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第9話

   8


 カウンセラー室は、第一校舎と渡り廊下でつながった、図書館棟の一階に位置していた。


 図書館棟は二階に図書室と司書室、一階には二つの会議室が並んでいて、件のカウンセラー室はその会議室の向かい側にあった。


 図書室なら、この高校に入学してから何度も入ったことがあるけれど、カウンセラー室には一度も入ったことはなかったし、そんなものがここにあるのだということすら認識していなかった。


 本当はそのまま教室に向かうつもりだったのだけれど、一度くらいカウンセラー室を覗いておいてもいいかな、と思い直し、先輩に着いていくことを選択したのだ。


 まぁ、何事も体験だ。知らないよりも知っておいた方が何かの役に立つかもしれない、そんなふうに考えたのだ。


「こっちだよ」

 そう言って、先輩はカウンセラー室のドアノブに手を掛けた。


 かちゃり、と音がしてドアが開き、エアコンのひんやりとした空気が外に漏れる。


「失礼しまぁす……」

 言いながら部屋に入る先輩に続いてわたしも足を踏み入れるも、しかしそこには誰の姿も見当たらなかった。


 普段はそこに先生が座っているのであろう、椅子と机が窓辺にあった。


「誰も居ませんね」


「珍しいな。いつもは何人か人が居るのに」

 首を傾げる先輩に、わたしも首を傾げつつ、

「そうなんですか?」


「うん」

 先輩は一つ頷いて、「まぁいいや」と口にする。

「キミも適当にくつろいでなよ。ほら、反対側、奥の方にソファーが二脚あるでしょ?」


「本当にいいんですか? こんなところに居て」


「大丈夫だよ」

 言いながら先輩は小さく笑い、奥の窓辺に近いソファーに遠慮なく腰を下ろす。

「だって、その為にここにソファーが用意されてるんだから」


「はぁ……?」

 わたしも彼に倣い、恐る恐る隣のソファーに足を向け、

「それじゃぁ、失礼します」

 足元に鞄を置いて、深く腰を下ろした。


 柔らかい背もたれがわたしの背中を包み込み、まるで身体が沈み込むような感じがして、なんとも落ち着かなかった。


 軽く身じろぎして浅く座り、背中が埋もれないように自ら調整してみる。


 ……。

 ………。

 …………うん、やっぱり落ち着かない。


「先輩、いつもここでのんびりしてるんですか?」

「うん、まぁ」

「ひとりで?」

「ううん。ひとりじゃないよ。さっきも言ったでしょ? いつもは他に何人か居るって」


 あ、そっか、と小さく口にして、わたしは部屋の中を見回してみる。


 奇麗な白い壁、教室よりもやや明るめの照明、部屋の片隅には一見して赤ちゃん用のベッドみたいな足つきの台があって、そこには白い砂が敷き詰められていて、家や動物の人形といったいくつかの玩具がいくつも乱雑に並べられていた。


 他にも引き出し付きの棚があって、その棚の上にはCDプレイヤーやコーヒーメーカーなんかが置かれている。


「……いいですね、ここ」


「でしょ?」

 何故か先輩は自慢げに小さく笑った。


 わたしも釣られて笑みを零して――次の瞬間、その笑みが凍り付く。


「あらあら? ふたり並んで仲の宜しいことで」


 いったい、いつの間に現れたのだろう。


「わたしと一緒に登校するのは断るくせに、可愛い年下の後輩とは一緒に並んで登校してくるんですね。へぇ、そうですか、そうですか」


 楸先輩が、口元に笑みを浮かべながら、

「いったいどういうことか、説明していただけますか、シモフツくん?」

 射貫くように、ギロリと先輩――シモフツさん?を睨みつけた。


 シモフツ先輩は目を真丸くさせながら、何だかひどく慌てた様子で、

「せ、説明もなにも、ただ登校するときに体調悪そうだったから声を掛けただけだよ」


 そんな説明に、楸先輩は胡乱な目を向けながら、

「――本当に? 誓って?」


「あ、当たり前だろ? 僕が真帆を裏切ったことなんてある?」


 ふうん? と楸先輩はシモフツ先輩からわたしの方に視線を移動させ、

「……カネツキさんは、シモフツくんと知り合いだったんですか?」


 明らかに疑いの眼差し。


 その詰問してくる姿とシモフツ先輩との会話の内容から、わたしは何となくふたりの関係を悟る。


 これは、ちゃんと否定しておかないと絶対にマズい。


「い、いえ、さっき、初めて知り合いました。その、遅刻しそうだったので走ってたんですけど、息切れしちゃって…… 立ち止まって息を整えてたら、シモフツ先輩が心配して声を掛けて来てくれただけ、それだけです」


「そうですか。それは大変でしたね。ホウキはどうしたんですか?」


「ほ、ホウキは、その――イノクチ先生から、止められて」


「あぁ、なるほど、そうでしたか。それは仕方ありませんね」


 にっこりと微笑む楸先輩の、けれどその眼はやっぱり笑ってなくて。


 これは、早々に退散したほうが良さそうだ。


 わたしはそっと足元に置いた通学鞄に手を伸ばし、腰を浮かせて、

「あ、じ、じゃぁ、わたしは教室に戻りますから、おふたりは――」

 と言いかけたところで、楸先輩は首を横に振ってわたしの肩に手をやり、無理矢理ソファーに座らせながら、

「あぁ、大丈夫ですよ、お気になさらず。どうせ一時間目が終わるまでここで時間を潰すだけでしょ? どうぞ、ここでゆっくりしていってください」


「ま、真帆……?」

 隣のシモフツ先輩も、どこか不安げな表情で腰を浮かせる。


 楸先輩は、そんなシモフツ先輩に左手をかざして。


 次の瞬間、まるで何かに跳ね飛ばされたかのように、シモフツ先輩の身体がソファーの背もたれに深く埋もれた。


「ちょ、ちょっと、真帆!」

「シモフツくんも、どうぞごゆっくり」

「だから、違うって――」


 なおも口を開こうとするシモフツ先輩の口元で、楸先輩はすっと何かを摘まむようなしぐさをしてその指先を横に動かす。


「んん! んむうううう!」


 その途端、まるで口を縫い付けられたかのように、シモフツ先輩の口が開かなくなった。


 魔法だ。魔法でシモフツ先輩の口を閉じてしまったのだ。


 これは大人しく従っておかないと、わたしも同じ目に遭わされてしまうかもしれない。


 わたしは観念してソファーに全体重を預け、そこから楸先輩を恐る恐る見上げる。


 楸先輩は微笑んだまま、うんうん何度か頷いて、

「それじゃぁ、わたしは上の図書室で本でも読んでますから、おふたりは仲良くここに居てくださいね」


 スタスタとドアの方に歩いていって、かちゃりとドアノブに手を掛けたところで。


「あ、でも仲良くしすぎて、間違いなんて犯さないでくださいね?」


 不意にこちらに顔を向け、感情のこもらない無表情で。


「――もしもそんなことになったら、シモフツくんを殺してわたしも死にますから、そのおつもりで」

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