シオンの世界毒騒動の後、かぐやは事後報告をしに学園長室へと向かうと告げて校舎に戻っていった。気づくとショーコの姿は既になく、並人は女子寮までシオンと風吹を送ることにした。
ふたりとも友人ができたのが嬉しいのか、完全にふたりきりの世界に入っていた。徐々に話し声が大きくなっていく。女子同士の会話に聞き耳を立てるのはまずいと自制を働かせ、並人は声が届かない程度をキープする。
徐々に話し声が大きさを増すので、距離は開くばかりだった。それでも、気まずさと意地がぶつかりあって、後者が勝った。たとえ認識されていなくとも、日が落ちた後の帰路だ。危険はないし、仮にあっても並人が足手まといになるとわかっていても、寮にふたりが入るくらいまでは確認しよう。
すでに並人自身が不審者にしか見えない状況ではあったし、仮に存在が完全に失念されていたとしても、やるべきことをなさなかった情けなさと比較すればまだマシだ。そんな言い訳を自己の中で並べながら、やがて女子寮にたどり着く。
ほとんどくっつき合っているくらいの距離感で楽しげに語っていたふたりは、寮の前で立ち止まる。すると、ふたりは振り返ってあからさまに驚いた顔をした。
「な、なぜそんなに離れているのですか?」
「いや、シオンと風吹の会話を聞いちゃいけないと思って」
「三人で歩いているのに並人に聞かれてはいけない会話はしないぞ?」
左右対称にシオンと風吹が小首を傾ぐこととなった。それもそうである。下手な気働きは逆効果だと並人は実感した。並人は女子寮の手前まで進み、それから尋ねた。
「そうか。悪かった。なんの話をしてたんだ?」
「並人のいいところです」「並人の優しいところ」
と異口同音で輪唱した。二輪の花に咲くように言われ、並人は気恥ずかしくて目線を逸らした。聞いていなくてよかった。並人は前言を翻し、照れ笑いを浮かべた。
「じゃあまた明日。僕はかぐやを迎えに行ってくる」
――と。高等部校舎の入り口に戻ったところで、並人はかぐやに遭遇した。
「お、ちょうどよかった。今から呼びに行こうと思ってたの」
「呼びに?」
「うん。学園長が会いたいって。学園長室は特別教室棟にあるから」
「わかった。けど――」
並人は頭を掻いた。学園長とやらを待たせるのも忍びない。とはいえ、かぐやをこの夜道をひとりで帰らせるのは道義に反する。並人の表情から考えを読み取ったのか。
「じゃ、下駄箱で待ってる。ちゃんと送ってね。並人くん」と下駄箱に背を預ける見た目は幼女、中身はとってもいい女のかぐやだった。
明かりの消えた廊下を進み、並人は学園長室へと向かった。ノックをして部屋に入ると。
マホガニーの机で執務をしている、担任教師不動ネーマの姿があった。
「あれ? 学園長って人はどこですか?」
「それは私だ。担任教師であり、学園長。そして学園の一般生徒である少年兵部隊を率いる最強の傭兵。そして――」
落ち着いた声音でそこまで言うと、ネーマは立ち上がる。
「妹界のプロである世界一の妹――それがこの不動ネーマだ」
バグってやがる。突っ込むことも許されないくらいのぶっ飛びっぷりに、並人はしばし思考を停止した。ははーん、さては世界毒だな、と思ったが残念ながら神をも殺す異能は、目の前の世界のバグを世界毒とは認めてくれはしなかった。ホントに機能してんのか、この異能。
似たようなレベルの発言をかぐやにした過去を成層圏の彼方に放り投げ、並人は目の前のやべー女への推定をオッカムの剃刀に頼る。即ち、学園長と担任教師以外の説明は無視することにした。
「炎群なんて重要人物の代わりじゃ僕じゃ残念かもしれないですが、できる限り頑張ります。それではさようなら」
