夏休みが終わり、学校が始まって、学祭があった。俺達はステージ演奏を行い、盛況で終えた。その様子はこの作品のオープニングかエンディングの映像で流れてるからそれを見ると良い。この作品がアニメとか実写で映像化されればの話だけど。
日頃の練習の成果を存分に発揮し、最高の演奏をぶちかまし、ロックバンドのロックンロールを見せつけたが、しかし願い虚しく祐希は軽音楽部に復帰することができなかった。演奏は認めるが、やはり罵倒されたという。やはり因縁は色濃く、人間関係としての執念深い埋まらない溝がそこにはあるのだ。根本から解決しないことには、きっと難しいんだろうな。
日常が戻った屋上。残暑の厳しい日ではあったが、なぜか過ごしやすかった。よく晴れた気分の良い日は、こういう日は外に出て、屋上に出て過ごすのはとても良い。鬱屈とした気分も少しは晴れ、良くなった気がする。持病の鬱も太陽の下に晒せば、干からびて無くなるかもしれない。
俺は時々思うことがある。それは食が生きるうえで何よりの幸せで、食べることこそが生活を潤し満たす幸せなのだという誇大広告がたまにあるが、あれは辞めてもらいたいと思う。小説でも漫画でもなんでも良いけど、グルメだ、食だ、食え、食え、みたいなのが苦手だ。苦痛でさえある。食事は死なないために行うのであって、食べることさえ大変な、食欲を無くした人間にとっては、全てが苦痛だ。食べ物を口にすると、圧迫感が襲ってきて、飲み込むのが困難になる。それが毎食、毎日続く。嫌になるが、嫌だとも言ってられない。食事だからな。生きていくには食べることは必要だ。死にたいといつも言っているが、死んではいけなかった。生きる意味を見いだせず、ひたすらに鬱を食べ続ける俺だが、家族や友人を思うと思いとどまることができる。中学の時の状況が続いていたなら、高校生になっても同じだったなら。俺はとうの昔に死んでいたと思う。両親に土下座して。
祐希は今日も歌う。暑い中、ギターを抱えて四百あるレパートリーをランダムに引き出して、飽きることなく歌っている。
歌詞に共感する人間は、そういう浅い人間は音楽が何かを分かっていないと思う。歌詞に感動したいなら、小説か詩集を読めば良い。言葉もリズムを作っているのが分かっていない。
I /love /you だと三つの音。
あ/い/し/て/る だと五つの音。
言葉はリズムを作っている。メロディを作り、また、メロディをなぞっている。洋楽と邦楽の違いは、やはり言葉だ。そしてその上で日本語を正しく美しく使っていると、そこで初めて感動するのだ。
ミルク色の道を振り返ることなくあるけば昨日よりも明日よりも恋しくなるという歌を祐希が歌っていた事を思い出した。それで生まれてきた意味になるのだろうか。することができるのか。歌の歌詞に忠実になれば、それは実現することがあるのだろうか。
想像を叶えてくれる歌詞など、おそらくそんな歌はない。誰もが知っている。
だから歌は幻想で、幻で、概念でしかない。どれだけ現実を歌っても、本音を叫んでも、それは理想になってしまう。空想になってしまう。共感するような歌詞でも、わかるわかると頷くような歌詞でも、情緒的なメロディでも、それは手が届くところにあったはずなのに、全て手の届かないところにある。だから音楽は美しい。そして楽しい。それを頑張っている人がいると、たとえ祐希であっても応援したいと思う。頑張れって。
「何を読んでいるんだよ、小春」
「え、どうかしましたか?」
「いや、何の本を読んでいるのかと思ってな」
「英語の勉強をしているんです」
「へえ、それはなんとも。クラス委員は心がけも普段の行いも立派なんだな」
「そういうつもりでは……」
「悪かった、意地悪だった。続けてくれ」
各々、それぞれの時間。同じ場所にして何一つ同じことをしていない。共有しているのに共通していないこの場所を。俺たちの夏は過ぎていく。今はまだここにある夏はすぐに過ぎていく。このわだかまりも、滞りも全て流すように。
俺は隣にいる少女に、心のなかでお願いをした。
生きてゆく力があるうちは、俺を笑わせ、いつも、いつでも、いつまでもそばにいてくれ、と。そう願うことを、許してくれ、と。
このかすかに残るように覚えている不安と焦燥、やるせない絶望を忘れないうちに。忘れてはいけないのだと覚えているうちに。