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第1話


 とぷりと、宵の口。


 明りを落とした室内に、宙へと飛んだ魚のように白い背が翻る。


「セイラン……」


 僅かな明りの中、呼ばれた名に反応する体は、ただただ、美しかった。

 長くのばした髪は黒。それはさらさらと身体の動きに合わせて踊り、汗でうすらと肌を彩る。

 誰も踏み入れたことの無いだろう、白い雪原にも似た肌のきめ細やかさと言ったら。

 顔立ちは女性とも、少年とも、少女とも、男性とも、何とも言えぬ中性的なもの。

 絢爛豪華な花鳥風月の衣装を身にまとい、静かに微笑んでいる。

 己の身を視線で暴こうとする不埒な客にも、セイランの目は慈愛に満ちていた。


 褥に、2人のみ。そっと手を差し伸べたに向けて、セイランが微笑んだ。その時だった。


「ああ、素晴らしい時間だったよ、セイラン。……また頼む」


 そう言い遺して、男はそそくさと部屋を出た。余韻を楽しむ、そんなそぶりすらない。


 まあこれ以上いれば、男は倍額の料金を取られてしまう。


 それまで愛しげに見ていた男より、金か。そう思いながら、しかしこれが自分の商売と思いなおしつつ、セイランは身を起こした。


「メイ。メイったら」

「はい、セイランさま」


 控えていた、見るからに下働きと言った風情の少年が、さっと傍に寄る。


「お湯用意して。着替えも。あと、リャンを呼んで」

「いつもの通りですね。かしこまりました」


 外に出ていった、明と呼ばれた少年が消えてしばらく。

入れ替わりに、1人の男が入ってくる。料理人であることをしめす、前掛け。腰にまわした革の鞄には、包丁が差し込めるように刃の形をしたケースが連なっていた。しかし今は包丁は1本も携えていない。

 顔つきは精悍。たくましい腕はなめらか。ところが、ありそうな体毛が一本もない。長時間鍋の傍にいるせいで、彼の腕の毛はほとんどが消えてしまったのだ。

 35歳を今年で数える男……リャンの相貌には、どこか年齢に似合わない迫力があった。頭巾の中にきっちりと収めた若白髪の頭髪も、顔つきのいかめしさを増す要因になっている。


「お呼びですか、セイランさま」

「今日はもうお客さん居ないから、何か甘いのちょうだい」


 手短に要求を伝えると、分かっていると男、リャンは頭を垂れた。

 メイが戻ってくるまで、少年であり、セイランさまであり、そして本名はコウという彼は、しどけなく横たわる。

 先ほどまで相手をしていた男の熱が布団に残るのが気持ち悪いが、夜も遅くてどうにも眠い。


「今日は何かな」


 先ほどまでとは打って変わり、楽しげに笑みを唇に乗せ、彼は呟く。

 先ほどの男、リャンは、コウの専属料理人。


 一仕事終えて、しどけなく寝台に寝転がるコウは、ぷくりとふくれっ面だ。相手にしていたのは、行為が下手な方から数えるのが早いほどに、下手な男。金を払っているからと、コウを良い様に弄んで、気持ちいかなど何も気にしないタイプの男だった。

 そんな相手はこちらから願い下げだが、悲しいことに上手な客ほど、良く来ない。


「リャン、ねえ、リャンったら!」


 どこかむしゃくしゃしてしまい、コウはセイランさまとしての佇まいを脱ぎ捨てる。奥の隠し扉がかたんと開き、リャンが姿を現した。

 その手には、ちんまりとした、瑠璃るりの器と銀の匙。


「遅い!」


 そう言ってしまってから、可愛らしくもコウは、それを後悔した。リャンに落ち度など、どこにもない。

 けれど気を悪くした訳でもないのか、コウの気持ちを知っているのか、リャンは小さく頭を下げた。


「申し訳ありませんでした。……改めまして、お疲れさまでした。喉が渇いていませんか?」


 差し出される瑠璃の器。

 興味津々でコウが受け取ると、それはどこかひんやりと、冷たかった。

 中には、真っ白なものが、糖蜜らしいものをかけられて、ふるりと鎮座している。


「これ、何?」

「コウさま、失礼いたしました。セイランさまが……」

「コウでいいよ。今日はもう、客来ないから」


 一度深く礼をして、リャンが言い直す。


「コウさまが書かれたレシピの内に、豆腐に蜜をかけて食べる、といったものがありましたでしょう? 南方の屋台ではよく食べられているものでして、本当はもっと温かくして、生姜入りの蜜で食べるのです。ですが少々趣向を変えて、冷たく、それでいて美味しく食べれるようにしました」


 促されるままに、コウはそっと銀の匙を、その白いものへと入れる。


 ぷるり、香り、ほんのり。


 ちょっとだけ盛って口に入れると、簡単に舌で潰せるほど、滑らかであった。味わいは豆腐だが、とても柔らかい。さわやかな甘み、少しだけ酸っぱい。それが喉を微かに潤して、疲れた体に染みいる。

 への字だった口元が、たちまちほころぶ。


「美味しい! ねえ、何これ?」

「豆腐をゆっくり、ゆっくり固めたのです。とても柔らかでしょう?」

「やっぱり豆腐なんだ。でも、甘いし、少し酸っぱくて、柔らかくて……」


 嬉しそうに微笑んだコウに、リャンも微笑む。

 これが、リャンを雇ってからの、コウの日課の様なものだ。


 三食以外にも、一仕事終えると必ずリャンが何か出してくれる。こういった甘味が多いが、何が出るのかと、コウはいつも楽しみにしている。


 紫水楼の雇われ料理人。リャンの夜は、そうして終わっていくのであった。



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