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1-4 矢箆原咲真(やのはらさくま)

 桜がちらほらと、一輪、また一輪と咲き始めた春の訪れを感じる四月下旬。少し肌寒いのは風のせいか、この地域のせいか。昼頃に遅刻登校、放課後に屋上でリサイタル聞き、空が紅くなってきたので「そろそろ帰るわ」と言い出し、夕方六時前に学校を出た。麗と祐希の二人と別れ、小春と帰る。小春の家は俺の家の方向で、学校から徒歩十五分の俺の家からさらに徒歩で二十分くらいかかる。だから俺の家までは自転車で来て、俺の家に自転車をとめて学校まで歩いている。ひとりで行けばいいのに、なぜかいつもいる。友達だから、といえばそこまでなんだけど。



「ここさ、桜が満開になるとさ、意外とたくさん咲いてきれいに見えるよな。都心とは気候が違う地方だからゴールデンウィークがいつも見頃だけど」


「そうだね。桜が綺麗だと嬉しいね」



 小春は少し背が低い。隣を歩くとよくわかる。本人に聞いたとき、百五十少しくらいだと答えた。俺も背は高い方ではないが、並ぶと少し高いのかもしれないと思ったりする。成長期を過ぎたか過ぎてないか分からない頃合いなので、少しは気になるのだ。



「なあ、この間進路希望配られたろ。小春はやりたいこととか、将来の夢とかってあるのか?」


「どうしたの、突然。でも、夢か。うーん、あまり考えたことなかったな……」



 小春は傍から見ると分かりやすくのほほんとしていて、ふわふわとして、いつもあやふやで不安定で女の子っぽい。とても女の子である。



「いや、祐希はギターが好きだろ? ああやって歌うのが好きだ。きっと安直にミュージシャン目指すだろ。夢は叶わないだろうけど。でも、小春はいつも人に合わせてばかりな気がしてな。夢とか、やりたいことあるのかなって。好きなこととか、好きなものとか無いのかなってふと思っただけだよ」


「そっかぁ。あっ、でも『泳がせろ! たい焼き様』は好きだよ。たい焼き様。あんことクリームのミックスが一番好き」



 ズコ。



 ……どこから突っ込んでいいんだ、それは。好きなものって、好物を聞いたわけじゃないんだが。



「たい焼き様なんて、めちゃくちゃ昔の童謡じゃないか。流行遅れもいいところだよ。そんなの売ってる店なんて今どきあるわけなーー」


「あるんです!」



 小春は食い気味に素早くスマホを操作すると、お店の写真がたくさん載っているアカウント画面を見せてきた。小春が言うには『食べろ! たい焼き様!』というお店があるらしい。あの童謡の『泳がせろ! たい焼き様公認店舗!』と銘打っていたからパチモンじゃなさそうだけど。軽く見ただけだが、味の種類も豊富で、美味しそうなやつから美味しくなさそうなやつまで勢揃いだった。



「まじかよ……令和だって言うのに、まだこんなの売ってるんだ……っていうか、お前はケーキ屋の娘だろ? たい焼き、は和菓子だよな。それこそ洋菓子とか好きじゃないのか? パティシエになりたいとか無いのか?」


「うーん、子供の時はあったかもしれないけど、今は店の手伝いができればそれでいいかな。ケーキはお父さんとお母さんが作ってくれるから。販売は染野さんが頑張ってくれるし。だから、咲くんと同じように好きなことをやっていいよって、無いのかっていつも言われてる」


「染野さんは、バイトの人だっけか? まあ、いいや、なんでも。じゃあ、今度その、なんだっけ? たい焼き様のお店にでも行ってみるか?」


「えっ、本当に? うん! はい! ぜひ!」



 今日イチ目を輝かせていた。興奮と嬉しさで飛び上がりそうだった。アニメか漫画のように。ぴょーんと。



 「たい焼き様!」「たい焼き様!」と連呼する小さい女の子を横にして歩くこととなり、だからだろうか。葉も少なく枯れているように見える樹にひとつだけ、ひとつだけ忘れ物のように付いていた、早起きの桜を一輪見て、それを見て俺は思い出していた。一年前のあの日。あの年のあの日は桜が例年よりも早咲きで、消えかかった冬が残っているかもしれない空に、その空にあっという間に満開になっていた頃だったと思い出した。小春と出会ったのは高校一年生の入学から二週間後。春の日だった。






 ※ ※ ※














 その日も俺は酷い鬱に悩まされていた。体は重いし、ふらふらするし、ぼうっとするし、気持ちが悪かった。体調がひどく悪かった。しかし、それでも学校にはいかなきゃいけないと思った。まだ入学して間もない。これは風邪じゃないし、病気でもない。その時は、その時の自分はそう思っていた。精神病は周りからは良くわからない、理解されないということを良く知っていたから、普通の病気じゃないと。理解できない。理解しようとしてもわからない。そう、わからないのだ。だから怠けているとか、サボっているとか、不良だとか、ありのままに言われるのだ。顔も名前も覚えていない集団に馴染んでいないのでなおさら。だけど、その日も結局遅刻した。



