とぷりと、宵の口。
明りを落とした室内に、宙へと飛んだ魚のように白い背が翻る。
「セイラン……」
僅かな明りの中、呼ばれた名に反応する体は、ただただ、美しかった。
長くのばした髪は黒。それはさらさらと身体の動きに合わせて踊り、汗でうすらと肌を彩る。
誰も踏み入れたことの無いだろう、白い雪原にも似た肌のきめ細やかさと言ったら。
顔立ちは女性とも、少年とも、少女とも、男性とも、何とも言えぬ中性的なもの。
絢爛豪華な花鳥風月の衣装を身にまとい、静かに微笑んでいる。
己の身を視線で暴こうとする不埒な客にも、セイランの目は慈愛に満ちていた。
褥に、2人のみ。そっと手を差し伸べた
「ああ、素晴らしい時間だったよ、セイラン。……また頼む」
そう言い遺して、男はそそくさと部屋を出た。余韻を楽しむ、そんなそぶりすらない。
まあこれ以上いれば、男は倍額の料金を取られてしまう。
それまで愛しげに見ていた男より、金か。そう思いながら、しかしこれが自分の商売と思いなおしつつ、セイランは身を起こした。
「メイ。メイったら」
「はい、セイランさま」
控えていた、見るからに下働きと言った風情の少年が、さっと傍に寄る。
「お湯用意して。着替えも。あと、リャンを呼んで」
「いつもの通りですね。かしこまりました」
外に出ていった、明と呼ばれた少年が消えてしばらく。
入れ替わりに、1人の男が入ってくる。料理人であることをしめす、前掛け。腰にまわした革の鞄には、包丁が差し込めるように刃の形をしたケースが連なっていた。しかし今は包丁は1本も携えていない。
顔つきは精悍。たくましい腕はなめらか。ところが、ありそうな体毛が一本もない。長時間鍋の傍にいるせいで、彼の腕の毛はほとんどが消えてしまったのだ。
35歳を今年で数える男……リャンの相貌には、どこか年齢に似合わない迫力があった。頭巾の中にきっちりと収めた若白髪の頭髪も、顔つきのいかめしさを増す要因になっている。
「お呼びですか、セイランさま」
「今日はもうお客さん居ないから、何か甘いのちょうだい」
手短に要求を伝えると、分かっていると男、リャンは頭を垂れた。
メイが戻ってくるまで、少年であり、セイランさまであり、そして本名はコウという彼は、しどけなく横たわる。
先ほどまで相手をしていた男の熱が布団に残るのが気持ち悪いが、夜も遅くてどうにも眠い。
「今日は何かな」
先ほどまでとは打って変わり、楽しげに笑みを唇に乗せ、彼は呟く。
先ほどの男、リャンは、コウの専属料理人。
一仕事終えて、しどけなく寝台に寝転がるコウは、ぷくりとふくれっ面だ。相手にしていたのは、行為が下手な方から数えるのが早いほどに、下手な男。金を払っているからと、コウを良い様に弄んで、気持ちいかなど何も気にしないタイプの男だった。
そんな相手はこちらから願い下げだが、悲しいことに上手な客ほど、良く来ない。
「リャン、ねえ、リャンったら!」
どこかむしゃくしゃしてしまい、コウはセイランさまとしての佇まいを脱ぎ捨てる。奥の隠し扉がかたんと開き、リャンが姿を現した。
その手には、ちんまりとした、
「遅い!」
そう言ってしまってから、可愛らしくもコウは、それを後悔した。リャンに落ち度など、どこにもない。
けれど気を悪くした訳でもないのか、コウの気持ちを知っているのか、リャンは小さく頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。……改めまして、お疲れさまでした。喉が渇いていませんか?」
差し出される瑠璃の器。
興味津々でコウが受け取ると、それはどこかひんやりと、冷たかった。
中には、真っ白なものが、糖蜜らしいものをかけられて、ふるりと鎮座している。
「これ、何?」
「コウさま、失礼いたしました。セイランさまが……」
「コウでいいよ。今日はもう、客来ないから」
一度深く礼をして、リャンが言い直す。
「コウさまが書かれたレシピの内に、豆腐に蜜をかけて食べる、といったものがありましたでしょう? 南方の屋台ではよく食べられているものでして、本当はもっと温かくして、生姜入りの蜜で食べるのです。ですが少々趣向を変えて、冷たく、それでいて美味しく食べれるようにしました」
促されるままに、コウはそっと銀の匙を、その白いものへと入れる。
ぷるり、香り、ほんのり。
ちょっとだけ盛って口に入れると、簡単に舌で潰せるほど、滑らかであった。味わいは豆腐だが、とても柔らかい。さわやかな甘み、少しだけ酸っぱい。それが喉を微かに潤して、疲れた体に染みいる。
への字だった口元が、たちまちほころぶ。
「美味しい! ねえ、何これ?」
「豆腐をゆっくり、ゆっくり固めたのです。とても柔らかでしょう?」
「やっぱり豆腐なんだ。でも、甘いし、少し酸っぱくて、柔らかくて……」
嬉しそうに微笑んだコウに、リャンも微笑む。
これが、リャンを雇ってからの、コウの日課の様なものだ。
三食以外にも、一仕事終えると必ずリャンが何か出してくれる。こういった甘味が多いが、何が出るのかと、コウはいつも楽しみにしている。
紫水楼の雇われ料理人。リャンの夜は、そうして終わっていくのであった。