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第4話

 動揺しているのが具合の悪さで隠れていることを確かめて、コウはリャンの服の袖を掴んだ。眼を潤ませて、強請る様にそっと上目遣いに。

 ちらりと寝まきを肌蹴させながら、静かに尋ねる。


「あの、リャン……」

「駄目ですよ」


 何をせがまれているのか、リャンはちっとも理解していない。袖を掴んでくる可憐な手をそっと外して、布団の中へと入れてしまう。

 彼から見れば、無茶をしかけて廊下で倒れていたかもしれないコウだ。例え雇い主であろうとも言うべきだろうと、そんな決意の元、告げる。



「そんな顔しても、そんな声をしても、私には通用しませんからね」



 精悍なリャンの顔立ちのおかげで、その声は彼の意図するところの、倍くらいは冷たく聞こえていた。

 コウからすると、まるで自分が誘ったことで、コウ自身にリャンが失望したように聞こえていた。


 これまで、酷い言葉も、罵声も、怒声も、ありとあらゆる負の感情を込めた声を、コウは聞いてきた。散々なじられながら、一晩中後ろから張り型で虐め抜かれたこともある。水差しから水を注がれ、排泄を強要されたこともある。暴力を受け、体を壊され、心ない言葉を浴びせられ、それでも心は痛まなかった。


 それが仕事であったし、客からの注文であったから、コウはそれらを受け入れてきた。

 受け入れて、生きてきたのだ。


 でも、今のリャンの言葉には、胸を鋭く裂かれたような思いがしていた。どうしてそんな気持ちになったのかも、コウを苦しめていた。

 初めてだったのだ。否定されることに慣れていたはずなのに、拒絶されることにも慣れていたはずなのに、リャンからの言葉に目頭が熱くなってしまう。

 拒絶が、とてつもなく、怖くて悲しかった。


「……ごめんなさい」


 そんな柄にもない言葉が零れて、思わず布団にもぐりこんだ。

 美しき花よ蝶よともてはやされ、その美貌に対して自分でも些かは自信があったコウは、初めて己のことを醜いと思った。拒絶されるはずが無いと、勝手に思い込んでいた自分。それが、あまりにも浅はかな行為であったことを、ようやく思い出したのだ。

 客として来ても、コウに性的な行為を求めず、ただ話相手や囲碁の相手をさせる者は多い。抱いてくる相手だって、まずコウに窺いを立ててから行う。例え誘うにしても、誘っていいと分かっている客しか、誘わなかった。仕事として、そういう分別は持っていたはずだったのに。


 拒絶の言葉をかけられる可能性ぐらい、どうして考えつかなかったのだろう。

 どうして受け入れてもらえると、思ってしまったのだろう。


 そんな思いが、胸の内をぐるぐると廻る。


「セイランさま?」


 と、その時だ。

 いつも通りのリャンの声が聞こえて、そっと布団をめくられる。抵抗することさえ怖くて、思わずコウは小さく身を縮こまらせる。

 布団を覗く、二つの目。どこか困ったように笑ったリャンの手には、小さな壺がある。


「あの、申し訳ありませんでした。何やら、その、強く言ってしまって……」


 決定的な思い違いをしたままに、リャンはそう小さく笑みを浮かべる。そして決定的な思い違いのままに、コウはその笑みに余計に涙を誘われた。


「いい。おれも、ちょっと、無理した、から」

「いいえ。その、分かっていらっしゃるだろうに、強く言った私がいけないのです」


 会話が堂々巡りしそうな気配に、コウは別のものに話を振ることにした。


「その、壺は?」

「あ、ああ。これですか。ええと、その……」


 まさか、甘いもの食べさせれば機嫌も治るのかと、子供の様な扱いをしそうになったことを口に出せないリャン。

 なんとか言葉をつなぎ合わせ、口に出す。


「さ、先ほどの水。いかがでしたか?」

「水? ……うん、 おいしかった」

「良かった。あの、その水に溶かしてあった、蜂蜜なのです」


 少しだけなら、食べても大丈夫だろう。その程度の具合になったから、コウも起きあがってきたのではないか。そも、コウは子供扱いするような存在ではない。下手をすれば、そこらの大人の倍は軽く稼いでしまう、この歓楽で最も名高き太夫なのだ。教養だって、リャンの数倍は在る筈。

 それが子供のように泣いている様子に、自分は知らないうちにずいぶん酷い言葉をかけてしまったのではないか。


 そんな結論に至ったリャンが、泣きそうなコウを慰めるために持ってきた、甘い蜂蜜。


 彼の思惑が分からずコウがじっと見つめていると、リャンは匙を壺に入れて、くるくるっとすくい取ってくれた。街に暮らす子供なら、一度は目にしたことがある、水あめの様。けれど生まれた時は貧困の底にあり、店に上がってからは上物しか与えられなかったコウにとって、それは初めて見る品だった。

 興味を惹かれて、そろそろと身を起こそうとすると、すぐさま起きあがるのを手伝ってくれる。

 本当に拒絶された訳じゃないと確かめて、コウの表情があからさまに和らいだ。


「どうぞ。水あめみたいに、粘り気が強いのです」


 匙につくのは、黒蜜のような濃い色合いの蜜だ。そっと匙を手渡され、恐る恐るコウは口に含む。


「……甘い」


 舌に広がる、仄かな甘み。風味も、少しばかり違っているらしい。熱にうなされる中、口を湿らしたあの水より、もっと濃厚な甘み。

 じわじわと身体に広がる滋味のある味わいに、コウは美味しそうに匙を舐(ねぶ)る。その様子にほっとしたのか、リャンの表情が和らいだ。


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