空には暗黒のみがどこまでも続いていて、星の輝きは一片もなかった。大気が汚染されているわけではない。むしろ清浄とも言えるほどに澄み切っている。星を隠す大気の汚れとは人、そして人が積み上げた文明の残滓である。ここにはその文明が一欠片も残っていないと断言できた。
地面にも何もない。いや、地平があるということは当然、無ではないのだが──それでもだ。足下にある砂は遺骨のように白く、無意識に信頼している地面への信頼感がまるでない。踏みしめているはずなのに、どこか水面や虚空に立っているような漠然とした不安を感じた。
地平はどこまでも続いている。建造物は当然として、木々や岩石もひとつもない。ただ地平がどこまでも続いていて、それなのに地平に丸みがなかった。無意識に全方向を見回したが、どの方角にも何もなかった。
並人はこれを最初夢だと思った。無難な人生を送ってきたはずである。一般的な両親と、妹ひとりという家庭環境。背丈も高校直前の男子としては平均程度。それなりの偏差値の高校への進学が決まっている。
夢の中なのに自分の記憶が明瞭に思い出せる。四月の七日。だが、眠りに落ちた記憶はない。妹せがまれて、詰め襟姿を披露したタイミングで、記憶が途切れている。
三日に一回の頻度で夢を見る並人としては、これが異常だとは思わなかった。夢の中。その記憶は現実で目覚めたときに溶けたようにほとんどが消えている。だが残った夢の中で、自分が自分であると疑うような経験はほとんどなかったからだ。「変な夢だな」そう思ったとき。
激しい頭痛が彼を襲った。痛みで夢から覚める、という話が嘘であることをこれまでの夢で並人は知悉していた。目覚めるのは夢よりもむしろ衝撃である。頬をつねっても目覚めなかったのに夢だったことは幾度もある。
頭痛が思考を止める。脳の中にいる誰かが外に出ようと内側から頭蓋を叩いているような、そんな痛みだ。顔をしかめるだけで済む痛みではなく、並人は地面に膝をついて呻き声をあげた。
痛みに慣れると、並人の顔は無意識に一方を向いた。引き寄せられる、などという表現を越えて、物理的に首をねじ曲げられたような勢いで。
そこには、ひとりの少女がいた。先ほどまではいなかった。いたら見逃すはずがない。
七曲神菜。もうすぐ小学五年生になる、並人の最愛の妹である。一般的な兄妹より仲が良いと並人は自覚していた。中学三年、推薦で進学する高校が決まった頃、父親の単身赴任に母親がついていき、並人は両親に妹を任された。
確信できた。それが妹だということに。
服装が彼女が決して着るはずのない、預言者を思わせる薄汚れた白い一枚布のローブであったとしても。浮かべる眼差しに爛漫な少女が浮かべるはずのない、超然とした威厳を湛えていたとしても。
同時に並人の方にも大きな変化が現れていた。まず、洞察力が異なる。目の前にいるのは、ただの人間ではない。妹のかたちをした存在には、全平行世界の全宇宙――始原より終焉にいたる、万物が内包されていると見てとれた。
「裁葬幕。それがお兄ちゃんに託された力。世界を終わらせる存在──突然現れる世界毒を抹殺するために存在する力だ」
近寄ろうとして、足が竦んだ。口を挟もうとして、息が漏れるだけだった。
そうだ。今の自分は殺せる。この、因果の全て、世界の万物を妹のかたちにあつらえた少女を。
「世界毒には突如として到る。人の精神の変化は予測困難だ。本来は世界毒は対となる裁葬幕が用意されている。愛するが故に殺す存在がね。愛される資格のない人間は世界の敵には到れない──ただの人類の敵に過ぎず、人類が敵への対策として準備した英雄によって滅ぼされる」
雰囲気からも口調からも、いつもの妹の幼さが消えている。それなのに声音には、普段の妹が見え隠れしている。
「この世界は絶望的に間違ってしまった。世界毒を殺すべき裁葬幕たちはこの世界に生まれなかったか、あるいは不慮の事故で死亡した。にも拘わらず、世界毒になり得る存在が大量に残っている。残り一年で確実にこの世界は潰える。だから世界は最悪の抑止力──対症療法を発動させた」
抑止力。
核兵器問題などに使われる言葉だが、一部バトルものの物語などで登場することもある。意味合いとしては後者の方が近しそうだった。
