なんと、コウの一年の稼ぎは納めるべき年貢……すなわち借り金の数倍だという。
本当なら、五年がかりで返すはずの借り金が、あっという間に返済されてしまい、主人も最初はどこかへまっとうな仕事を探す様にと勧めた。
「しかし彼は、出ていかなかった。他にもういく場所は無いからと、今もこの店で働いておるのです」
「そのような事情が……」
主人はそれが、可哀そうだと言う。
元々、数も少なく、それゆえに高価な男娼たち。彼らは決して望んでこの世界に足を踏み入れるとは限らない。多くは金に困った親や、借金のカタとして、この世界へ連れてこられる。
足が洗えるともなれば、皆は別の仕事を探しに出て行ってしまうのが大半だ。
けれどあんまりにも小さい頃に売られたせいで、コウは今以外の生き方を知らなかった。
身体を壊すかもしれないと、そう思いながらも主人は、彼を追い出すわけにもいかず、こうして出来るだけのことをしているのだと言う。
「少しでも心の慰めになればよいと、そう思うのです。調理場はきちんとありますので、どうか受けていただけないでしょうか」
リャンに求められた仕事は、3つ。
1つ、コウの求める食事を、彼が求めるだけ作ること。
2つ、彼が特に何も言わなければ、食事を用意して欲しいこと。
3つ、仕事故、コウに手を出すのはご法度。ただし、例外あり。
なるほど、この3つ目の点をどうにかできそうだから、誘われたのか。
そう納得しつつも、例外の意味が分からないリャンは、素直に尋ねた。
「すみません。この例外とは、どう言う意味でしょう?」
「コウの方から、誘ってくるかもしれない、ということです」
どうしようもなく昂る時が、コウにはあるのだという。それは、幼いうちから性的な行為になれさせられたせいであり、哀れな男娼の定めであった。
リャンは、困った。自慢するわけではないが、リャンはとてつもなく料理に一筋で、それこそ未だに女を抱いた試しさえない。実に清らかな天然もの、そのままなのである。
初体験が男であることに抵抗が無いわけではなかったし、できることなら料理に専念させてほしくもあった。
「大丈夫です。コウは手慣れておりますから」
なにやら別の心配をしているらしい主人に、いいえ違うのです、と言うのも気恥ずかしい。
リャンはそのまま黙っていたが、けれど仕事的には心惹かれるものがある。
回数は少ないかもしれないが、自分が思うままに食事を用意できるということだ。
前々からやってみたかったことなので、興味がある。
なすべきか。なさざるべきか。
悩んだ末に、リャンは告げた。
「あのう……そのお話、受けてみたく思います」
「なんと! 本当ですか」
両手を叩いて喜んだ主人に、リャンはこくりと頷いた。
「ただ……その、コウ様とやらに、一度会わせてくださいませんか? どのような料理を求めているか、知りたく思います。もし私の手に負えない料理でしたら、雇い損でございましょう?」
「なるほど。確かに、道理ですな。……おい」
先ほどの使用人が、ぱさりと帳面をめくる。
「本日はもう、他のお客様の入りは断っておきました」
「ならよし。さて、リャン殿。どうぞこちらへ」
おっかなびっくり、リャンは再び、あの離れへと向かう。
そして今度は、扉を開けて部屋へと通された。
香しいかおりがする。いったい何の香りなのか、リャンには見当もつかなかった。
すると嬉しそうな主人の声が響いた。
「コウ。お前のお目がねに叶うかもしれない、料理人を見つけてきたよ。少し会わないかね?」
「えっ、本当ですか!」
聞こえてきたのは、本当に幼げな少年の声。リャンは目を大きく見開いてしまう。
この前まで入らせてもらっていた料亭の、小僧のように幼い声。けれど質は、全く違う。白磁の器に、豆をちりちりと盛ったような。涼やかな瓜を切るような、そんな華やいだ声だった。
