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第2話 ガラスと恋心の屈折率

 警部から一通りの情報を得た後、フランシスたちは少し遅めの昼食をとるため、公園のベンチに座っていた。

 お洒落に無頓着と言ってもいい彼女でも、春らしい色をまとった女性たちが行き交うのを見ればちょっとだけ気持ちが沈む。

 手の中にある、警部におごってもらった苺のクレープの方が自分より余程華やかだ。


 ――クレープは好き。でも今日のお昼はあの美味しいって評判のお店に行ってみたかったのに。


 あれから地面に這いつくばって煤にまみれた髪と極めてラフなシャツとズボンでは、小奇麗な店に入る気にはとてもならなかった。

 そういえばレイモンドのジャケットの袖にも煤が付き、論文で切羽詰まっている時には跳ねている黒髪も、今朝ちゃんと整えられていたのに、少し崩れてしまっていた。


 レイモンドが買ってきてくれたボトルの水を受け取り、横に座るのを眺めていれば視線が合う。


「ありがとうございます……」


 自分で選んだこととはいえ、愚痴のひとつでもこぼしたい気分でいれば、彼の目はほんの少しだけ、面白いものを見るようだった。


「さっきはあれだけ生き生きしてたのにね?」

「……早起きしたんですよ」


 正確には今日が楽しみでなかなか眠れなくて、とまでは言えない。

 唯一残った目元の、アイシャドウの春らしいピンク色がレイモンドをほんの少し残念そうに見つめた。

 学院で実験をするような生徒は、混入を嫌って化粧をしてもごく薄い。私生活でも勉強漬けの彼女が、本や資料、いつでも倒れ込みたい枕を汚すのを嫌ってほぼすっぴんでいる。


 それに気付いたのかレイモンドの目が少し泳ぎ、それからすぐに表情は普段通りの落ち着きを取り戻す。


「どっちの君もいいと思うけどね」

「それは生き生きしてるのと、しょぼくれてる私とですか」

「……勉強熱心で理想に向かって努力する君と、僕のために普段と違う服装をしてくれた君と、かな」


 フランシスから見たレイモンドは、普段、特に人前では口調のわりに表情がそれほど変わらない。彼との言い合いで必死になる自分と違って、いつも余裕があるように見えた。

 だから少しだけフランシスは不安になるし、悔しい気持ちもある。自分だけ一人で喜んだり残念がったり、空回りしているような気がして。


「本当ですか」

「本心だよ。それからさっきの、警部に言った証拠の扱いの件もね」

「……警察組織の鑑識や、協力し合って起訴する検事と違って、法医学者・科学者たちは外部の組織の人間ですから」


 学者たちは依頼されたものの調査と鑑定が仕事だ。捜査権もなければ現場にも出ないことの方が多い。


「現場の捜査も許可がなければ立ち入れず、鑑定を依頼されなければ、全体像もなかなか知りようがない、そんな不完全な立ち位置です」

「その中で君が真摯に向き合うたびに、いつかどこかで救われる人がいる」

「……そのせいで半日ばかりでなく、丸一日のお休みがなくなっても?」


 フランシスは目の前を通り過ぎていくハイヒールの女性に目を細めた。翻るスカートと白い脚が美しくて、今の自分と違いすぎる。


 でも、レイモンドと話していれば自分が「それ」になりたいわけじゃないことも理解している。

 結局今頭に引っかかって離れないのは、ショーウィンドウのガラスではなく、焼け焦げた床に散らばるひしゃげたガラス片なのだ。


「調査はこれで終わりじゃないということ?」

「はい。……気にかかることが」

「知っての通り僕も犯罪に興味がある。僕も僕なりの予想を好きに話すから、君も話せばいい」

「……では、話しますね」


 フランシスは警部から聞いた情報をまとめた。


 三件の盗難事件が起きた家には、いずれも事件の数日前に来客があった。貴族の使用人を名乗ったその若い男は、主人がシャリエの大ファンで、若い頃の絵やそれに関わる物品を探していると話す。

 絵画やまつわる品を確認した男はまた後日と帰り、その数日後に泥棒が入った。

 来客時に家の住民が席を外したのは、いずれもわずかな間で、鍵などが盗まれた痕跡もない。


 盗まれたのは油絵が数枚。三件目ははっきりと家の主がシャリエの古くからのファンだったせいか、スケッチと、彼が昔撮影したという写真のガラス乾板数枚も含まれていた。今は写真もフィルムが主流だが。

