時間になって部室に入ると、室内には泣きそうな顔で項垂れている風吹と、嬉しそうな満面の笑みのシオンがいた。
「サプライズでお料理を作ってみたのです! サプライズというかサブライスです! メインは香りで分かりますかね!?」
つまんねえぞ。
並人とかぐやは一瞬目を合わせ、ツッコミ役を押し付けあう。
沈黙した室内に、くすくすという笑い声が響いた。
「シオンは面白いなあ。サプライズとライスをかけるなんて。今回はかけられる側だけど」
先ほどまでなぜか落ち込んでいた風吹が、お腹を抱えて笑っている。風吹の反応からか、それとも並人の心を読んだのかは定かではなかったが、自分の冗談が今から食事をするという段においてはあまりにもうまくないことに気付いたのか。
「あ、いえ、風吹……。そう言われると、なんか……」
シオンは赤面を通り越して青白くなって、今にも精神界を開きそうな顔で、抱腹絶倒する友人を見つめていた。一方風吹は、なんでシオンの冗談で並人たちが笑わないのかさっぱり分からなかったらしく、別の理由に紐づけた。
「……こんなに面白いのに笑えないくらい、私の料理はやばいのか……」
またも風吹は泣きそうな顔になって、うつむいてしまった。
テーブルの中央に置かれた大きな鍋から香ばしい匂いが溢れている。鍋の隣には炊飯ジャーもある。
「いいえ、あの態度は……その、あれです」
立ち込める暗雲は、自分のジョークによるものだとシオンも気付いたようだった。
「丁度お腹空いてたから、助かるよ。風吹が作ったのか?」
「そ、そうです! 私と風吹で作りましたッ!」
華やかな笑みでシオンが言う。続いて、風吹が涙で潤んだ瞳をこすってから小さく頷く。
椅子に腰掛けながら並人は、不安が渦巻くのを抑えきることができなかった。カレーの匂いが漂う。鍋の中にあるのはカレーなのか。シオンが適当に様々な調味料を加えた結果、嗅覚に感知できるのが香辛料になっただけではないのか――。
「炎群さんたちのお出迎えに料理をしたいと。その練習です」
シオンが理由を説明し、風吹が弱々しげにうなずいた。一週間。炎群が風吹にシオンの見極めを任せた期限が近づいている。
「シオン。ひとつだけ確認させてくれ。無茶な料理を食べさせても人間が死なないと思い込んでたりはしないよな?」
どっから知識を得ているのか分からない六花シオンに、並人はそんな事を強く思って小声で耳打ちする。
「何を仰りますやら。私と風吹のコンビプレイにそんな失敗はありません。ご飯を炊いたのは私、カレーを調理したのは風吹です」
何故か自信満々に胸を張るシオンと、その隣で自信なさげにしている風吹。
「並人、無理はしない方が良い。私の家族は誰も食べられなかった。料理は好きだし、人に食べてもらえるのは凄い嬉しいことだけど、それで並人に死なれたら困る」
彼女の仲間は食べられなかった――その不穏な台詞が並人の脳裏でリフレインする。何を隠そう瞬木風吹という少女は、超人的な身体能力を持っているのである。その仲間とは人類最強、瞬木炎群が含まれる。超人が食べられないカレー。ただ不味いだけなら覚悟も決められようが、場合によっては死ぬともなれば安請け合いはしかねた。もちろん命も大事だが、それだけが理由ではない。心を込めて作った料理で、相手を毒殺したらトラウマになるだろう。
「ふっふっふ。そう躊躇することも私は織り込み済みでした。大丈夫です、並人が食べたくなるような隠し味を私が最後に入れるのです」
両手を腰に当て、無意味に胸を反らすシオンだった。ご飯を炊いただけで威張っている相手である。そんな奴が加える隠し味がまともなものである筈がない。
