いずれくる死の淵で、その手で最後の水を飲ませてほしかったのかもしれない。
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その大陸は、4つの国に分かれている。
その国は、18の州に分かれている。
その州は、20の街と、12の村に分かれている。
州の名は、瑠。国の中心部に近く、しかし風光明媚な艶やかな土地。人を引き寄せ、商売が成り立ち、国一番の繁華街。
瑠州には国どころか、大陸全土に響くことが一つある。瑠州の花街、大陸で一番の、夜の都。
歓楽というその街は、数多の楼閣に数多の妓女。数多の遊びに、数多の文化。坩堝は混沌、大変に賑わっている。
歓楽の街は、四つの区画に分けられていた。
一つは位の低い妓女が客を取る、好きなように使っていい場所。
もう一つは、妓女を専門に扱う店がズラリ並ぶ場所。
そして一つは、瑠州の名物であったり、着物の名店であったり、宝石を扱ったりと、色を売る以外の商売に長けた、食事どころのある観光地。
そして最後の一つ。こちらは男娼や女性であり男である者や、男であり女性である者。つまりところ、やや特殊な人間を求める者だけが集う、まさしく趣味人の街と言うべき場所である。
街の北方に位置するため、北区と呼ばれるその端に、紫水楼という老舗がある。
専門とするのは男娼。
他店と異なり、広大な敷地に小さな離れを数多持ち、その一つずつに男娼を住まわせている。お客は好みの男娼を選んだ後、離れに向かう。離れは小さな家同然だから、やろうと思えばそこで、夫婦の真似事だってできた。
男娼が作る料理を楽しみ、本番の行為などさせずに終わることも、この紫水楼ではよくあること。
それゆえに、紫水楼の男娼は、どれもこれもが一級品。料理も十分、器量よしで話上手。彼らは紫水楼で働くことを誇りとしている。
お勤めを終えた後は、地方の官僚として取り上げられることだって、彼らには珍しくもない話だった。
その紫水楼に、飛び抜けた者がいると言う。
嬉々として語る友人に誘われて、料理人のリャンが紫水楼へと脚を向けたのは、夕刻のこと。今日は満月だろうか、空は澄みきり、蒼く濃い。
街をゆく人々は、猥雑とし、混沌であり、喧しい。誰もかれもが、夜の気配に酔っている。
友人は、リャンとはかつて、職場を共にした者だった。
「伝説の妓女に、生き写し?」
リャンは友人の言葉に首を傾げた。
「男娼なんだろう? 男なのに、伝説の妓女に?」
「おっそろしく美しいって評判でな、紫水楼って言ったら、男娼の中でもとびきりの連中しか揃えてない高級店なんだが、その中でも一番らしい」
けらけらと笑う友人とくぐった、大きな門。静謐な空間、所作の美しい番頭に誘われ、リャンは奥へと入っていく。三度通わねば、実際には触れ合えない、高級男娼。
一目見るだけでも、自慢できるから。
そんな友人の声にせっつかれ、決して安くは無い代金を二人で払う。
リャンも花街には、良く訪れる。けれど客として店に入ることは、まず無かった。
彼自身は料亭などを周りながら勤める雇われ料理人で、この花街にはよく、御大事様が食べる弁当を届けに来るのだ。
腕もよく、どこかの店で料理長も任せられるだろうと周囲からは高く評価されている。けれどリャンは修行のためと、日雇いや短期契約の雇われ料理人のままだった。
黒髪、黒眼、日光ではなく火の気で焼かれた肌。引き締まった体つきに、精悍な顔立ち。今年で35を数えるリャンであるが、若々しさの中にどこか貫禄が漂っている。
女から声をかけられることも多そうな見た目だが、彼自身に浮いた噂は無い。
というより、リャンが女性のいるような場所に行かないのだ。
(ひょっとしてコイツ、男の気でもあるのか?)
友人はそんな風に気を回し、彼を紫水楼へ連れ出汁すことにした。
何しろ、幼くして料理人の才能を見いだされ、奉公に出されてから数十年。
料理に一筋なリャンは、己の仕事に忠実。
忙しい時期となると、良い腕前を持ち、店の勝手もちゃんと分かっているリャンを雇おうと、店同士で話し合いがあるほどである。
けれど、そのリャンにとっても、紫水楼は別格だったらしい。
満足げに頷いていた友人だが、当のリャンは全く違うことを考えていた。
(流石は老舗だ……廊下を行く人の持つ膳に、自然と目が行ってしまうな)
旬のタケノコに、木の芽をまぶしたもの。新鮮な魚を叩きあわせた味噌。薄い緑色の皮に、噛めば溢れる肉汁を閉じ込めたもの。
質素ながら、それは実に美味そうだった。
何時も作る、手の込んだニンジンの鳳凰よりも、リャンはあのタケノコの木の芽まぶしに、心奪われた。
あんな料理もたまには作りたい。自分の心に沸いた思いに、慌ててリャンは蓋をする。
「あれ。リャンさんかい?」
その時だ。
厨房から顔をだした男に声をかけられ、リャンは反射的にそちらを向いていた。
「ああこれはフェイさん。おひさしぶりですね」
覚えのある顔に、リャンは正確に相手の名を呼んだ。少し前まで、料亭で勤めていた、先輩に当たる料理人だ。
嬉しそうに男……フェイは笑みを浮かべて頷く。
「やあやあ、こりゃ久しいね。……男娼なんて、君の趣味とは聞いて、ああ」
リャンの手元を見て、フェイは納得がいったらしい。そこには、買った男娼を示す札がある。色々と察したのだろう。フェイはしたり顔で、頷いた。
「リャン様。こちらです」
もう戻ってきた友人に、リャンは驚く。ほんの僅かな面会時間なのに、ぼんやりと頬を染める友人にも、驚いた。
「……大丈夫か?」
「あ、うん。……うん」
大丈夫では、なさそうだ。おっかなびっくり、リャンは使用人の後ろを歩く。そして通されたのは、一番奥の離れ。格子のような扉の外から、かのセイラン太夫が見えるらしい。
光のさす部屋の中。そっ、と覗き込んで、リャンはふと気がついた。セイラン太夫はどうやら、食事をしているようだ。
その膳に、リャンの目はすっと引き寄せられた。
あの、木の芽がまぶされた、タケノコの膳だ。
黒塗りのほっそりとした箸が、タケノコを摘まむ。ぷるり、と震えたタケノコは、緑の化粧を施され、美味そうに蒸し上がっていた。
すす、と上に持ちあがり、さくりとした歯ごたえを楽しむように、小さな唇が動いている。聞こえる音は、軽やかなタケノコの歯ごたえ。