 男は目利きができないのだろうか、いずれも市場価値がほぼないものだ。ただ、シャリエのマニアックなファンであれば欲しがる人もいるかもしれない、というもの。


「メイドさんの方は、三件とも名前も髪型も違いますが、髪と目の色、それにほくろの位置は同じ。鑑識の方が現場の指紋を調べているそうなので、午後には結果が聞けるでしょう」

「同一人物だろうね」

「どれも絵画は飾ってありましたが、三軒目のガラス乾板は薄紙に包んだ上で箱に入れ、スケッチと共に二階の書斎に保管してありました。初見で盗めるものと思えません。

 メイドさんが最近そこに立ち入ったのは火事の前日ですね」


 メイドは主人夫婦の喉が渇いたのではないかと、トレイに載せた水差しとコップをふたつ持って来たのだという。

 思い返せば不自然だったと主人が話したのは、妻が一階で編み物をしていたことと、コップにはすでに水が注がれていたこと。


 レイモンドもまた思い出すように続ける。


「水差しとふたつのコップに水を入れて持って来たが、一人しかいないと分かると、水の入ったコップをひとつだけ書斎の机に置いた。

 その後で主人は少し、日課で新聞を取りに行くためにほんの数分、席を外した。入れ違うように、メイドは残りの水差しとコップを持って部屋を出た。

 ……メイドが一階の妻の存在に気付かないとは思わないし、わざわざコップに水を入れてから階段を上がる理由がない。こぼす可能性を考えればね」


 レイモンドは自分の分の、ハムと野菜をくるんだクレープを咀嚼し終えると、考えをまとめる。


「水を出すのは口実か。同時に、君が見つけたように水差しに入っていたのが油なら『注いで出すわけにいかなかった』。では何故油を入れたか……何してるの?」


 フランシスはボトル入りの水を目の前に掲げ、屈曲する水越しにレイモンドの顔を見る。


「これは、ボトルに入った水です。正確にはガラスと水の、ふたつの物質越しにレイモンド様を見ています。そして、少し曲がって見えます」

「光の屈折だね。桶の水に手を入れたりすると、上からでも折れ曲がって見える」

「はい。ものには屈折率があります。このボトルの中にガラス片を入れても存在を認識できるのは、ガラスと水の屈折率が違うからです。

 それで……これは予想なのですが、ガラスと油の屈折率はほとんど同じなんです。だから、光はほぼ真っすぐ通り、透明なモノの境目が認識できません。つまり――」


 フランシスの青い目が、ボトル越しにレイモンドの真剣な目線とぶつかった。


「――透明に見える。乾板の写真はもうひとつのコップの水で流せば像が消える。それから水差しの中にその乾板を入れて、部屋を出てしまえばいい」

「はい」


 ボトルを下ろしてクリームが垂れそうなクレープを急いで食べ終えたフランシスは、水で喉を潤すと、立ち上がった。


「私、気になることがありますので今からもう一度現場に寄ってから、指紋を鑑定しに一度家に帰って、それから警察署へ行こうと思っているんですが――」

「忙しいね。じゃあ行こうか」

「……本当にいいんですか? 今年は忙しくて、去年より論文を書く時間もずっと減っていますよね」

「だから、今日は一日付き合うよ。僕もいずれ現場に立つつもりだから気にしないで」


 ――仕事が理由だけじゃなかったらいいのに。


 つい「別の意味で気になります」と言いかけて、フランシスはまた口を噤んだ。


 ――こんなことじゃ、立派な学者になれない。彼の期待を裏切りたくない。


「……ありがとうございます」


 でも同時に、付き合いたてのまま殆ど変化のないこんな関係がいつまで続くのか、いつまで続けられるのだろうと、不安を感じないでもない。

 ちらりと表情を伺えば、レイモンドはやっぱり落ち着き払っている。

 フランシスがそっと手を伸ばして、現場に戻るまでの少しの間、とレイモンドの指先を摘まめば、やっぱり何でもないことのように優しく手が繋がれた。



***



「燃えたっ……燃えただとっ!?」


 警察署の鑑識課から廊下に出たフランシスたちと警部の目に飛び込んできたのは、やせぎすの老人が恰幅の良い初老の男性に叫んでいる姿だった。


「あれはいずれ買い直そうと思っていたのに……!」

「シャリエさん、うちは質屋じゃありませんよ」

「ああ分かってる、あのとき端金に困って売ったのは自業自得だなんてことはな」


 がっくりと肩を落とし、ショックと後悔を表情に滲ませている老人は、くたくたのジャケットよりずっとくたびれて見えた。


 なるほど彼がシャリエに違いない、とフランシスは納得する。

 警部にも聞いていたがシャリエという画家は、金銭に固執しない種類の芸術家だという。

 名声が上がってからは画商の助けを得られるようになったが、とにかく今描きたいものを描くことが第一で、値崩れなど気にしない多作で多売をしていた、描いて描いて描きまくった画家なのだという。


