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第2話

 紫水楼の夜は遅く、朝はそれなりに早かった。


 台所で手際よく朝食を作るリャンの手元に、迷いは少しもない。


 手際良く切り分けられる菜っ葉。

 朝の市場から買いつけられた、ぷりっと太い魚。新鮮な卵は、この小さな離れの裏で飼われる鶏のもの。


 堅いタコを作った手が、それらをさっさと手際よく、美味しい朝食に仕立てていく。

 竈には、炊きあがるお粥。良い出汁の匂いは、惜しげも無く使った、干したホタテの貝柱のおかげだ。微かに金に光るスープが、満ちていることだろう。


 大きな魚は旬の魚か。丁寧にばらされて、うちの一つは表面を炙られて、冷水につきこまれている。

 他の部位もそれぞれ処理を施され、揚げ物とでもするのか、味を含めてる最中のようだった。


 はふう、と思わずため息こぼし、メイという名の少年は男の手つきに見とれた。


 包丁を扱う、一連の動き。この紫水楼しすいろうには滅多に居ない、がっしりとした男らしい体つき。幽玄な美を求めてくる客には、人気の出ないだろう、男くさく精悍な顔つきは、朝の空気のように清廉な緊張感をたたえている。


 十日ほど前からここに勤める料理人。リャンの姿をどこかとろけた表情で見つめていたメイは、ややあって自分の仕事を思い出す。


「リャンさん、おはようございます」

「ああ、おはようございます、メイさん」


 微かに笑みを浮かべたリャンに、メイは慌ててぺこりと頭を下げた。


 メイは今年で二年目となる、コウこと、セイランさまの付き人である。


 くるくると変わる表情と、利発そうな顔つき。異国の血が混じる為に、キラキラと輝く金糸の髪を持つ、まるで人形の様な紅顔の美少年だ。


 セイランさまの付き人になるには、それなりに厳しい条件が付きまとう。そもそも、太夫の付き人になれるということは、それだけメイが店から先を見込まれているからだ。大夫につけられる新参者は、いずれ楼の中でも上位の者になる。高級男娼しか扱わない紫水楼は、メイのように見込みがある少年だけを雇う。

 実際、セイランさまにつけられた新参者は、メイ以外に居ない。


 老舗である紫水楼の男娼は、誰も彼もが一定以上の教養を持つ。


 それは地方の官僚にならすぐ取り立てられるほどのもので、紫水楼の売りだ。権力も地位もありそうな美しい男娼たちが、己の下で咲き乱れるのを、喜ぶ男は多かった。中には、張り型を使ってくる女性客もいる。


 その教養を得るために、メイは実家からここへ入れられた。その珍しい金の髪と、色とりどりのような表情を見込まれて、セイランさまへと付けられた。

 ただ、未だに客は取っておらず、手ほどきもセイランさまからしか受けていない。


 男娼たちは、店の主人から育てられることもあるが、紫水楼では先輩男娼が後輩を育てる方法を取っていた。故に、メイの初めての相手は、名高きセイランさまとなったのである。


 それはメイの、ひそかな自慢であった。

 尊敬し、敬愛するセイランさま。酷く美しく、儚げで、この世のものと思えぬ美貌を放つこともある、孤高の麗人。



 そのセイランさまが選んだ、料理人。



 最初の内は他の料理人とどう違うのかと睨んでいたが、それは三日で変わってしまった。セイランさまの彼への構いぶりが、気に入っていると周囲に教えるようなものなのだ。

 少し乱暴な口調で言うこともあるが、遅いなどと言った後に酷く落ち込んでいる様を見せられては、メイもどうでもよくなる。

 セイランさまが気を許しているから、ちゃんと料理人として認めたのだ。



 決して、その料理のうまさに絆されたわけではないと、メイは思っている。



 かと言って、美味しくないとは、口が裂けるどころか、そんな言葉を思い浮かべることすらできないメイであった。


「コウ様なんですけどね」

「今日は、食べられなさそうですか」

「……はい」


 分かっていたらしい。頷いたリャンは、視線をまな板へと戻す。


 彼は、昨日の夜の内に塩漬けにした蕪を綺麗に切りながら、続けた。


「昨日の夜のお客様は、大変に長いことこちらに居ましたから。夜食も用意しておきましたが、手をつけてらっしゃらなかったようですし」

「起きていらしたんですか?」


 軽く目を見張り、メイは思わずそう言っていた。


 昨晩、セイランさまを買ったのは、馴染み客の薬問屋の若旦那だ。


 薬問屋と言うだけあって、高価な媚薬も持ちあわせる彼は、毎度毎度セイランさまを抱きつぶしてしまう。若旦那自身の体力があるわけでなく、感じすぎて耐えきれず、太夫が毎度気を失ってしまうのだ。

