「むむむ」
階段を上がりながら、徐々にビレトの表情が険しくなっていく。太めの眉の間隔が狭くなり「なんだかヤな予感がする」とアサヒの二の腕をひしと掴んだ。
「そうですか?」
三段ほど先を上がっていくケイは何も感じ取っていない。ビレトの声が耳に届いて、あらためてキョロキョロと辺りを見回す。
「前に来たときと、変わってないですよ」
「前というと、いつ?」
「うーん……先週だったかな……。テスト前だったので、勉強を教えてもらいに来たのが最後です」
兄弟の仲良しエピソードが続くかと思いきや、ケイはため息をついて「……あのとき、もっと話をしていれば……」と後悔の念を口にした。
「その日以降、兄者と話してません。伝達魔法で、一方的には送っていましたが、返事は来なくて」
「ありゃあ。そりゃまた」
「兄者は忙しいと返事をくれないこと、昔から結構あったから、今回も忙しいんだろうなって、思っていました……」
ビレトはアサヒから離れて、声を震わせながら語ったケイに駆け寄って、その身体を支えてから「ごめんね」と謝る。つらく心細い思いをしていただろうに、思い出させてしまった。
「――それでも、何も言わないんっすね」
とうとうアーサーへの不満を口に出した。ずっと言葉にはしないでいた怒りだ。この肉体がアーサーのものであるのなら、二つの翡翠色の目もまたアーサーのものであり、自らを慕っている弟のケイが傷ついている姿を、見ているはずだ。
「だんまりを決め込むんならいいっすよ。これから真実を暴きに行くっすから」
言わないのなら、行くしかない。
アサヒはケイの両肩を叩いて「自分が元の世界に帰れることになったら、女神サマに、ケイの兄者を蘇らせられないか頼んでみるっす。これだけ好き勝手肉体を使わせてもらって、じゃあの、っていうのは道理に合わないっす」と勇気づけた。
「……本当ですか?」
頬をつたう涙を拭いながら、顔を上げるケイ。アサヒは黒髪をなでつけた。
「ダメって言われるかもしれないっすけど、言ってみなくちゃわからないっすから」
ビレトは内心、過去の転生者の例を振り返って、聞いたことのない話だと思っている。そもそもニルセバス王国の転生者は、ここまで“器”の過去を掘り返さない。転生者は元いた世界の知識を活用するもので、異世界たるニルセバス王国へは一時的に滞在しているだけだ。かりそめの姿に寄り添う時間は惜しむ傾向にある。
兄者が戻ってくる可能性を示唆されたケイが前を向いているので、あえて口にはしなかった。ビレトもまた、姉のカミオの帰還を待っている。アサヒの励ましは、ケイにとっての希望だ。
「でも、……やっぱりヤな予感はする。アサヒも、何も感じない?」
「自分にとっては初見の場所だから、そわそわするっす。お医者さんを育てる学校だからか、病院っぽいっすね」
「うぅん……ボクの思い過ごし? ……魔法の授業で失敗して、ここに運ばれてきたいやーな思い出のせい……?」
「ここに来れば、医者を育てる医者がたくさんいますからね。王族の方なら、他を待たせてでも優先するでしょう」
なんかやかんやと話しながら、一行は三階に到着する。ここまでに、教員とも学生ともすれ違っていない。廊下は静まりかえっていた。
「アサヒ、ケイ」
ビレトが二人の盾になるように前へ出る。視線の先が、蜃気楼のようにゆらゆらと揺らいでいた。
「ヤな予感、的中っすか」
「そうみたい」
「兄者の研究室があるの、あの奥の部屋です!」
あの奥の部屋、と指さされた場所を凝視する。このモヤの発生源のようだ。
「開けたらボス戦っすかね?」
「ボス? というと? 頭領?」
「ゲームの強いキャラっす。倒すとストーリーが進むっす」
「なら、ボクが倒してアサヒにいいところ見せちゃおっかな!」
ビレトが張り切ると、その
「しっぽぉ!」
「どう? どう?」
アサヒとケイに見せびらかすように尻尾をくねくねと曲げてみせる。左右にうごかすだけでなく、その先端部分をくねらせてハートの形にした。伸び縮みするようだ。
「カッコイイっす!」
「イイと思います!」
二人分の褒め言葉を受けて、ビレトはぐっと右腕に力をこめる。鋭利なドラゴンのツメが、照明を反射した。
