寝台の上に身を起こしていたコウが、メイに次の指示を出す。
「メイテさんのところで、良いハサミを借りてきて。それから、布とお湯を準備。できれば獣医を呼んで欲しいけど……」
「ハサミはすぐ借りてきます。馬のリャンメイのところに、獣医が来ているようですから、すぐ捕まえてきますね」
ぱたぱたと駆けていったメイを見送り、リャンはコウへと尋ねた。
「気づかれましたか?」
「最初は分からなかったけど……。その子、喉を首輪が絞めちゃっているんでしょ」
「そうです。そのせいで、声がつぶれているんです。昔もこういった犬を見ましたが、その犬は喉が潰れて食事ができず、死んでしまいましたから……」
長い毛をかきあげると、小さい犬の首には赤い血の塊、皮の首輪が肉に食い込んでいるのが分かった。チャウラニは愛玩用の犬で、もともと大きくはならない。しかし、やはり例外は存在するもので、この犬はかなり大きく成長してしまったらしい。そのせいで、元々つけていた首輪が、どんどんと喉を絞めていったのだ。
どこからか逃げ出したのか、それとも捨てられたのか。外見は愛らしいが、値段は手ごろなほうのチャウラニは、贈り物として一時期もてはやされていた。小さく愛らしいが、非常に勇敢で忠誠心が強く、一度なついた相手を守るため、刀を構えていようと噛みつきにかかる。そのため、護衛としても優秀だと、今でも飼うものは多かった。
「確かに不気味な声だったし……俺が寝ているうち、噂が立った?」
「ええ、まあ。私も聞いたのは今日が初めてですが……どうしましょうか。首輪は外してあげたいのですが」
「そのためにメイを行かせたんだよ。そろそろ戻るんじゃないかな?」
コウの言葉通り、メイはすぐさまに戻ってきた。連れてきたのは四十がらみの獣医で、初めて会うというコウの美貌にしばし見惚れそうになっていた。しかし、痛々しい犬の様子に気がついたのだろう。さっと取り出したハサミを持って首輪を取ると、専用の薬と包帯で綺麗に覆ってくれた。
「これで大丈夫でしょう。喉は絞められていて、苦しかったかと思いますが……傷そのものは浅くてすぐに治る程度です。ただ、首輪はもう嫌がって付けたがらないかもしれませんが……」
それもそうだろう。獣医の言葉に皆が頷き、そしてコウが尋ねる。
「その首輪から、買主は分かりそう?」
「本来なら、どこの誰それだと名前をつけるものですが……劣化して読めませんね。御望みでしたら、責任を持って私が飼えそうな人を当たりますが?」
「ううん。私が飼いたいのだけど、問題は在る?」
急にそんな事を言いだしたコウに、メイも、そして獣医も驚いた様子だった。しかしコウは関係なさげに、セイランさまとしての笑みを浮かべて言う。
「私の離れの傍だったから、その犬は怪異扱いされたのでしょう。だとすれば、私はこの子に報いてやらなくては」
苦しみから解放されたせいか、犬は抱き上げているリャンの腕の中、ぱたぱたと尻尾を振っている。その様子を慈しむような眼差しで見つめて、セイランさまは獣医へと尋ねた。
「構わないでしょうか?」
「そう……ですね。おそらく、首輪の食い込み具合からして、逃げたか捨てたか、どちらにしても半年は経っております。太夫の元で暮らせるなら、この犬も幸せでしょうね。首輪以外でしたら、尻尾の付け根の飾りですとか、そんなもので太夫の犬だと示せばよいでしょう」
獣医の返事に、嬉しそうに太夫が頷いた。話を聞きながら、どうやらこの犬は路頭に迷わなくてよさそうだと、リャンもほっとする。犬もそれが分かったのか、分からないのか、一声鳴いた。
ひゃん!
おどろおどろしくない、どこか擦れてずれた響き。でもずっと、可愛げの増した声だった。おいで、と太夫が手を伸ばすので、リャンはそっと差し出す。寝巻きが微かに泥で汚れたが、太夫の腕に大人しく抱かれ、犬は尻尾を振っていた。
「名前は、ロンにしようか」
太夫がそう言って頭を撫でると、犬は満足げにまた、ひゃん! 、と鳴き声を上げたのだった。
こうして、紫水楼に出るという怪異の噂は、ぱったりと途絶えた。代わりに広まったのは、首輪で喉を絞められた可哀そうな犬を、太夫が飼うことにしたと言う話である。
洗ってみれば、ふわふわふさふさとした長い毛の、くるんとした尻尾が愛らしい、可愛い犬。
太夫の傍で静かに控える忠犬の話題は、すぐさま歓楽に広まっていった。それと同時に、床にふせっていた太夫の病を治したいう、地蜂の蜜。滋養効果の高さを期待したのか、苑州では例年の倍の金額で蜜が売れたと言う。
そのどちらもに関わった、一人の料理人。
リャンの話はとんと流れなかったが、今日も彼は腕をふるい、コウの舌を楽しませるのであった。