黒衣の魔法使いは、特別実習棟の屋上に浮遊していた。高等部から初等部の三校舎と渡り廊下でつながるこここそが、学園の中央だった。各校舎は三角形を構成し、外側に向かってひとつずつグラウンドを要している。グラウンドの合間には、体育館や部室棟が鎮座している。グラウンドの外側には桜並木が三周、渦を描くようにして外縁部につながっている。この桜並木は『通学路』とかくやが称したもので、男子寮女子寮に徒歩で向かうには、桜並木を三周も歩かねばならないのだ。生徒たちに通学路という日常を与えたかったのだろう。学園長の理念と配慮には理解を示しつつも、かぐやは浮遊魔術でショートカットをしがちだった。
さらに外側は資材置き場や工場などが接地されているエリアだ。とはいえ、敷地の範囲に比べると必要な施設数はさほど多くないので、現時点では空き地が多い。
ここでようやく学園外周を囲む壁がある。――さらに外。かぐやは探査の魔法を広げる。
学園の周囲に広がる荒野には、人工物どころか草木、岩さえもない。包囲は簡単で侵入が難しい。炎群は既に通過した後だ。
炎群がかぐやを一瞥した。かぐやは視線を返すだけで、炎群の侵入を許した。世界最強はかぐやの手には負えない。風吹の裁葬幕を憑依している並人に任せるしかない。
問題は残る二名の変身戦士。瞬木静空と瞬木萌芽。つい先日まで炎群とともに学園で生活していたのだが、会話どころか挨拶もできなかった。相手もこちらの名前を認識はしていないだろう。思い返してみれば、炎群は風吹をはじめとした仲間を、学園側と接触させるつもりが最初はなかった。最終的に決別する可能性を感じていたというのならわからなくはない。奇妙なのは、風吹だけを残し学園を離れたことだ。シオンをどうするか、付き合いが禁じられていた風吹の方がフラットな判断は下せる。それは正しい。だが、風吹がどのような判断をするか、炎群が想像していなかったなどあり得るだろうか。――そんなかぐやの思索は状況の変化で霧散した。
高等部グラウンドで、爆発が起きた。炎群は既に変身態だった。並人が変身したのだろう。
学園周囲の荒野に二体の反応を感知。音速を優に越えた速度で、両者は高等部グラウンドを目指し接近する。かぐやは魔法の詠唱を開始した。『
桜唇より紡がれた勅命によって、周辺の精霊が職務を遂行する。生み出されたのは名前の通り、火炎で紡がれた弓と矢である。
狙いを定めたのは、二人の内一方――背の高い方である。こちらの名前は静空。黄金の滝と比喩しても何ら過剰とは思えないだけの光輝を放つ金髪。揺らがぬ意思が込められた碧眼と空色の甲冑は、西洋の騎士のようであった。美しい少女だが、そこに儚げな印象はない。彼女はきっと、ドレス姿よりも甲冑姿の方が美しさを増すのだろう。
かぐやの放った業火の矢が、甲冑姿の少女に向かう。彼女は奇襲に動じる様子もなく、抜剣してその火炎を打ち払った。隠れるつもりもない。直線的に放った魔術。故に甲冑姿の少女もかぐやを目視した。絡みあう視線。されど、静空は警戒し、足を止めるだけ。
「しゃらくせぇ、奇術師か――!?」
その声はもう一方――小さな方が上げた。恐らく、丁寧な口調で話せば、きっと上質の弦楽器を思わせる声だろうと想像ができるものの、粗野な言葉遣いの所為で子猿の威嚇のように聞こえる。金髪のツインテールに黒基調のゴスロリドレス。年齢は一〇に届くかどうかというところ。顔立ちこそ可憐だが、浮かぶ表情は田舎村のガキ大将のようである。声も容姿も、天与の才を無為にしているが、それが何故か彼女らしいと思わせる――そんな少女が萌芽だ。
萌芽は直線的にかぐやの方へ向かって走る。
「萌芽! 迂闊に動くな!」
──いいや、迂闊な方が正解であることもある。かぐやはそう思いながら笑った。
慎重で冷静な性格。そうでなくては、かぐやに勝ち目など一分もない。
「オォォォディィィン!」