逃げた。逃げようとした。世界を滅ぼすとかそういう想像力が求められるものより、実在的なやばい人のが怖い。が、詰め襟の首元が着用者の意思に反した。首根っこを捕まえられていた。気づくと後ろに、ネーマの美貌があった。そう。美貌は美貌だ。でも、なんか浮かんでいる顔が子供っぽいのがすごい怖い。冗談であってほしいが冗談を言っている素振りが微塵もないのが恐ろしい。
そのまま引っ張られる。無酸素よりも下がる方が怖い。頸動脈を信じて、並人は首を守らず前進しようと決める。だが、不意に体勢が崩された。
「なんで押し倒されてるんだ僕は!?」
「なんでもなにも。頑張りますっていったじゃないか。お兄ちゃん」
彼の視界にネーマの美貌が大写しになる。
「そうは言いましたけど! お兄ちゃんって呼ぶな!」
「なら大人しく寝そべっておけ」
視界からネーマが消える。続いて、胸にわずかの重みを感じた。視線を下げると、ネーマは膝を床をつけ、並人の鼓動を確かめるように頭を彼の胸に預けている。
「お兄ちゃん、心臓がうるさいぞ」
「いい加減お兄ちゃん呼びについて説明してくれない!? あと、僕に死ねとおっしゃる!?」
並人は紅潮したままでそう叫んだ。
「私は見ての通り妹キャラだからな」
「どこをどう見たらそんな解釈にっ!」
「それに心臓を止めろとは言ってない。動悸が激しすぎると言ったのだ。平時の落ち着いた心拍に戻してくれ。そうすると大分安らぐ。お兄ちゃんの心拍は心地良い」
「僕にそれ程の平常心はねぇよ!」
そんな文句を告げると、ネーマは不満そうな顔で並人を見やる。
「やはりそうか。まあ次からは睡眠薬を用意しておこう。それで私の枕になりたまえ」
「なぜそれほどまでに僕の心拍音に執着を!?」
身を起こしながら並人は、自分の両手で胸を抱くポーズになって、ネーマを非難した。
「だから私は妹キャラだと言ったろう」
「あんたのキャラがそうであっても、別にお兄ちゃん役を僕に限定する必要がない!」
「この学園には現役のお兄ちゃんは君しかいない」
「なにが嫌かって『現役の』って限定が嫌だ! 現役じゃないお兄ちゃんがいることを暗に示唆してるじゃないか! そうさ! 確かに僕は『現役の』お兄ちゃんだ!」
妹を持つ身として想像するに余りある言葉だった。
「ふふふ。私に聞きたいことがあるだろう? でも私はお兄ちゃん以外には何も答えないと決めている。だからお兄ちゃんはお兄ちゃんをやるしかないのだ」
並人は白目になった。黒幕はお前だと決めてかかり今すぐに勝負をつけたいくらいだったが、絶対違うというのは並人にもわかった。そもそもなんの黒幕か。
「ええと、不動先生」
「ネーマ」
「ネーマは……その未来が見えるって聞いたけど」
「ごく限られた未来だがな。超能力の未来視というよりは天啓による預言に近い。炎群たちも日向も蓬も、そして六花も私が集めた。確実に終わる世界を救うために」
「じゃあ、僕は何をすれば、世界を救えるかはわかるのか?」
「そんなことがわかるものか。それはお兄ちゃんが決めることじゃないかね」
そうだ。この世界は並人の行動――裁葬幕に託されている。だが、何故、知っているのか。天啓と彼女は言った。だが、全知全能が誰かに未来を預けはしない。そんなことが許されるのなら、正解のルートを並人にリークすればいい。そうしなかったのは、たぶん、答えを教えてしまうのは、それはそれで世界の終わりだからだ。神様の言うとおり、なんてものが許されるのなら、神様が最初から世界を変えてしまえばいい。並人が正解のルートを通るように。
「仕方がない。ひとつだけ教えてやろう。お兄ちゃん。君が守るのは世界か? 少女か? 妹か? それとも――自分自身か?」
その問いは、並人に痛切に響いた。並人は感謝を口にして、逃げるように部屋を出た。ありがたいことに追ってはこなかった。