「行ってくる!」
ビレトは単騎でアーサーの研究室に突入する。その引き戸にはカギがかけられておらず、中にはその場所の持ち主ではない者が二体、我が物顔で酒盛りをしていた。
「ンア!」
「ナンダー! デマエハ、ヨンドラン!」
出入り口に近いほうのモンスターが、実験台の上に置かれたワイン瓶をビレトへと投げつける。ドラゴンの右手ではたき落とすと、紫色の液体と瓶の破片が床に散らばった。その破片を踏みつけながら、研究室へと踏み込む。
「ア! オマエ! モッタイナイモッタイナイ!」
「マダアル!」
アッキ。サイクロプスと同じく人型のモンスターだが、サイクロプスと違って巨体にはならず、成長した個体で100センチメートルの大きさだ。人語を理解し、人間のように会話する。ビレトの目の前の二体がそうであるように、人間が廃棄したボロ布を身にまとい、人間のような立ち振る舞いをする。
ニルセバス王国の住民たちと異なる点として、魔法は使用できない。
王政が始まってから、魔法は生活にはかかせないものとなった。魔力のないアッキたちは、魔法により、人間の社会からつまはじきにされる。
「コイツ、オーゾクダ!」
とはいえ、アッキにも生活はある。人間との対等な共生ではなく、人間のおこぼれにあずかる方向性にシフトした。または人間の生み出したものを奪取して、その利益を貪らんとする。
このアッキたちは、後者にあたるらしい。
「ゲゲゲ。ナンデダ?」
奥のほうのアッキの、その骨と皮ばかりの手のひらの上には乳白色の球体が乗っている。中指でつんつんと突っついているそれは人払いの魔道具だ。魔力を消費せずに、範囲内に人間を寄りつかなくさせる効果がある。ただし、寄りつかないというだけだ。今回のビレトたちのように、目的意識を持って行動している相手には破られてしまう。
「タカカッタノニヨー!」
魔道具はその効果を適用する範囲が広ければ広いほど高価とされている。西校舎全体が効果の対象になっているとなると、実験台へ雑多に置かれた食べ物や酒類の販売価格をすべて足してもまだ魔道具のほうが高いぐらいだ。
「ここは、ケイの兄者、アーサーの研究室だぞ。キミたちの居場所ではない!」
ビレトが言い放つと、二体のアッキたちはカカカと笑い出した。事実を突きつけたまでで、笑われる筋合いはない。
「ココ、ドクアル。オラタチ、ハナキク」
「ドク、タカクウレル。ウレルウレル!」
「ドク、モットホシイ。ニンゲンハジャマ。ニンゲンノジッケン、ツイテッタ」
「コレデゼンブ、オラノモノ!」
「オラタチノモノ!」
またカカカと笑う二体のアッキたち。言葉をつなげて、ビレトは推理する。
「アーサーがサイクロプスから採集して解析してた毒を盗んで、売り払うだけではなく、無毒化する実験に乗じて殺した?」
最悪の推理だが、奥のアッキは手を叩いて大笑いし、手前のアッキは笑いすぎてイスから転げ落ちた。アッキの中には、黒いローブで身を包んで、その背格好から童話の『老婆』のように演技する者もいるという。身分を魔法使いと偽るのだ。
ピーターはこのアッキたちのどちらかから毒を購入したのだろう。プラトンで購入し、パスカルへ持ち込む。移動魔法を使えるなら簡単だ。個人の移動に持ち物検査はない。
「キミたちのせいで、ケイは大事な兄者を失ったんだぞ!」
「シラナイシラナイ」
ビレトは拳をぎゅっと握りしめた。ここでアッキたちを見逃すわけにはいかない。相手は人語を操るとはいえ、モンスターだ。ここで倒さなければ、また毒を売って、次の犠牲者が現れる。野放しにはできない。
「これはケイの怒り。食らえええええええええええええええええええええ!」
ニルセバス王国のドラゴンは、全長20メートルになる。ビレトの尻尾が伸縮可能なのは、元々の長さを体内の魔力でコントロールしているからだ。
振り回された尻尾は、二体のアッキたちをまとめてなぎ払った。断末魔の叫びは、人払いの魔道具によって打ち消されて、鼓膜までは届かない。モンスター特有の緑色の血が、床に飛び散る。先に広がっていた紫色と入り交じって、コポコポと泡を立てていた。