 初老の男性――燃えた家の主人は学生時代にシャリエの個展でこの絵を買ったのだそうだ。個展にたびたび顔を出せば、知人のような関係になるのだろう。


「それにしたって、『麗しの乙女』と写真を、なぜ今になって……?」

「晩年になると若い頃の情熱が欲しくなるんだよ。この前のあれだよ、『墜ちる空』」

「新聞の芸術欄でも評判でしたね。うちで欲しいくらいでしたが、良い値が付きましたなあ」

「それで小金が入ったが、あれを描いたときに昔の絵がどうしても見たくなった」

「ああそれで」

「あんたのところにある一枚ならいつでも見れる、買い直せるかもしれないと思ったが、まさか燃えるとは……!」


 フランシスは、レイモンドと、それから案内してくれた警部と顔を見合わせると、二人に近づいた。

 家に寄ったついでに普段着に着替えて煤も拭ってきているので、安心して声が掛けられる。


「失礼ですが、写真には何が写っていたんでしょうか」

「モデルの女だよ、『麗しの乙女』の――ああ、売れない女優の。私もあの頃は同じように売れない画家で、練習のために安い金で引き受けてくれるモデルを探していた。

 売れてはなかったが、なかなかいい表情をする女優だった。それでスケッチを何枚も書いた。出来のいい油絵がいくらか描けて」

「四枚でしたよ」

「そう四枚、うち二枚はこいつが買ってくれたんだ」


 シャリエは語りたいタイプの芸術家でもあったらしい。あるいは、燃えたことを知って気持ちを整理したいのかもしれない。

 フランシスもレイモンドも、警部から聞いて知っていた。他の二枚は、そう、二件の盗難事件で盗まれたものだった。


「もし覚えているようでしたら、モデルの方の名前は?」

「はっきり覚えている。エイミー・ペンドリーだ。赤みの強い茶色の髪が生命力を感じさせたな」

「……やっぱり」


 フランシスが呟けば、警部が目つきを鋭くした。


「例のメイドが初めて名乗ったのと同じ苗字か? ……それで何がやっぱりなんだ?」

「……警部、少しお待ちください。……シャリエさんかご主人の家に、同時期に……エイミーさんがその場にいた時に描いていた油絵は残っていませんか。どうしても必要なんです」


 ――幸い、主人はシャリエの描いたという小さな風景画を二階の書斎に飾っていた。

 フランシスはその絵を鑑識課に届けてもらうと、すぐに顕微鏡でくまなく調べ始める。


「……家の一階と二階の壁と手すり、それにガラスの水差しにはよく似た二つの指紋が残っていました。

 先程結果がでましたメイドさんの指紋と、ご家族以外の指紋……おそらくもう一つの、訪ねて来た若い男性のものです」

「よく似た、か。指紋は大きく分けて三つだったな、渦状紋、蹄状紋、弓状紋。民族で割合に偏りがある」


 といっても、偏り程度で犯人を決めつけることはできない。


「線の特徴や深さの一致などで――損傷がない限り生涯変化しないと言われているので、高い精度で犯人が分かります。

 そして近年、汗孔が顕微鏡で観察できるようになってからは、更に指紋照合の精度が高まりました」


 フランシスは顕微鏡を真剣に覗き、分厚く塗られた油絵の具でできた山脈を凝視する。


「指紋は付いた場所や現場、手の状態ですぐに消えてしまう場合もあります。でも、条件によっては数十年残っていることもあります」

「たとえば、乾く前の油絵を触ったりも含まれる、か」


 レイモンドの声にわずかに緊張感が混じる。


「同じ部屋で描かれて油絵に残る指紋が、シャリエさんともう一人あれば――ありました。このかたち、おそらくエイミー・ペンドリーさんでしょう」


 顕微鏡から顔を上げ、フランシスは笑顔を浮かべる。

 細かい照合をする必要はあるが、これであの若い男性の正体に迫ることができる。


「指紋は双子でも細部は違い区別がつきます。逆に言えば、血縁関係である程度似ているということです。

 よく似ている指紋が“みっつ”となれば、それは偶然とは言えません。三人はおそらく、祖母とお孫さんの関係です」


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