蓬ショーコが事前の作戦を忠実に実行した。巨大ロボット――神槍機オーディンが初等部グラウンドに降り立った。と、同時に巨大ロボの両肩部にあるキャノン砲が火を吹いた。弾丸がまず狙いをつけたのも、打ち合わせ通り――かぐやに接近しようとした相手。つまり、萌芽だ。萌芽は持った矛で、対人火器とは到底思えない弾丸を弾く。だが足を止めさせられ、不意を突いて体勢を崩せた。
援護に回ろうとする甲冑姿の少女――静空。かぐやは詠唱を簡略化した雷撃魔術を放ち、静空の警戒を自身に向けさせる。
音より速く大地を駆ける超人が、自分をターゲットにしている事を理解しながら、かぐやは魔術に集中する。この僅かな邂逅で判ずる。蒼は慎重な性格。それは裏返せば二者択一に対する臆病さ。想定しているどちらの択にも即応できるように待つ事で選択から逃れる心理。──故に。詠唱完了。
「『
見に徹する慎重さは、相手に択を増やされるという一手遅れを生み出す結果となる。
かぐやは接近されて一撃を受ければそれで敗北という状況で、静空ではなく、萌芽を狙った。ショーコの砲撃で体勢を崩していた萌芽に、数百の魔弾が競い合うが如く奔走する。
狙いは萌芽だ。いかに幼く見えようとも常人を凌駕する超人の一。萌芽は手にした矛を回転させて、数十匹のトロルを容易に殲滅しうる魔弾の大隊を凌ぎ切る。
「何してんだ、静空!」
萌芽の叱声が飛ぶ。謝っている時間も、迷う時間も与えない。かぐやは浮遊魔術でゆったりと中等部グラウンドに移動しながら散発的に魔術で、萌芽を付け狙う。
萌芽は煮え切らない静空に不満をぶつけるように、何も言わずに巨大ロボのいる初等部グラウンドに向かって跳躍した。慎重な奴が相手にいて、その相手を自分が引き受ける。短絡な相手には勝ち目がないとかぐやは分かっていた。
静空に与えられた選択肢は魔法使いを止めるか、萌芽の援護に向かうか。魔法使いという得体の知れない存在を見失うのを静空は嫌がった。彼女が冷静だったならば気付けたはずだ。慎重らしい彼女が即断するということは、その動きを操られているのだと。
魔法使いの作戦通り、静空は魔法使いを追いかけて中等部グラウンドに向かってきた。
やるべきことはあとひとつ。蜘蛛の糸より頼りない勝利への糸口を手繰ればいい。
◆ ◆
かぐやは浮遊魔術を解いて、中等部グラウンドに降り立った。程なくして一定の距離を保ったまま、甲冑姿の少女も続く。
「退け。私は無駄に争いを持ち込むつもりはない。私たちの戦いは私たちで決着をつける。……だから」
「駄目よ。もう風吹ちゃんはあたしたちの友達なんだから」
「だからどうした。風吹は私の家族だ」
かぐやの言葉に憤るように、静空がかぐやを睨みつける。
「なら、どうして殺そうとするのかしら」
「それは貴様には関係がない」
かぐやは腕を組みながら、甲冑姿の少女に半眼で侮蔑の眼差しを投げかけた。バカなのか、こいつ。それがかぐやが抱いた率直な感想だった。
「そうね。戦いなんて結局は互いの都合の貫き合いでしかないわ。それが分からないなら……そもそも戦うべきじゃなかったのよ」
「ならば私はお前を打ち倒そう。そうして、本懐を遂げてみせる……エモーショナル・フルドライブ」
清涼感さえあるはずの声音を、噛み締めるような思いが、悲しげな音色に変えていた。蒼穹が固着したかの如く、薄い繊維のようになっていき、彼女の甲冑だけでなく、頭部から足元までを覆った。彼女の身体で見えているのは、流れるような黄金のロングヘアだけ。内側には甲冑が残っているため、青の騎士は全体的に硬質で鋭角的なフォルムとなっていた。
「は、変身ヒーロー。確かに子供の時にはきゃっきゃきゃっきゃと見てたもんだわ」
勧善懲悪のヒーロー物。それをただ格好いいなどと憧れていたころの自分に呆れ、かつての自身の無垢さ純真さがまばゆすぎて、目を背けた。
「さっさとおいで。ただ綺麗なだけの夢物語は、無力だってことを証明してあげる」
見下すような視線を向け、挑発的に言い放つ。虚勢でしかないそれは、しかし時間稼ぎをするにしても勝利をおさめるにしても通さなければならないハッタリだった。
あのゴスロリ娘──萌芽であれば、接近されて一撃で終わる。だからかぐやは静空の方を相手にすると決めた。静空はかぐやの想定通り警戒しているのか動く素振りを見せない。
