不思議なことに、体を襲っていた昂りは、どこかへ消えていた。自分を支えてくれるリャンの腕に寄りかかり、蜜を食んでいただけだったというのに。
この蜜が特別なのだろうか? 、不思議に思いながらも、コウは口の中に広がる甘みを、ただ楽しむ。
「リャンさん? ……っセイランさま! 起きあがっても、平気なのですか!?」
厨房にリャンが居ないことを訝しんだのだろう。探す様に声をかけてきたメイは、身を起こして匙を舐めているコウに、それは驚いた。
飴を舐めしゃぶる子供のように、口に匙を咥えたまま頷いたコウに、メイは力が抜けてしまった。その場にぺたん、と尻を付けて座りこむ。この三日間、殆ど寝る間も惜しんで看病に当たっていたメイだ。嬉しい様な、拍子抜けしたような。そんな複雑な気分だった。
「よ、良かったですけど……」
「先ほど、起きあがって来られたのですよ」
リャンがメイを助け起こす。コウはというと、ふかふかとした大枕を背に、落ちついた様子だった。
あの妙な嫉妬を受けなかったと、メイはほっとする。少し急な回復にも思えたが、それだけ地蜂の蜜やら、栄養のあるものを身体に入れられたのが良かったのだろう。どこか老成した雰囲気もあるコウだが、本当は17歳の青年とも少年とも言えぬ、若人(わこうど)なのだから。
ちゃんとご飯が食べられれば、体の回復は早いことだろう。
「メイ。何か、変わったことはある?」
「あー、ええと。御馴染みの皆さまが心配なされておりまして、色々と贈り物が届いておりますよ」
「分かった。もう少し休んだら、上客の人の返事を用意するよ」
余程、気に入ったのだろうか。匙を離さぬコウに、リャンは微かに笑みを浮かべて壺を渡す。
「どうぞ。匙は替えて使ってください、身体に良いとは言っても、ちゃんと腐ったりかびたりするものですから」
「くれるの?」
眼を輝かせて尋ねたコウに、リャンは頷いた。なんだか何時もの光景が戻った気がして、メイも嬉しくなる。
ところが、その時だ。
ぎゃん。
不意に聞こえた鳴き声。部屋の中に、静寂が満ちる。ただリャンだけは、すぐに立ち上がって厨房の方へと向かった。
「何の声?」
「太夫が寝込んでいらっしゃる間に、何故か聞こえるようになったのです……姿が見えなくて、声ばかりが聞こえると」
「なんだいそれ」
眉をひそめる太夫。すると、厨房のむこうから、鳴き声がまた聞こえた。
ぎゃん! ぎゃん、ぎゃんぎゃん!
何が起きているか分からず、思わず二人は顔を見合わせる。けれど、その鳴き声は、それきりぴたりと止まってしまった。
代わりに太夫の部屋に面する障子に、人影が映る。リャンだ、すぐに分かってメイはそこを開けた。
「リャンさん! どうなさったんです?」
「いえね。正体に心当たりがあったので、ちょっと餌を置いてあったんですけど……」
「正体って……それ」
障子の外。立っているリャンはちょっとばかり泥まみれで、その腕には薄汚れた毛の塊を抱いている。
丸っこい耳、くりっとした人懐っこそうな眼。丸まった尾をぴこぴこと左右に揺らし、それはどこか機嫌よさそうだ。
寝台の上に身を起こしていたコウが、口元に手を当てて上品に驚く。彼の横になる場所からも、その毛の塊は良く見えていた。
「それ、チャウラニとかいう、犬じゃないか」
そう、確かに、それは犬だった。汚れてはいるが、確かに犬だ。
リャンが頷いて、人間の赤ん坊ぐらいの大きさをした犬を、抱き上げなおす。
「ご存知でしたか」
「前にくれるとか言っていた御客人が居たんだけど、俺もメイもちゃんと世話できるか不安だったから、もらわなかったんだよ。見たことだけはあるし、小さくて可愛らしいのに勇敢だって、歓楽じゃ人気が高いんだ」
「姐さんがたが、良く連れてらっしゃいますよね……でもどうしてここに」
機嫌よさそうにリャンの腕に抱かれる犬は、口をぱっと開いて鳴いた。
ぎゃん!
可愛らしい、と言えなくもない外見に、似つかわしくないつぶれた声。びっくりして、思わずメイはそこから飛びのき、コウは余計に眼を大きく丸くする。
リャンは犬をなだめるように抱き直して、
「これが、噂の正体と言ったところでしょうね……」
と、どこか悲しげに言った。その様子を見ていたコウが、何かに気がついたらしい。おっかなびっくり、犬を見ているメイに言う。
「すぐそいつを、近くまで連れてきてくれる?」
「部屋が汚れてしまうかもしれません。せめて、一度洗いませんか」
「いいから。とりあえずなにか、古布を敷いてよ」
言われて、メイがすぐさま布を手に帰ってきた。
床に、ぼろ布、とは言い切れないどこか上等な布を敷いて、メイがリャンを促す。どうやらそれは、かの地方官僚が置いて行った、なんとも始末しようがない服の一つらしい。リャンは少々迷ったが、ややあってその腕に捉えたものを抱えて、部屋に上がった。