「料理の隠し味は愛情。それはどのような想いがその料理にこもっているかということ! お忘れですか並人、私は超能力者なのです!」
シオンは並人に鍋の蓋に触れるよう要求した。その直後――鍋の蓋から、思念と記憶が並人の脳内に流れ込んできたのだった。
今にも泣きそうな顔をして、自分を見下ろしている少女――瞬木風吹の姿が見えた。彼女は普段通りのポニーテールとセーラー服に、エプロンを重ねて並人を正面から見つめている。
「食べてくれるかな」
ぐつぐつと何かが煮こまれている音に混じり、か細い風吹の呟きが聞こえてきた。
「食べてくれなかったら、悲しいな」
風吹が更に項垂れて、前髪が彼女の両眼を隠す。
そこで、並人はようやく理解した。風吹がカレーを調理している時の情景を、鍋の蓋目線で見ているらしい。彼女の手が並人の――鍋の蓋に伸びてくる。
「……私には、美味しいんだけどな」
暗転した視界の中で、そんな声が聞こえてくる。蓋を外し、味見をしての感想だろう。
「みんな、最後までは一度も食べてくれなかった……」
再度風吹は蓋を閉じたらしく、彼女の姿が視界に戻った。
「私の舌はおかしいのかな」
更に彼女は顔を伏せてしまい、殆ど彼女の表情は読めなくなる。数秒の沈黙の後、彼女は気丈に顔をあげる。
「ごちそうさまって言われたらきっと嬉しいんだろうな。男の子なら、お肉を多めに盛りつけた方が、いいのかな。お代わりとか、してくれないかな」
夢見がちな口調で、躁状態に入ったかのような表情で、彼女は矢継ぎ早に言う。
「でも……不味いって言われたらどうしよう」
しかしその気丈さも長くは持たず、彼女はまたも悲しげに目を伏せた。
「今のうちに泣いておこうかな。玉葱余ってたかな」
視線をくゆらせて玉葱を探そうとしていた風吹の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
「要らないや。思ったらもう……涙……出てきた」
両手で彼女は溢れ出る涙を拭い、しかし湧き起こる衝動は止められなかったのか、嗚咽が漏れだす。
「ひぐ。舌が変だったらもう、どうしようもないよな」
そう呟いてから、彼女は泣き腫らした瞳で、鍋の蓋に手を添える。
「料理、好きなんだけどな。これで、最後にしようかな。……誰にも食べてもらえない料理なんて、作ったってしょうがない」
またも、涙が彼女の瞳から溢れた。
「ひぐ……ひぐ」
肩を震わせて、彼女は嗚咽を続ける。
それから、彼女は視線を横に向けて驚愕に目を剥いた。
「だ、駄目だシオン。お米を洗うのに洗剤は必要ない……」
とことこと歩いて行って、彼女は鍋の蓋から見える視界から消える。まだ殺風景な、恐らくはシオンか風吹の自室であろう部屋だけが見えたまま、シオンと風吹の声だけが聞こえてくる。
「お米はこうやって洗うだけでいいんだ」
「そうなのですか? 洗剤ならもっとおいしくなるやも」
「そこまで洗う程にお米は汚くないから……。私の舌は変かも知れないが、それでも洗剤を入れてはいけないということは分かる……」
そうして、拝み洗いでもしているのか、米を擦り合わせているような音が聞こえた。
「こうするので十分美味しくなるんだ。いくら私でも、ご飯だけなら皆に食べてもらえる」
「こうですか? ちょっと面倒くさいですね。適当でもいいんじゃないですか?」
「ほんの少しでもご飯が美味しくなるなら手間を惜しんじゃいけないと思う……。疲れたなら私がやっておくから……」
「でも、ご飯担当は私なのです」
「……仕上げはシオンに任せるから……」
そう話している間にも手際良く風吹は米を洗っているようで、清涼な音が室内に響いていた。
「こ、これを炊飯器にセットして……そこの赤いボタンを押せば炊けるから」
「これですね?」