 遅刻届を出して、玄関から入り、下駄箱を過ぎて、四階の一年生の教室郡へ向かっていった。一歩一歩登る階段が辛かった。胸を押しつぶすように、圧迫するかのように、苦しくて、息苦しくなるほどだった。人が嫌だった。人がいるのが、声が聞こえるのが、誰かがそこにいるというのが、怖かった。俺のことを笑ってるんじゃないかって、指さしてるんじゃないかって、軽蔑してるんだろうって。そんな幻聴が聞こえた気がして、怖かった。耳鳴りは日常。ずっと泣きたかった。だけど、負けてはいけないと思って頑張った。こうやって同じところにずっと、ずっと足を向け続けて、自分の席を守れるか分からないのに、でも辞めたらもう膝を折ることもできないと思ったから。環境を変えれば変わると、必死に喰らいついた受験で、手にした資格なんだ。だから自分では頑張っていると、そう思っていた。他人からどう見えるかはわからないけど、俺はこっちに居たかった。



 教室の扉は開いていた。どうやら休み時間らしい。それはよかった。少なくとも授業中の扉を開いて注目の的になって晒し者にされずに済む。そう思いながら俺はひとり教室に入った。遅刻ばかりしているので、話すことができる人間は誰もいない。冷ややかな目ばかりを向けられている気がして、ひそひそと噂されているようだった。やっぱりここにも俺の居場所はなかった。そうも思っていた。大人の意見に、理解ある施設みたいな学校に行けばよかったのか。



矢箆原やのはらくん、矢箆原咲真くん。聞いていますか、矢箆原くん」


「……なんだよ」



 席に着いて、しばらく。誰かやってきた。一人で。そこには小さな女の子がいた。俺がどうしてとか、ついにとか、なんでとか考える前に手を腰に糾弾した。



「矢箆原くんはどうしていつもいつも遅刻ばかりしてくるんですか!」


「へぇ、なんだよ。クラス委員みたいなこと言うんだな、お前」


「お前じゃありません。小鳥小春という名前があります。小鳥か、小春と呼んでください。それと私はこのクラスの学級委員です」


「そうかそうか、悪かった。あまり学校にいないから知らなかったんだよ。ええと、遅刻の理由だっけ? 体調不良だよ。体調不良。具合悪いの。休まなかっただけ良しとしくれ」


「体調不良ですか。どこの体調が悪いんですか」


「どこって、体が重いというか、頭がフラフラするというか、……まあ、体調不良だよ。なんだよ、関係ないだろ、クラス委員には」


「関係あります! 矢箆原くんは何日も何日も遅刻しています。それも入学してからすぐに。噂だと不良さんなんじゃないかって聞きます。クラスから不良さんが出たらクラス委員のわたしが困るんです」


「へぇ、どう困るんだよ」


「ど、どうって……とにかく困ります!」



 小さいくせにうるさい女だと思った。俺は仕方なく頷くことにした。



「はいはい、悪かったよ。今度は遅刻しないようにするからさ」


「本当ですね! 本当にですね!」



 そのやり取りをした翌日も俺は遅刻した。確か昼メシを食う昼休みに登校したんじゃなかったかと思う。



「矢箆原くん! 矢箆原くん!」


「なんだよ、クラス委員。挨拶か? 元気だな。おはよう」


「おはようございます……じゃなくて! もうお昼です。また遅刻したじゃないですか!」



 やれやれ、面倒なのに目をつけられちまったな。どうやら他の生徒のように怪訝そうな目でもないし、純粋にクラス委員として責任を持ちたくて、せっかく高校生になってクラス委員をやることになったのに不良が出たら問題になったらどうしようとか、そんなことを考えているんだろう。しょうがない。あまり、他人には言いたくなかったんだけどな。



「ちょっと来い、クラス委員」



 俺は手を引っ張って、階段を登って屋上へ。鍵を開けて開いた。



「な、何をするんですか。どうして屋上の鍵なんて持って……」



 両手で自分の身を抱き、身の危険を感じるかのように震えた。俺が手を向けると、ぐっと頭を下げて衝撃に備えるような態勢になった。



「なにもしないよ。ほら、これを見せたかったんだ。多くの人間にはあまり、絶対に見せたくなかったからな」


「……? え……これは……?」


「手帳。精神の三級。鬱病なんだよ、俺」



 だから毎日体調不良なんだよ。勘弁してくれ。ほっといてくれ。精々俺の机に死ねとか、消えろとか彫刻刀で刻まれないように見張っててくれ。そう努めて冷静に、感情を出さないように、泣かないように言った。警戒させないように両手を上げて。