向き合って数十秒が経過する。先んじての魔術詠唱をせず、死の恐怖から溢れ出そうになる冷や汗を胆力をもって御す。動くのに必要なのは静空側の判断か──。
高等部グラウンドに、忌々しいプリズムが広がる。高等部グラウンド内の状況が把握できなくなる。困惑は顔には出さない。シオンが世界毒になった可能性が高い。なにか、想定外の事態が起きている。
蒼の戦士は天を仰ぐように狼狽えた。それは契機。かぐやは魔術の詠唱を開始した。
同時、静空も動く。彼女の身体から、無数の白い糸が生えたかと思うと、即座に消失する。静空の表情から焦りが消える。意味不明。推論できるほどの情報もなし。ギャンブルには出られない。そんな場面ではない。だから、布石は打ってある。
「"告げる。凱歌が響く終焉の光景。溢れる炎熱は閉塞に至るまで踊り狂う。蒙昧なる其の名──『
声に応じ、かぐやの右前方に赤炎が出現する。かぐやは右手を振りかぶり、号令をくだすように下ろす。蒼穹の騎士に灼熱が向かう。
岩石さえ融解させるほどの熱量を持ち、常理とは異なる律法によって具現した炎は周囲の酸素を消費し切るまで燃え盛るはず。
そう考えた瞬間──空色の騎士がかぐやの視界を覆った。
全身がバラバラになったかと錯覚するほどの痛みを伴う衝撃を受け、詠唱への集中を途切れさせてかぐやはグラウンドにころがる。
痛みを堪えて目を開く。見えたのは業火に包まれたまま少し浮いて、静止する静空の身体。業火は渦を巻くようにして徐々に虚空に溶けていく。
かぐやは地面に転がる。助かった。結果だけ見れば必然だが、何かの間違いで死んでもおかしくはなかった。個人的な好悪で言えば、かぐやは炎群のような人間が好きである。理論や推論を無視した直感を信じ、正しさを掴める人間は、皮肉ではなく羨ましい。――だからこそ、むかつく。炎群が間違っているのか、世界が間違っているのか。間違っている炎群なんて見たくはなかったし、これが正しいというのならそんな世界は愛せない。
思考を切り替え、痛みに喘ぎながらもかぐやは頭を働かせる。
事前準備として発動状態にしていた魔術はふたつ。周囲の情報を脳裏に数値として描く探査魔術と、永続的な治癒魔術だ。この二種の魔術を自身に最初からかけておけば敵の能力を推察はできると彼女は考えた。
最善の準備をしていても、予想外の事態が起こり得るのが戦いだ。
事実、静空の能力はかぐやの推測を超克していた。探査魔術によって得られた情報はただひとつ。静空の肉体と周囲の酸素が燃焼を無視していた。
「そして、今の動き。飛翔でも跳躍でもない。完全に物理的な移動――。そして、それを行う際に消えたあの糸。その糸は、大気中の酸素原子の燃焼を無効化した。答えは簡潔。貴女の能力は――原子操作。違う、その化学反応さえも完全に掌握しているという事実からすれば、原子支配!」
自らの肉体を構成する原子を掌握し、化学反応を抑制する。更には外界の空気分子を操ることで、酸素を媒介に熱量を発しようとした魔導の炎を打ち消す。断定するような口調はただのはったりだ。素粒子を支配するのであれば、かぐやの魔法では対処ができない。
「原理を理解できるとは見事だ。だが、それゆえに貴様に最早勝ち目がないことも分かったはずだ。貴様の身体能力は脆弱極まる。もう少し、速度を上げていれば、貴様は死んでいた。手加減してやった。これ以上邪魔をするな」
静空はそんな風に自分の能力を見抜いたかぐやを賞賛するように微笑――それから、変身を解除すると、決然とした表情を作り、背を向ける。
声音にひそんだわずかな諦観。かぐやは最悪の記憶の中に埋もれた、自分の姿を重ねる。
「ああああああっ!」
かぐやは絶叫した。静空の目的を知った。
今の静空に重ねたのは、魔王ごと相棒を殺す覚悟を決めた時、相棒の瞳に写った自分。
臆病過ぎる慎重な判断。それらは全て、決定を先送りにしたいという心の現れ。そんな彼女がそれでも選ばねばならないのは逃げ場のない
この少女は、火群を止めるために、火群を殺す覚悟を決めている。