とシオンが言ってから、少しの間を置いて電子音が聞こえ――夢から覚める直前のように、並人の意識は微睡みに落ちた。
シオンの超能力――物体に宿る記憶を読み取るサイコメトリーの一種だろう――によって幻視した光景から、並人の意識は部室に戻ってきた。
まばたきを二度、三度と繰り返すことで、心と身体の齟齬を解消した後。
「あんな光景を見せられて食べないなんて言えるかぁっ!」
と、大声で言った。その声に驚いた様子で、風吹はびくんと大きく身体を震わせ、シオンは首を傾けた。考えてみれば、風吹がどのような想いを抱いて調理をしていたのかは知らないはずである。風吹がカレーを煮込んでいる間、彼女は苦闘しつつ米を洗う準備をしていたのだから。
先程の光景を並人は反芻した。あんな想いで作られたカレーを食ってやれないくらいなら、世界なんて滅べばいいと単純な彼はそう考えたのだ。
「なに見たのか知んないけど……そんなに気合入れるような調理風景だったなら頑張ってね」
かぐやは普段の笑顔で声援をくれる。
「ま、多少の毒性があっても、即死しなきゃ解毒してあげる」
かぐやのフォローに内心で感謝をしつつも、並人は覚悟を決めて風吹に視線を向けた。
並人が促すと、風吹は緊張した様子で、真っ直ぐに背筋を伸ばしたままで頷く。それから取り皿にカレーを盛り付ける。
香りにも見た目にも、特段奇異なところはない。強いてあげるならば、いわゆる甘口に比べると少々色味が濃いくらいか。鍋の蓋から流れ込んできた光景は、風吹がカレーを煮込んでいる段階のものであり、どのような食材を入れたのかは定かではない。見た限りでは豚肉、人参、ジャガイモ、玉葱――くらいなものだ。明らかに見当違いな材料は含まれていないのは確かだった。
「ど……どうぞ」
風吹がカレー皿を差し出してくる。それを受け取りながら、並人は微かに笑みを浮かべた。サイコメトリーで見せられた光景で風吹が言っていたように、肉の割合が多い。そんな細やかな気遣いができる風吹だ。並人の反応を息が詰まる想いでながめていることだろう。シオンが想定していたよりもずっと強く、隠し味とやらは並人に効果をもたらしていた。
スプーンにカレーとご飯を適量乗せて、口に運ぶ。不自然さが出ない程度に、並人はカレーの香りを再確認する。やはり香辛料が効きすぎているくらいで異様さは感じられなかった。生唾を呑み込んで最後の覚悟を埋めると、並人はスプーンを口に入れた。
静寂に包まれた室内に、並人の咀嚼音だけが響いた。
運んだ一口を喉に流しきってから、並人は首を傾ぐ。それが、味への反応だと思ったのだろう。風吹が怯えるように身を竦ませる。並人は先ほどの倍程度をスプーンに乗せて口に運ぶ。
それから視線をかぐやに向けた。含まれた意図に気付いたのか、かぐやは首を振った。何もしていないという意味だろう。
ひとまず並人はスプーンを置いて、唇についたカレーを舌で拭うと大きく息を吸い込んだ。
「美味いのかよ! ちょっとからいだけなのかよッ!? もっと全力で僕に我慢させろよ! 化学薬品とか宇宙怪物の肉とか入れておけよ! あんだけハードル上げて僕に覚悟を決めさせてただからいってどういうことだよ! お前の周りの連中が子供舌だっただけだ! 程良いからさがいい塩梅で食欲を増進させるよ! 普通に美味いんだよ!」
並人は全力で文句を言った。
「カレーに化学薬品なんて入れたりはしない……。宇宙怪物なんてあったこともないから入れられない……。が、頑張って次のチャンスをくれるなら入れてみるが……」
途切れ途切れに風吹が言う。
「違う違う! 入れろとは言ってない! あんだけ食えたもんじゃないって前フリすんならそんくらいやってくれないと僕の男らしさが発揮できないってだけだ!」