「人類の敵には英雄が出る。世界の敵は裁葬幕が始末する。世界の終焉には──神様が出張ることになっている。だから私は、全知全能の神様として目覚めた」
荒唐無稽な夢だと信じたい。だが、神菜の発するひとつひとつの言葉には、詔(みことのり)を思わせる荘厳さがあり、並人はただ受け止めるしかなかった。語られた言葉の流れから、一分以内の未来に実在する致命的な結末を予言していると、心のどこかで気づきながら。
「神様になった私は世界を生存させるために、世界全てを書き換える。勝手に私を神様に祭り上げた世界は、その一方で私による世界の改竄を滅びだと喚き立てている。こうして、お兄ちゃんを私への裁葬幕として送りつけて」
勝手なものだね、と結んだ後、神菜はわずかに言い淀んでから、さもそんな惑いはなかったかのように言葉を続けた。
「私を殺して、代わりに滅びる世界をお兄ちゃんが救うか。私を生かして、世界を一から書き直す神様を見届けるかだ。神様の身勝手な理想郷は、人の自由意志のない箱庭になる。自分で言うのもなんだけど、最悪の世界だ。でも、私は必ずその創世を遂げる。止めたかったら」
自嘲と自虐を織り交ぜながら、年相応の微笑みを一瞬だけ晒してから。
「私を、殺すしかない」
できるはずがない――と並人は思った。思っただけで、神菜は並人に対して制裁を始めた。
肉体を焼かれた。首を刎ねられた。不可視の圧力で叩き潰された。頭蓋を爆発させられた。神経を虫に食い破られた。酸の海に捨てられた。水中で魚によって食い尽くされた。ブラックホールの内部で、無限に近い時間を知覚しながら、身体が圧縮された。
全知によるあらゆる死をもたらされた。
地獄の責め苦とは生ぬるい。百を越えてから、並人は自分の死を数えるのを止めた。悠久に近い時間が流れた。無間地獄の刑期をもはるかに上回り、那由他の死を与えられた。
全知全能の裁葬幕は不滅にして不死とされている。肉体同様、精神も再生はするが、再生した精神が元の状態に戻るとは限らない。那由他にも及ぶ死を繰り返され、並人の自我は虚空に解けた。幾度も虚無を見た。死に絶えた肉体、摩滅した魂、擦り切れた個我は己の名前さえただの情報としてしか認識できない。だが、それでも。
目の前にいる、自らを殺し続ける神様が、妹である事実を忘れることはなかった。
だから、殺せなかった。
「どうして――どうして私を殺してくれないの!」
少女は叫ぶ。名前よりも、本能よりも、ずっと前に魂に根ざしたその感情が、少女を見ると瞬時に蘇る。だから、並人は――否、その名前の価値さえ失った彼はそれでも、眼前の妹を守るために足に力を込めた。
「全知全能の裁葬幕は、全知全能でも殺せない。それは、死ねるという全能性を否定するようなものだから。だけど――その痛みは確実にお兄ちゃんの精神を砕いていく。もういい加減に私を殺してよ。他に手段はないんだから」
妹は膝から崩れ落ちて、祈るように彼に縋りついた。
自分が誰なのか、彼はもう思い出せなかった。
でも、目の前にいるのが、最愛の妹だとわかった。七曲並人という名前よりも、人生のあらゆる思い出よりも、大事な原始の記憶。並人の精神の核と呼べるべきものは、兄だという自覚にこそあった。
生まれたばかりの妹を見たとき、その妹を守ると誓った幼い記憶こそ、七曲並人という少年を構成する最初の因子であり、魂の核だった。
身を起こして、倒れた自分に縋る妹の頭を撫でた。
「僕が、お前を守るから」
肩を引き寄せ、まだ小さい妹の身体を抱きしめる。自分を幾度も殺した相手に対する憎しみも怒りもなかった。
――そうだ。名前を思い出す。七曲並人。妹を守る人間に付随する個体名称だ。七曲並人が妹を守るのではない。妹を守る者に貼られたラベルこそ、七曲並人という名前である。
「僕が、世界を救う。裁葬幕とかいうこの能力に、世界毒を見つける効力があるのなら、僕が神菜の代わりに世界を守ってみせる。だから、神菜はなにもしなくていい」
すすり泣きが聞こえてくる。
「ほら、やっぱり。最悪のバッドエンドになった。神様の力なしでこの世界が残るのは、那由他にひとつの確率しかない。ありとあらゆる選択肢をひとつでも間違えたら終わってしまう。どうするべきか知っているのに、私にはヒントさえ与えられない」
