙っていけ。精々言葉に遊ばれることを分かって遊ぶんだ。人間に生きる意味なんてないから。生きる意味を見出そうとすることすら、そこに意味はない。何もないから何か欲しくて探してしまう。例えば、夢とか。将来の夢とか。何か自分の上にあれば、それだけで仮初めの安心を見つけられる。生まれて死ぬまで上から降り注いで襲っている漠然とした不安を隠すことができる。この不安を無くすことはどの人間にもできないが、だから人間はごまかして生きるんだ。生きる意味を家族とか、恋人とか、仕事とか、やりたいこと、成し遂げたいこと、なりたい自分。憧れ。
私の生きる意味は他の何でもなくこれだけです。希少ではない普遍的な夢ですが、私にとっては唯一無二の希少価値的存在のやりたいことです。頑張ります。
是非とも頑張って欲しい。心から応援している。毎朝と毎夜あなたの家で一緒に食事をしている、トイレでひとり食事を共にしているセイシンセイブツにやられる前に叶えてくれ。こっちには落ちるなよ。それは隣の崖でもテレビが作った落とし穴でもないからな。落とし穴はいつも上にある。気をつけて。