やや眼を見張り、そして小さく喉を鳴らして水を飲み込んだのだ。水と薬湯以外にようやく口に入れられたものだから、メイの喜びは一塩である。
「ああ良かった! もう少し、飲みますか?」
今度は目線では無く、小さな頷きが来た。その、何時もなら気にも留めぬ反応が、とてつもなく嬉しい。
いそいそと用意をして、メイは再び吸い飲みを口へと向ける。心なしか、穏やかな表情となったコウは、それから二口水を飲んだ。そしてほうとため息ついて、ずいぶん楽そうな表情でまた眼を閉じる。
寝息も、少し穏やかに聞こえる。メイは久方ぶりに、頬を紅色に染めて、喜んだ。
午後になってやってきた往診の医師へと、薬湯以外にようなく口にものを入れたのだと、そう告げれば大きく笑みを浮かべてくれた。
「それは素晴らしいこと。どのような水なのでしょう?」
「私も詳しくは分からないのです。あ、リャンさんに聞けばいいのか……リャンさん」
厨房にすぐ続く一間で、医師へと茶を出す間。何やらごちゃごちゃとやっているリャンに声をかけると、すぐにこちらへと来た。
「どうされましたか?」
「コウ様が、あの水を二口も召しあがられました。どのようなものだったのですか?」
ああ……。と小さく頷いて、リャンは湯のみへあの水を注ぎ、二人の前に置いた。
微かに、甘い香りがする。それも砂糖の甘さではない、どこか特別な風味のある甘い香り。それから、さわやかな香りもある。
「これは?」
「苑州で取れます、滋養効果のある地蜂の蜜に、砂糖を少々。それから、南方で取れるとても酸っぱい果物の汁を混ぜ込みました」
こくりと口をつけた医者は、目を丸くする。
「ほほう! あの苑州の蜜がこれですか、いやはや。かように珍しきもの、初めて口にしましたよ」
そう言って笑う医者。メイも一口飲み、はふうと吐息を零した。
甘いものは貴重だが、その中でも上等な甘みだ。手間がかかる為、ほんの少ししか出回らない地蜂の蜜。どうやってリャンが手に入れたかは知らないが、そこは料理人としてのつてがあるのだろう。
甕に納められた、甘露とでも称すべきその水は、ひんやり冷たい。するとリャンが、小さな別の甕を持ってきた。黒々とした蜜が、たっぷりと詰まっている。医者が中身を見て、眼を見開いた。
滋養に良いと言われる苑州の地蜂の蜜は、この小さな鉢でも小金が飛ぶと言う。長く歓楽で町医者を務める身の上であっても、目にすることは出来ても、口にはできない幻の品だった。
「若いころ、風邪をひきかけまして。丁度店が忙しくなる時期でしたので、店主がこれを飲めと押しつけてくれたのです。地蜂の蜜など高級品ですが、店主はどうやらその地方の出身だったようで、二つほど甕にたっぷりと持っていたのですよ。あるところには、あるものですね」
地蜂の取る蜜は、ありとあらゆる花から得られた蜜である。それは熟成され、複雑な味わいと風味を得る。
大体は薬として扱われるので、味は悪い。しかしごく一部、苑州の地蜂の蜜は、何故か不思議と甘いのだ。多様な種類の花では無く、苑州の名物である金紅花という花の群生地。そこに住む地蜂の蜜は、こんな上等な甘みを持っていた。
売れば、かなりの額になることは、確かだろう。だがそれ以上に、コウが受け付けたということは、大きな収穫だった。
「薬湯と合わせて、これも飲むとよいでしょうな。診たところは、果物程度なら食べても大丈夫でしょうし」
「本当ですか? なら、丁度よかった。馴染みの御大事様が、甘蕉を持ってきて下さったのですよ」
甘蕉。
別名を、実芭蕉。ようは、バナナのことである。南方でしか育たぬ特別な果実で、見た目はすらりと細く三日月型。黄色く分厚い皮をむくと、ねっとりとした果肉が姿を現す。甘くて、ほくりとした食感であり、そしてとても栄養があると評判だった。
無論値段はべらぼうに高く、それを持ってくる御大事となれば、さてどのような客か。詮索したくなったが、医者は問いかけた口を閉じる。この街では知らないままでいた方が、良い時もあるのである。
「それは良かった。……ところで、街の皆が噂をしておりますが、何か困ったことは起きておりますでしょうか?」
問いかけられ、メイが大きく頷いた。
噂、と言われると、一つしかない。紫水楼のセイランさまに、逆恨みによる呪いがかかったと言う噂だ。
「あの噂でしょう? 真っ赤な嘘、と言いたいところなんですが……奇妙な鳴き声がするのは、本当の話なんです」
「なんと」
その声を最初に聞いたのは、メイだった。
夜更けになるまで、コウの看病をしていたメイ。明け方、うつらうつらとしてしまい、その突然響いた声で眼を覚ました。
ぎゃん。
最初は、空耳かと思うような、汚らしく不快な響きの声だったと言う。もう一度寝なおそうとすると、また。
ぎゃん。ぎゃん。
二回も聞こえては、嘘とも思えない。恐る恐る離れの外へと出てみたが、なにも居なかった。まだリャンが働いているだろうか、とそっと厨房を窺ったが、流石に日が落ちている。厨房の奥の一間に布団を敷いて、すうすうと寝入るリャンも居るが、こちらはつかれているのか起きる気配が無い。
「それで、まあその時は、何か猫が喧嘩でもしたのかと思って寝てしまったんですけど……」
困ったことに、この珍妙な鳴き声は毎晩のように聞こえるありあさま。眠り込んでしまえば気にならないが、夜も遅くまで起きているものが多い、歓楽の街である。セイランさまの離れから聞こえる謎の声は、早々と噂になってしまった。