神菜が発した言葉の意味がわかる。全知全能であるということは、自分が示唆した事柄で、未来がどのように変動するか把握できてしまうという意味だ。それを認められるなら、最初から好きなように世界を改変すればいい。
「僕はお兄ちゃんだから。必ず、僕が神菜にできないことをやり遂げてみせるから」
神菜が嗚咽をあげた。並人に縋り付くこともなく。見ているだけで胸が締め付けられる。差し出した手は白魚のような手によって弾かれた。やがて泣き疲れた神菜は、ぞっとするほどに冷たい眼差しで並人を見た。
「理不尽な二択を拡大解釈でやりたいようにしたら、ハッピーエンドになるわけないだろ。そんな世界が神様なんて供物を認めるものか」
神様という供物。確かにそうだ。神菜は神様に祭り上げられた。許される選択は神様として世界を自分の箱庭にして滅ぼすか、殺されるかのみ。
神菜は両手を胸の前に差し出す。わずかな光がおき、発光が収まるとそこには小さいが、大樹と言える樹木を具象した。
「世界は、いつだって分岐する。この枝のように。世界樹形。可能性分岐する世界を表現するなら、これが近い」
言いたいことは分かる。だが、何のための説明なのかがわからず、並人は黙るしかなかった。
「私が神様になった、私とお兄ちゃんが生きてきた世界が、この枝だ。この枝からは二度と分岐がない。滅びる以外には正解の道を辿るしかないからね」
「その正解を、僕が掴む」
並人の決意を神菜は一笑に付した。
「全世界樹形において、神様の降臨は四百十二回。意外と少ないだろう? 母数がわからないか。滅びた世界枝は京はくだらない。だけど神様を降臨させるほどに詰む世界なんてそうはない」
確かに、そう言われれば少ないというか、稀少なケースだとは理解できた。しかし――それがなんだというのか。
「四百十一回は全て神様が死ぬことで、滅びを受け入れた。拒否したのは世界でお兄ちゃんただひとりだ。なぜなら」
神菜が大きな瞳に並人を映す。
「神様の具象、その欠陥だ。私が神様になったのに、裁葬幕であるお兄ちゃんが現世に戻るとあるバグが発生する。お兄ちゃんがいるために、私という神様が枝に組み込まれてしまうんだ。だから、枝の崩壊が幹に連鎖し、私たちのいた世界の終わりは、つまるところありとあらゆる世界ごと巻き込んで滅びてしまう」
言いたいことはわかった。まさしく剪定だ。病んだ枝を切らねば樹木全体に病が蔓延する。
――だからどうした。
「ほら、ここまで言ってもお兄ちゃんの決意は変わらない。いいじゃないか。私がちょっと先に死ぬだけなんだよ。その先には、世界の死が待っている。一緒に世界ごと死のうよ。これは、宇宙が発生して、世界が生まれ、その果てに生じた奇跡である霊長の尊厳を奪う最悪の選択だ。文明や人類なんて矮小な次元じゃない。全てを消し去る最悪の蛮行を、こんなかわいげもない妹ひとりのためにするってわけ?」
「けど、完全に詰んだのではないのなら――」
リスクは跳ねた。並人の暮らしていた世界だけではなく、あらゆる可能性時空全てが並人が背負うものとなる。だが、正解が――何も失わなくていい未来があるのなら。
「不可能だよ。……まあ、ここまで来たらお兄ちゃんを説得する手段はない。全知全能であろうと、それは無理だ。無限分の一の結末を求めて、せいぜい頑張れ。失敗するなんてわかってる」
悲しみを眦から流しながら、神菜は並人を見上げた。最愛の妹が、自分が死ぬより、世界を書き換えるよりも避けたかったバッドエンド――それが、七曲並人がこの記憶の後、生きる世界だ。
世界の命運は七曲並人に託された。
正しくはないかもしれないけれど、並人に後悔だけはなかった。
「これを――思い出せるかさえ、決まってない。最初っから地獄だ。泣くなよ。これは全部、お兄ちゃんが決めた末路(デツドエンド)だ」
奪われた記憶の中で、妹は今の並人の状況まで、苦々しい顔をして告げていた。
◆ ◆
六花シオンに奪われた七曲並人の記憶。
これを渡せば、七曲並人の人格が崩壊するとシオンは予期したわけだ。
戻った記憶はすんなりと並人の人格に定着し、忘れていたという事実がむしろ曖昧になるほど、彼は今の状況を把握できていた。
つまり。
人殺しなんて可愛らしいとさえいえる。終わる世界を救わなかった。神様を世界から奪い、世界の存続を自分などというちっぽけな高校生ひとりで背負った。世界毒は世界を滅ぼす。だが、並人の選択は世界樹形すべてを消滅させるリスクを孕んでいた。