 若旦那が来た次の日は、昼を過ぎないと起きあがれない。良くある話だったが、馴染みの若旦那を断るわけにもいかず、主人も困っていたりする。


 かなり遅く帰った若旦那は、朝靄が立ち込める頃に帰っていった。気絶した太夫を綺麗に拭きあげ、寝台に寝かせ、ようやく片付けも済んだ頃。



 もしや、リャンは朝食を用意してしまったのではないか。



 こうしてメイは慌てて、リャンに声をかけに来たのだ。杞憂に終わったわけだが、今度はリャンが寝不足なのではないかと、不安になってしまう。


「はあ、まあ。早く起きたという方でしょうか?」

「そうでしたか。……まあ、そんな事情なので、私とリャンさんのぶんだけで結構です」

「はい。気にかけてくださったこと、嬉しく思いますよ」


 新参者であるメイにも、リャンは丁寧に応じてくれる。これまで来た料理人は、メイのことを小間使いか何かと思っているらしく、色々と不作法も多かった。

 紫水楼の主人としては、堪らなかっただろう。料理で例えるならば、新鮮で生きの良いうまい魚を、適当に扱われるも同然なのだから。


 なにごとにも実直なリャンは、事実、慕われ始めていた。一日中料理をこしらえたり、コウのために動いているので滅多に外に出ないが、買いつけなどで外出すると他の高級男娼にも巡り合う。彼らは、コウも含めてだが、自分達の容姿にちらりとも靡かないリャンが、珍しいのだろう。

 それに同じ料理人でも、フェイとは全く違う精悍な顔つきは、男娼たちをときめかせる。中々に、男前な顔立ちなのだ。


 どうせ抱かれるのならば、リャンのような凛とした男の方が良いという男娼は、かなり多いのだ。


 しかしそのたびに、メイは思うのだ。

 この実直な料理人をまず手に入れたのは、セイランさま。色目を使うなど恥を知れ、と。


「リャンさん、今日の朝食はなんですか?」


 ただ、メイも馴れ馴れしくしてしまっていると、そんな思いは在る。これは今後の為だと己に言い訳をしながら、メイはそう尋ねた。

 リャンの作る食事が美味しいことは、ここ数日で分かりきっていたのだ。彼は謙遜するが、正直ここの料理人あるフェイよりも、美味しいのではなかろうかとメイは考えている。


「今日は、春の菜のお浸し。茄子と牛蒡の汁物に、ホタテ出汁のお粥です。生卵が手に入りましたから、そうですね。メイさんは、半熟が良いですか? それとも堅くなるまで煮込みましょうか?」


 絶妙なところを聞いてくるリャンに、メイは笑顔で答える。


「半熟で! あ、黄味は潰さないでください」

「分かりました。では膳を用意しますから、少々お待ちを」


 手際良く盛りつけを済ませるリャンの横、メイはそれを待つ。

 専属の料理人であるリャンとメイは、何時も太夫の暮らす部屋の外。小さな居間のようなところで、膳を並べて食事をしている。置かれた膳の前に座布団を用意して、お茶を入れるのはメイの仕事だ。


 赤い小さな小鉢には、春の菜のお浸し。薄く薄く削られた鰹節がかけられ、出汁をうっすらとかけられている。

 その手前に、面を取られて四角い形にされた茄子。そして牛蒡が入れられた、味噌を使った汁物。こちらは、木の椀に注がれている。

 それから分厚い木の板の上に、一つずつ置かれた小鍋。蓋を開けば、言った通りに半熟の卵が、つやつやと黄味を輝かせ、ホタテ出汁の柔らかな色合いの中に鎮座していた。顔に当たる湯気すら舐めまわしたいほど、良い香りがする。

 添えられているのは、塩漬けの蕪である。


「美味しそう……」


 思わず、ぽつりと呟いたメイに、リャンが微笑みを浮かべる。


「昨夜のコウ様への夜食を、少々作り変えたのです。昨日御出しするつもりでした、杏仁もございますよ」

「杏仁! 食べたいです!」


 リャンは、料理だけでなく、菓子も上手だ。蕩けるような舌触りの杏仁は、メイの好物で、同時にコウも大変に好んでいた。

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