例の役人の話もあって、噂には尾ヒレがびろびろとたなびく始末。噂の元を断ちたいが、原因が分からないのではどうしようもなく、ほとほと困っていた。
「リャンさんは聞いたことが無いので?」
医者が尋ねてみると、リャンは首を横に振った。
「残念ながら、私は聞いたことが無いのです」
「寝ていたら気がつかない程度の声なのかもしれませんが……何か犬猫が潜り込んでいるのでしょうなぁ」
現実的な答え方をする医師に、リャンも頷いた。
「ええ、そう思いまして……ちょっと餌でもおいとこうかと」
「餌って……捕まえるつもりなんですか?」
不安げに聞いたメイへと、リャンは首を縦に振った。
なにやら心当たりがありそうな表情をしていて、小さく笑みを浮かべている。
「まあ、ちょっと。ただ、出来れば当たって欲しくないと言いますか……」
「どういうことです?」
「私が聞いたことが無いので何とも言えませんが、似たような鳴き方をするものに、出会ったことがあるのです。もし同じなら、少々可愛そうなので」
言葉を濁すリャンに、メイは首を傾げる。医者も何とも言えなかったが、これ以上の長居は不要と判断したのだろう。薬湯をメイに託し、帰り支度を始めていた。
メイもそれを見送りに、部屋をぱたぱたと出ていく。
一人残ったリャンは、湯のみを片付けながら、かつてのことに思いを馳せた。
リャンは、生まれながらに流浪の身であった。両親は大きな旅の一座にて曲芸を見せる、軽業師。その二人の間に生まれたリャンだったが、とある街の厨房を借りて食事を用意して居た時。彼は、その厨房の主である料理長に、その料理人としての才能を見込まれた。
僅か七歳のリャンが作りあげる料理は、一座の者も認めるほどの美味さ。天性の才覚とでも言うべきか、正確に味を見極められるリャンの才能を気に入り、料理長は頭を下げてリャンを預けて欲しいと申し出た。これがただの料理人なら、両親も反対をしたことだろう。しかしこの料理長、その年に国で開かれた料理の祭典で、最高賞を頂いた料理人であったのだ。
そこまでの才能があるのなら、と、リャンはこの料理長に預けられ、今日に至る。常に練習を怠らなかった両親に倣い、未だに修行の道を歩んでいる。
流浪を続ける中で、リャンは様々なものを見聞きした。もしリャンの想像が誤りでなければ、怪異の原因となった妖しげな鳴き声の主は、この肉に喰いつくはずだろう。
出汁を取る為に煮込んだ豚の足を皿に乗せ、リャンはそれを裏手にそっと置いた。厨房の奥に在る一間、リャンが寝ているところの傍だから、すぐに気がつける位置である。
「上手く掛かってくれればいいが……」
と、思考を遮る、微かな音。
「ずいぶん早いな?」
厨房に至る廊下。そこを歩く時、微かな軋音が鳴る。この離れは紫水楼の中では出入り口から一番遠いのだが、もうメイが戻ったのだろうか。
もしかしたら別の御客かもしれない。応対するためにそちらへ足を指し向けて、リャンは目を見開いた。
汗の匂いすら、どこか香しく。透き通った肌は、より青白く。とろりと熱に浮かされ、その目は焦点を絞り切れていない。足取りはふらり、ふわり、雲の上を歩むよう。
今にも脱げ落ちそうな寝巻き姿のまま、艶やかな様で、セイランさまが立っていた。
熱にうなされ、苦しんでいたところを、この五日間ずっと見ていたリャンである。その驚きは、一塩であろう。喜びより先に、焦りが出た。
五日も寝込んでいた人間が、急に歩いたのだ。怪我をしてもおかしくないし、廊下で倒れていたかもしれない。気がつけたことに、内心で自画自賛しながら、リャンは太夫の傍へと駆け寄った。
「っセイランさま! 何しているんですか!」
思わず、腰につけてある手ぬぐい片手に、その崩れ落ちそうな細い体へ手を伸ばす。ほんのりと笑みを浮かべて、セイランさまが手を伸ばしてきた。
「ねえ、リャン」
熱く、熱を帯びた、その声。情欲を掻き立てられそうな、それは背筋が甘く蕩けかねない声色である。
一声聞けば、誘っていると分かるような、そんな色香溢れる、匂い立つような美声であった。
しかし、セイランさまにとって、大きな誤算がそこにあった。なんとその誘いの声は、リャンに通じなかったのだ。
雇われる時に、例外事項を言いふくめられているリャンであったが、彼は誘われた経験も誘った経験も無い。つまるところ、太夫が何を求めているのか、リャンはちっとも分からなかったのである。だから熱っぽさに魘されたような、擦れて甘い響きのある声に、これ以上辛い思いをしないようにという思考しか、することができない。
そんなリャンは迷った挙句。セイランさまをひょいと抱え上げると、部屋を目指す。
メイも居なくなったので、これ幸いとばかりに行動に出たセイランさま。いや、コウと言うべきか。うまくいったと薄く笑い、リャンの腕の力強さを背中で感じて、思わず身じろいだ。
媚薬の副作用。突発的な昂りをおさめたくて、けれどきっとメイでは満足しないと分かっていて。だけど、客を取るわけにもいかない。
選択肢を狭めていく条件がこれだけあるからして、相手として選ぶのならばリャン以外に適任は無い。誘われたら断る必要は無いと、店からも許可が出ているのだ。
少し慰めてくれればそれで落ちつく、そんな打算と思考で、コウはちょっとばかり無理をしていた。
寝台に下ろされてもなお、身を寄りかからせるようにしていると、リャンが眉をひそめた。
見たことが無い相手の反応に、コウは戸惑う。
「ちゃんと寝ていてください。必要なものがあったのなら、呼び鈴を使ってくだされば良かったのです」
「……そ、そう、だな?」
かなり積極的に誘ってみたつもりだったが、どうも何一つ琴線に触れていないらしい。