そう理解してしまったから、かぐやは立ち上がるしかなかった。
静空は苛立つように顔をあげ、仮面の奥で彼女を見た。
「死にたいのか」
「いーえ。死に場は……なくしちゃった」
身体はまだ痛みを訴えているが、動作に支障は出ない程度には治癒が終わった。
「お前には、我が支配は揺るがせん」
「なら、試してみたいわ。……もし、この手でできなかったら、私は貴女の邪魔をしない。一方で、これに付き合ってくれなかったら、殺されたって邪魔してやるわ」
「それで、お前が満足するなら、それに付き合ってやろう」
かぐやの言葉が真意であることを静空も悟ったのだろう。殺すよりも、邪魔をされるよりも、諦めてもらったほうがいいと判断したに違いない。
一歩ずつ、かぐやは静空の傍へと近付いてゆく。手が届く距離になりかぐやは微笑んだ。
それと同時、静空は再び変身をした。蒼穹色の仮面の奥に、どんな表情が残っているのかは分からない。
「準備はできた?」
優しい声で、かぐやは問う。
「いつでも」
策は単純だ。
静空の支配に対する分析。原子支配の能力をもって、自らを構成する原子全てを操る事。外界からもたらされる原子に対する干渉を、白い糸による支配で防ぐ。
人間の肉体を構成する原子数はおおよそ穣──一〇の二十八乗。それら全てを正確に支配し、外界からの物理干渉を制御するなど、人間には不可能だ。
考えを改める。超人とは肉体が並外れているということであり、脳とは肉体の一部だ。人体を模しながら脚力が音速を遥か凌駕するが同様、脳の演算回路も人の常識を超越している。
全身を構成する原子それぞれに、今現在、外界より受けている反応を抑制させる。スーパーコンピュータ以上の超人的頭脳にしか果たせない神業。そして同時に、この能力をもってして自らの肉体を堅固にするという手段それ自体が、彼女の慎重さと臆病さを裏付ける証左とも言えた。
だが、ネタが割れた以上、対処する手段は無数にある。日向かぐやが静空たちの超人性を身体だけに限定し、脳の演算速度を失念していたのと同様に、静空もまた失念している。
魔法使いは、魔法を使うのだ。
「"──────そして更に告げる。其れは忘れられし常則。されど我が盟約に従いて、一度蘇らん――『開闢に閉ざされし始原の
永い詠唱を終え、かぐやは魔法を解き放つ。静空が行なっている原子の支配とは、詰まるところ外界からの干渉を彼女が打ち消しているに過ぎないとかぐやは判断した。
ならばどうする。静空が操作しているのは静空自身を構成する原子だ。
原子支配によって、干渉を打ち消す。これは無敵を意味するのか。魔法使いは違うと考えた。だからこそのこの魔法だ。
魔法には三種類ある。ひとつ、手順を省き既知現象を引き起こすもの。ひとつ、周囲の法則から独立させるもの。水中呼吸などがそれにあたる。
そして、最後のひとつ。魔法の極致ともいえる、生粋の真なる魔法。
それは、物理法則にない現象を引き起こすもの。
コキュートス。地獄の最深部を冠するこの魔法は絶対零度以下の低温を生み出すものだ。本来氷結魔法と呼称されるのは、熱を奪うという行為により絶対零度に近づける魔法である。しかし、コキュートスは違う。絶対零度以下に向けた熱ベクトルが働くものであり、物理法則には存在しない負の熱量だ。
原子支配と言っても、正確には「動かない」ことを命じているわけではない。外から行われる物理干渉に対し、操作を行うことで対処しているはずだ。強いて表現すれば、踏みとどまる、に近い感覚だと思われる。
炎ならば熱に対して化合しようとする肉体原子それぞれに、反応しないように強制する。それは衝撃や雷撃であろうと同様に無効化できるだろう。
原子支配を突破すれば、静空は諦めると言った。ならば、原子支配にはかなりの自信がある。既知の物理現象では確実に防がれる。二度目は通じないだろう。だが、少なくとも初見だけならこれで原子支配を突破することはできるはずだ。かぐやの予測を裏付けるように、静空が大げさなモーションでたたらを踏んだ。
「だから……と、言ってぇええ!」