入れろとは言ったし、実際にそんなものを入れられれば彼としては死ぬだけなのだが。気合が空回りした八つ当たりである。
「言っていることが難しくて良く分からない……」
泣きそうになって風吹が顔を伏せた。
「ああごめんごめん! 確かに風吹が悪いんじゃないッ! 結論から言えば美味いってわけだ!」
そう言うと、尚も信じられないという様子で風吹は並人の事を涙目で見つめるだけだった。
何を言っても埒が空かない。そう考えた並人は、行動で示すことにした。
激しい勢いで皿を空にして――
「まだ残ってるんだろ。お代わり!」
と、皿を差し出して並人は要求した。
「ほんと……? 気をつかって無理をしてないか?」
「ないない! 無理をするつもりだったのに、予想外にちゃんと美味しくってびっくりした! でもちょっと辛味が強すぎるから人によっては食べられないかもな。僕はこのくらいの方が好きだけど!」
並人の言葉に、風吹はとても嬉しそうな顔をした。並人の差し出した皿を受け取り、せっせとご飯とカレーを盛り付ける。盛り付けてから一皿目の倍以上の姿になったことに気付いたのか、風吹は困ったように並人を見た。誰かに食べてもらえたことがそれ程までに嬉しく、そのせいで力が入りすぎてしまったのだろう。そんな彼女の喜びに並人は、笑って手を伸ばした。
お代わりをした分を並人が半分ほどまで食べた時、風吹はシオンとかぐやのためにも、ほんの少し盛り付けた。
まず最初にシオンが口を付け――
「からっ!」
大口を開けて言って、口を抑える、続いて、かぐやが。
「……あぁ、これはちょっと苦手な子にはキツイかもね。もう少し辛さを抑えて作れるようになっておいた方がいいんじゃない?」
と助言をした。かぐやはそれでもスプーンを動かしていたが、シオンの方は涙目になって二口目を止めていた。
「からさを抑えたら……皆に食べてもらえるかな?」
風吹が首を傾げてかぐやに問うと、かぐやは頷く。
「それなら、少しずつからさを抑えて作れるようになってみれば良い。からいの苦手そうなシオンが美味しく食べられるくらいに。もしシオンが残す時は僕のところに持ってきてくれれば美味しく頂くからさ」
そう並人が笑顔を向けると、風吹は頬を赤くして俯く。
「大好きだ結婚して欲しい。毎日そなたにカレーを作りたい」
「チョロいチョロいチョロい! チョロすぎるよ! それならせめて僕以外に食べられないものを作ってくれよ! 美味しいカレー食べて求婚されたら結婚詐欺師でも罪悪感で胃潰瘍だ! しかも全食カレーって子供の頃の夢が叶っちゃうじゃねーか!」
大声で叫んでから、並人は呼吸を落ち着ける。
「食べる分には全然構わない――というか、大歓迎。でもまあ好きとかそういうのはもう少し置いておこう」
「また食べてくれるのか。嬉しいな。流石は並人だ。名は体を表すとは良く言ったものだな」
「並人で体を表すような奴に、流石という表現は不適切だと思うが……」
「でも私は人未満だから。人未満どころか……アイヒマンだから」
「確かにアイヒマンという響きには非人間に通じるところがあるし、アイヒマン実験は非人道であったが、アイヒマンさんが非人間なわけじゃねぇよ」
全世界のアイヒマン氏に謝れ。
「そ、そうなのか。酷い実験の名前だってことは知ってたんだけど。……シオンも、協力してもらえるだろうか?」
何度か深く呼吸をして、シオンは辛さが収まったのか、風吹に力いっぱい頷いた。
「ありがとう。そっか。私がからいのが好きだからか。……姉上たちもそう言ってくれればいいのに。姉上が来るまで練習しよう。姉上たちにも食べてもらいたいな」
夢見るような口調で言った風吹に、並人は笑みをこぼした。