 誰にも言わないでほしいこと。学校側にも事情は説明していること。口外しないでほしいことを言って教室に戻った。



 俺は特別扱いされるのが嫌だった。みんなと同じ、普通の高校生になりたかった。そうじゃない道も、そうじゃない学校も、理解ある場所もきっと世の中にはたくさんあるんだろうと思う。大人たちは当然のようにそっちを用意した。それを拒否し、ほとんどが障害とは無縁の、病気とは無縁の生活をしている大勢の中に入り込んだのは、自分で自分に見切りをつけたくなかったから。あなたはこういう病気だからこういうところに行きなさいとか、病気だからこの程度のことしかできないでしょとか、助けてあげるねとか、決めつけて何もかもを決められてしまうのが嫌だった。鬱病だけど、頭は悪いわけじゃない。勉強はできる。高校にも合格、入学できた。普通に大学も行けるはずだと、リモートで受けた家庭教師の先生にも言われた。そういうことを、自分で決めたことを、自分で決めて失敗したいから、そういった考えを大事に、大切にしていきたい。だから俺はこの道を選んだ。笑われたって構わない。不良扱いでも構わない。友達もいらない。ひとりだって高校には通える。家も遠くない。迷惑はかけるかもしれない。でも、いや、だからこそ、頼むから、邪魔をしないでくれ。せめて、そこに、俺の席を残しておいてくれ。頼むから。



 それから小春は毎日のように俺に挨拶をし、不必要に声をかけてきた。自然と、話をするようになった。きちんと耳にした噂だと、不良の矢箆原が委員長を懐柔した、手なづけた、弱みを握ったなどなど、噂が絶えなかったが、俺はなんでも構わなかった。建前でも、なんであっても話ができる人ができたのは良かった。勇気を出して俺の事情を教えたのが良かったかもしれない。少しは汲んでくれると、俺も相手を見ることができる。話を聞くことができる。心を許すと言ったら大袈裟だけど、小春と話しているときだけ悪い方向に少しは考えなくなっている。俺はこの病気を自覚する前から、診断されでもなおヒトやモノや出来事、周囲のことを良い方向に考えることができなくなっていた。やる気が出ず、気力もなく、食欲も衰退し、横になって潰れているばかり。薬と休養をしばらく取ったので外に出れるまで回復したが、治るまではまだかかるだろうと、自分でわかる。



 小春の人の良さには助けられた。



 最初はいつ他人に話すかと眠りを悪くしていたが、それは杞憂で、きちんと約束を守ってくれるのだとなと分かった。信じ始めた。いつの間にか小鳥さんではなく、小春と呼び、矢箆原くんは咲くんに変わった。そう、俺は期せずして友達がひとり出来たことになる。それは成り行きのお陰ではなく彼女の人柄のお陰であり、俺はそこに感謝しなければいけない。その時は学校で唯一きちんと話のできる相手で、でも小春はクラス委員をやるくらいだから友達も多くて、だから他の小春の友達はなんとか俺を引き離して悪影響を受けないようにさせたいように見えた。不良に何をされるか分からないと思うのは、自然だと俺も思う。それでも小春は執拗に俺に話しかけるので、そのうち周りも諦めて好きにさせることが多くなった。それが一年生の後半の頃だった。二年生になってクラスが変わって別々になっても一緒に登校、帰宅してくれる。お昼もときどき一緒に食べてくれる。こんな友達は小も中もなくて、だから本当に嬉しくて、恥ずかしいから口にしては言えなかったけどいつもありがとうと思っていた。



 神祐希と出会ったのは小春より前で、一年生が始まってすぐであった。入学式の翌日くらいに俺は早々に遅刻をかました。おかげで居場所と信頼を失うダブル高校生デビュー。その一週間後くらいだっただろうか。ふと、屋上の鍵が開いているのを見つけた。一人でいられる場所を探していたから好都合かもしれないと思って扉を開けると、先客がいた。それが神祐希だった。



 初めて会った時も祐希は一人でギターを弾いていた。最初は驚きと共に逃げた。拒絶反応を見せ、恥ずかしい恥ずかしいと言っていたが、弾いていた曲とアーティスト名を当てたので「知っているのか?」という話になりぽつりぽつりと話をした。なぜこの男に対して俺は自分の拒否反応が発動せず、人見知りが機能しなかったのか分からなかったが、結果としては良かった。小春のお陰で人を信じられるようになり、この男も信じられるようになれるかもしれないと、そう淡く思っていた。