絶叫しながら立ち上がり、全身の支配を解除、そして原子支配を行う白き糸を体中から放つ静空に、かぐやはむしろ嬉しげに笑った。
「空曇る《ブルーズィー》──
透き通るようでありながら、強い意思を感じさせる咆哮が蒼穹をかき鳴らす。
その行動まで、かぐやは読んでいた。否、信じていたと言っても過言ではない。
そうだ。その能力があるのなら、空気も地面も敵さえも、触れた原子全てを支配しすべてを無秩序に解体することこそ、彼女の切り札であるべきだ。否、彼女の能力は本来そうやって使うもの。慎重な性格が、無敵の肉体を作るという能力として使わせていただけだ。
投石ひとつで即死できる程度のそこらの子どもと大差ない肉体強度。利便性に長けながらも、発動にはラグのある魔法という戦闘手段。シオンを始めとした学園の異能者と戦うには致命的な弱点だ。
だが、と彼女は嗤う。それでも、戦いに関しての技量で言えば、自分に並ぶ者さえいない。
気合と根性では解決不可能な幾多の状況を、知恵と我慢と気転で乗り切り続けた経験が、彼女に誇りと自信を与えてくれる。
冒険の旅を思い返せば、幾多の死線。だから、わかっている。
正面から瞬木静空を倒すことは、不可能だ。追い詰めれば追い詰めた分だけ、この種の人間は真価を発揮する。ダメージでは心を折れない。殺すという手段が選択できない以上、勝利手段は唯一つ。ルールを変える。盤外要素さえも利用し、勝敗条件を拡大解釈する。
だから待っていた。相手を殺したくないという自戒を制し、頼みの必殺技に縋るのを。
「ええ。そうね。貴女は負けてないわ。往生際が悪い? 諦めが悪い? いいじゃない、気楽に投げ出すよりはずっと素敵だわ!」
自己嫌悪の混じった賞賛を告げた後、かぐやは飛翔魔法を詠唱。後方へ跳躍することだけに特化させ、詠唱時間を大幅に縮めたそれを使い、静空と距離を取る。
計算通り――彼女は喝采するような気持ちで、ストックしていた魔法を解き放つ。
「"無明なる其の名──『混沌に封されし太極からの
先に騙したのはかぐやの方だった。彼女は最初から、この決着を予期、コキュートスの前にもうひとつの魔法を唱え終えていた。
彼女の前に生まれたのは、漆黒の障壁だ。これも生粋の魔法である。この漆黒の障壁は、縦横と厚みが固定された大きさであり、壁全体が魔術における最小構成単位――即ち、原子と同義だ。そのため、極めて頑丈ではある。ただしあらゆる波動やエネルギーに抵抗を持たない。衝撃を受ければ衝撃を維持したまま背後に吹っ飛んできて壁自体に術者が押し潰されるだけ。
失敗魔法としか言いようがない。だが、これに原子を支配するつもりで接触すれば。
「びっくりしたでしょ!?」
弾かれるように顔を上げ、静空は千鳥足でふらついた。
魔法使い日向かぐやは、どれほどに使い勝手が不明瞭な魔術であっても、習熟することを無駄だと思ったことがない。
彼女の身体能力は低い。魔王討伐の相棒だった剣士や、眼前の蒼穹色の戦士。彼女らならば、「近付いて殴る」という行為で済む幾多の状況を、魔術で打破するには数百程度では心配なくらいなのだ。使い道は分からない。けれど、使う時が来るかもしれない。だから、彼女は学んだ。学び続けた。自分の生命より、ずっと大事だった相棒を守るために。
かぐやが身につけた魔法の総数は実に一万を越える。
意識を全て糸の操作に向けていた静空は、迫るかぐやの動きに数手遅れた。
非力な腕で、強靭な肉体を有する超人の胸当てを叩きながら、かぐやは笑った。
「どうよ? あたしに賭けてみない? あなたたちを、あたしたちなら止められる」
静空の胸に去来した感情を計る術はない。
違う人生を生きた者が何を思っているかなど推し量れるなら、戦いなんて必要ない。
──でも、君は大事な人を殺さなくていい。そう思いながら、かぐやは微笑む。伝わるかどうかは分からない。だが事実として、青の戦士は崩れ落ちるように膝を付き、変身を解除した。整った顔立ちを涙で崩し、縋るように哀願する。
「……火群を止めて……!!」
その嘆きに、かぐやは力いっぱい首肯する。そして、思う。
彼女の渇望に応えるためなら、死んでもいいと。