瑠州の花街。歓楽。
その北方で、高級男娼だけを扱う老舗。それが、紫水楼(しすいろう)である。
銀を片手に盛るような金額が、一晩で吹き飛ぶ高級男娼。その中でもとびきりの上玉として有名なのが、名高きセイランさま。美しさは伝説の遊女である芙蓉に例えられ、ちらりとも変わらぬ静謐な眼差しがぞくぞくと美しい。詩(うた)を読めば軽やかで荘厳、筆をとらせれば字も上手く、数々の知識人と同等に渡り合える囲碁将棋の腕もある。
そんな美しき彼には今、珍妙な噂が付きまとっていた。
夜更け。
人気の無いセイランさまの暮らす離れから、酷く奇妙な鳴き声が聞こえるという。
ぎゃん、ぎゃんぎゃん。そんな、擦れて伸びた、奇妙な声が。
おおよそ人が聞いたことの無い声は、近くの他の店にも届いていた。噂はすぐさま広まる、ありとあらゆる人種のるつぼ、それが歓楽である。
紫水楼に取りついた怪異は、人々の口にかましく登ることとなった。
事の始まりと噂されるのは、彼に入れ込んでいた、とある地方官僚。
セイランさまへと、異様なまでに入れ込んでおり、三日と日をあけず来る始末。あまりの入れ込みように、実は賄賂か横領をしているのでは? と睨まれていたが、本当にそうだったらしい。左遷が決まり、人々は声高く噂をし合った。
何しろ、瑠州の歓楽に暮らす人々にとって、セイランさまは大切な存在。
名だたる官僚からも御指名の入るセイランさまは、ともすれば楽しみの溢れる歓楽の街を、政治の力で押しつぶすという悲劇から、自然と街を守っているのだ。彼が暮らしやすいようにと、こっそりと目をかけている国の官まで居るという。
さてはて、そんなセイランさまに、横領をするような官僚がついていたとは、頂けないお話。
瑠州の上層部は、その地方官僚をあっさりと左遷させたのであったが、一つ事件が起きてしまった。
彼は左遷される前の夜に、まるで恨み事でも抱えるように、酷く強い薬を手に入れてセイランさまに無体を働いたのだ。数日寝込むほどに激しくいたぶられ、可憐な石楠花(しゃくなげ)が踏みにじられたように倒れるセイランさま。馴染みの絵師によって描かれた、それは美しい絵。その絵が出回った直後から、ますます地方官僚への非難の声は高まった。
そして、左遷どころか、官吏としての仕事をはく奪されたという。
夜更けに聞こえる、恐ろしき声。何か太夫は、魔物に取りつかれたのか。
だとすればかの者の逆恨みが原因だと、人々は噂するのである。
噂は早い。歓楽の街なら、なおさらだ。たったの五日で、噂は街のいたるところで囁かれることになる。
しかし当のセイランさま。ぐったりと床にふせったまま、噂を聞く元気さえ無かった。
ふつふつと額に玉の汗を浮かべ、男がのこしていった媚薬の副作用に、耐えるほかないのである。
なんとか熱だけは下がったものの、食欲が出ない。食べたものは果物以外は、片っ端から吐き戻してしまう。唯一、水と薬湯は飲み続けているが、薬湯では体力がつかない。
「……コウ様」
そんな姿にうろたえたのは、何も御付きの少年であるメイばかりではない。料理をことのほか大事に考えているだけで、人並み以上に気配りもできるリャンは、雇い主の惨状に大いにうろたえた。ただそれを目の前で見せないのが、リャンである。
料理人は料理のことだけしか考えられぬ。世話は全てメイに任せたが、それでも彼なりに心配を表そうとしたらしい。
小さな吸い飲みに入れてよこされた水は、香りからして普通の水と違っている。
固形物を上手く食べられないコウに、せめて身体に栄養を、とリャンが作ったものである。
「コウ様。リャンさんが、なにやら特別な水を作ってくださいましたよ」
ゆっくりと目を開けた太夫……コウは、口を開く元気もあまり。
薬を飲まされ、散々抱かれ、様子がおかしいと警備の男たちが入るまでに、流血まで起きていた始末。節々が痛み、風邪ではない熱に苦しみ、すっかり彼はやつれている。
いくら熱が下がったとはいえ、もう丸五日も、まともに食事をしていないのだ。艶を失った皮膚は、青ざめている。
そのあまりの傷ましさに、メイは胸が張り裂けそうなほど、辛い思いをした。
「どうですか? 少しだけでも、口に含まれてみては」
恐る恐る尋ねるメイに、コウは小さく眼で頷く。とはいえ、言葉で返すほどの元気は無い。日に三度の薬湯が精一杯で、それ以外は床に伏して浅い眠りに魘される日が、もうしばらく続いていた。熱が無いのが救いだが、起きあがるほどの体力が無い。食事をするほどの、体力が戻らない。
食べなければならぬが、食べられないのだ。リャンの作る粥さえ、時には口に入らないありさまなのだ。それもあって、リャンは特別な水を用意したらしい。
僅かに、コウは唇を開いた。
反応が返ったことにホッとしてか、メイはいそいそと小さな吸い飲みを取り出す。細い注ぎ口がついた椀で、中には甘い香りの水が入っていた。
「ゆっくり、飲みこんでくださいね」
淡い桜の唇が、そっと注ぎ口を食(は)む。
そろそろと流れ込んだ水の味わいに、ここ数日見られなかった微かな変化が、コウの顔に起きた。