 祐希は軽音楽部に入部したが一週間でいじめられるに至ったという。祐希は破天荒というか、他人のことはお構いなしで自分を押し出していくというか、そういう迷惑をかけてしまうところが上級生の逆鱗に触れたことを本人は反省していた。その悪評はあっという間に悪い噂として流れ、下駄箱には大量の画鋲が、流れ落ちるほど詰め込まれていた。他の実害をあまり書くと祐希にとって可愛そうだから、そこそこにしておくけど、それでもなかなか酷いものだった。見るに見かねた先生も対応に追われ、一時避難先として屋上の鍵を渡されたのだという。ゴミと雨溜まりの汚い場所なら軽音楽部も手を出さないだろうと踏んだとのことだった。問題が解決したらまた部活に戻ればいいと。そう言われて。



 俺はこの一連があまりにも酷く、残酷すぎる仕打ちだと思った。だから、話はうまく出来ない人間だけど歌を聴くことは出来るとこの男に言った。たったひとりのオーディエンスになることを決めたのだった。



 それから放課後に祐希の歌をずっと一人で聞いていた。風の日も、太陽が強い日も、雨の日も、小雨ぐらいだったら決行した。毎日、毎日、毎日のように、負けないぞと、負けるもんかと、二人で歌を歌った。小春も時々同席した。だから祐希と二人だったり、三人だったりした。



 雉子島麗と出会ったのは今年、二年生になってから。彼女は二年生の俺のクラスの学級委員で、遅刻ばかりする俺のことを心配して来た事かで話し始める出会いだった。実は一年生の時に俺と同じクラスだったらしく、小春とは仲が良かったのだという。俺は小春以外の全員が敵に見えていたから良く覚えていなかった。もしも一年生のときから心配をかけていたのだとするならば、それは申し訳ないことをしたと思う。



 俺の事情を話したのはこの三人だけ。秘密をきちんと守ってくれる三人だつたので、二年生になって遅刻を繰り返俺に対する周りの噂は不良生徒のままだった。決めつけと固定概念がそうさせてしまっているのだが、それは都合が良かった。誰も近寄って来ないので説明する手間もない。俺は不良生徒で通って誰も文句を言わない。いじめられることもない。それでも俺の席はきちんとそこに用意してある。だから誰にも不便かけずに俺は毎日自分自身の病と戦えばいいと、そういうことであった。



「咲くんは少し神経質というか、ナイーブなんだよ。だから眠れない日が出てくる。ね?」



 一輪の桜の手前を通り過ぎた。



 将来の話。叶えたい夢の話。たい焼き様の話を経て、小春は俺を気遣った。



 不眠、眠れない症状は鬱病につきもの。徹夜をしたいわけでもなく、眠いのに眠れない。それが不眠。翌朝には体が重くて体調が悪い。それが数日続くこともある。薬は飲んでいる。睡眠薬だ。たからほとんどの日はよく眠れている。よく眠れるようになった。しかし、それでも眠れないときは眠れない。なぜか薬が効かない日もある。寝れなくて、気持ち悪くなって、具合悪くなって鬱が加速して眠れなくなる悪循環。人間の精神って面白いよな。面白いほどすぐおかしくなるし、狂ってしまう。神経質。ナイーブ。たしかにそれもあるのかもしれない。しかしそれ以上になにか根本的な、それこそ病気という根源が巣食っているのがやはり全てだろう。根を張って居座って俺のことをじっと見つめている。苦しめているんだとそう思う。



「ナイーブか。そうかもな。そうかもしれない。最近はすんなりと眠れている事が多くなったんだ。一晩中眠れずに苦しむことは少なくなった。薬が効いているんだ。薬が無いと生きていけないな、今は」


「そっか。それは良かった。あとは朝起きられるといいんだけどね」


「そうだな……そうなんだよな……」



 本当に、朝何もなく気分良く目覚めて、伸びをして起き上がることができた生活だったのはいつのことだっただろう。振り返っても思い出すことができないくらいには、ずっと良い睡眠をとることができた記憶がない。鬱病と正確に診断されたのは中学の時だったし、小学生の時はまだ義務感で起き上がっていたように思う。じゃあ中学からか、起きられなくなったのは。だからと言って中学の時に何かあったわけじゃないから。いじめも、人間関係問題も、何もなかった。問題だとするならば、それは俺自身の問題だろう。俺自身そのものが、問題となってしまった。だから鬱病なのだ。



 家に着いた。



「じゃあな、また明日」


「うん、また明日ね」



 手を振って別れる。この時は、なんとも言えない気持ちになる。虚しいような、儚いような、嬉しいような。おそらく全て気のせいなんだろうけど。



 こうして一日がまた終わり、そして重たい明日が目の前に居座って、人生の生きるべき日々の残りを削って、消化したはずの生活が仲良しの鬱と共にやってくるのだ。





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