「貴方が、そう?」
けぶる様な、おしろいの匂い。ぷるぷるっと震える生娘の様な唇に、黒々とした宝石のような眼。
着物は豪奢な花鳥風月で、真っ赤な襦袢が目にも鮮やか。肌は白く、淡雪のごとき柔らかさ。
それは料理一筋だったリャンが、この世で見たことも無いほどに、可憐で艶やかな美、そのものであった。
なるほど、今なら友人のあの顔も頷ける。さりさりとタケノコを噛んでいた唇が、ちょぴりとへの字に曲がった。それを見て、リャンは慌てて両手をついて頭を下げる。
「初めまして。わたくし、雇われ料理人の、リャンと申します」
「コウ。芸名は、セイラン」
機嫌を損ねてしまったらしい。
つけっどんに言われてしまい、リャンは失敗を悟る。ああさて、どうしたものか。そう思いながら、恐る恐る尋ねた。
「専属の料理人をお探しと聞いております。どのような料理を用意すればいいのでしょう?」
彼……コウは、煌びやかな着物で口元を隠しながら、ううんと考える。そのしぐさ一つが、なんと様になるのであろうか。
「……どんなって?」
「ええと。コウ様は、献立をおつくりになられるとか。私としては、その献立に沿って作っても構いませんし……ひえっ!?」
突然だった。
リャンがそう言ったところ、コウは身を乗り出してきたのだ。花の様な香りが立ち上がって、思わずリャンは身をすくめる。きらきらと瞬く、黒真珠のごとき眼。それはどこか、嬉しげだった。
「本当に俺が考えたもの、食べさせてくれるの?」
「は、はい。ただ、あまりにも私が知らない料理ですと、ご期待に添えないかと思いまして。ですので、どのような料理か、と、お聞きしたかったのです」
するとコウはやおら、リャンの両手を取った。
「俺の料理を作ろうってしてくれるなら、それでいいよ! リャン、リャンと言ったよね、ねえ頼むよ! 俺の料理人になってくれない?」
あまりにも嬉しそうにコウが言うから、リャンは思わず主人の方を見ていた。主人は、何やら納得がいったと頷いている。
「あの……作れないかもしれませんよ?」
「作れなくたっていいさ! 作ろうとしてくれるんでしょう?」
それからコウは、これまで来た料理人のことを、ぐちぐちと言い始めた。
実は、紫水楼のセイランさま、歓楽随一の男娼の専属料理人とあって、その給金は大変に高い。
そのため雇いたい旨を噂で流したところ、我こそはという料理人が多く訪れてきた。
ところが、くる者たちの大半は、自分は何の料理が得意できっと満足するからと言って、コウが考えた献立には見向きもしてくれなかったという。
中には、一目見て、こんな調理法など存在しないと、頭から否定してきた者もいた。
「俺さ、食べることがすっごく好きなんだけど、その……」
恥ずかしげに、上目遣いになったコウ。そーっと出した手には、切り傷がある。手を袖でかくしていた理由であり、そしてその傷はリャンにとって見慣れたもの。
「果物の一つも、満足に剥けないんだ」
「誰か呼べと言っているのですが、聞かないのです」
主人は困ったように言うが、彼の唯一の楽しみを取り上げる訳にもいかないらしい。そうして客に傷を見せないことを条件に、自由にさせているという。
「だから、俺が考えたやつ作ろうとしてくれる、そんな料理人に来てほしかったんだ」
キラキラと、ようやく出会えたとばかりの笑顔で言われ、リャンは話を断れるはずもない。食べられる側から求められたことは、リャンは一度も無かったのである。
それは、リャンにとって、初めて目に見えた自分のお客であったのだ。
「……分かりました。そこまでおっしゃられて話を受けないのは、料理人として恥でございます。わたくしの精一杯を持って、お話を受けましょう」
こうしてこの日から、リャンはコウの専属料理人になると決まった。