怪物より遙かに身勝手な人知無能。それが、七曲並人である。
しかも、泣いてかぐやに慰めてもらっていた。
「お前も風吹もそう簡単に人を殺すような奴じゃないってわかってる」
出会って間もないが、それでも分かる。ふたりだけではない。殺すというシオンを殺そうとしたかぐやもだ。
「……私は、自分の願望に従い、世界を作り替え――世界を壊してしまう化物です。そして。私は死の手段を残すため、あなたの記憶さえ盗んだ。これが卑劣でなくてなんでしょう?」
「シオン。ありがとう」
並人はシオンの頭を撫でた。不思議そうにシオンは並人を見返す。
シオンは世界の敵――世界毒だ。殺されそうになって反撃し、世界を均すくらいはまだ可愛いくらいだ。それならシオンを守ってやるだけでいい。問題はシオンが今の世界を認めていないことだ。不幸の闊歩するこの世界を。だから、他者に対して一定以上の慈愛を憶えてしまったとき、彼女は世界を変えようとする。――そう。源泉は慈愛だ。
「僕に、同情してくれたんだな。この記憶を僕から忘れさせて、僕が責任を感じずに生きていけるように。そのおかげで僕は「シオンが世界毒にならないように」なんて簡単な目的意識を持つだけでよかった。だから世界から負の記憶を奪えば、世界がよりよくなるなんて思ってしまった」
記憶を奪うという成功体験。それが、シオンが今、世界毒である理由だ。他者の自己嫌悪に同調し、それ故に記憶を奪いたい。それを、万人に適用したい。だが、それが正しくはないと知りながら、そうすることを止められず、死ぬ手段がシオンにはないために自殺願望を発現させる。
「でも、それが本当に正しいとはシオンだって思っていなかった。だから、死ぬことで防ぎたかった。なのに、風吹を可哀想だと思ってしまったから――」
シオンの瞳が見開かれた。
「違います。私に――そんな権利はありません。私が世界毒になったのは――自分がただの人殺しだと知ったからです」
「そんなの、お前は一度だって忘れたことはないだろう。世界を滅ぼしてさえない癖に、自分の消滅を願うやつが」
もっとも。人を殺したという自覚さえ並人からすれば疑わしいが。
「シオンは風吹を許したかった。救いたかった。――悪い記憶を、全部奪って。だけどそれはできなかった。記憶を奪うというのが、何を意味するか知ってしまったから」
人の改変だ。過去の否定であり、人格の否定でもある。なまじ殺していないだけ質が悪いとさえ言えよう。
「でも、だからこそ僕は揺籃学園にやってこれた。神菜との記憶ごと、シオンを殺せる力を宿して。――ああ、済まない。そして、重ねて、ありがとう」
並人は頭を下げた。
「お前に記憶を盗んでもらえなかったら、僕は壊れていたかもしれない。でも、それ以上に記憶を奪ってもらって――神様になった神菜を忘れたままで、裁葬幕に向き合って、僕はわかったことがある。シオンを殺さずに済んだ。殺さないでも、世界毒を倒せると知った」
シオンを、苦しめていたのは並人自身のの弱さだった。
「もう大丈夫だから、僕はこの記憶をもって、生きていく」
無限分の一の結末。世界が滅びず、神様を必要としないで未来にたどり着くために、並人はできる限りをしようと決めた。
風吹だってそれに賛同してくれた。きっと風吹は、シオンの生存を肯定するだろう。炎群はきっと、妹の言葉に耳を傾ける。並人やかぐやでは信用できなくとも、双子の妹が見て感じて決めたことならば、きっと。
「私を殺してしまったほうが安全だとは思いませんか? 終末の大半は、私が世界を滅ぼしてしまうからかも知れないのです」
シオンが誰かに殺されれば、世界は終わる。その際、並人が毎回あの念動力を止められるかは定かではない。だが、そもそも世界毒でないシオンを殺す理由など最初からかぐやにも炎群にもないのだ。射程範囲が地球全体を覆う超能力者を、無意識下での再生まで追い込める異能者などそうはいまい。
「そんなことはない。それに――シオンがいないと世界を救えないときだってあるさ」
世界全土に影響をもたらす超能力。危険だからとその力を排除することこそ、世界の命運を縮める。
「並人に言われると、そんな気がしてきます」
じわりとにじむように、気落ちしていたシオンの顔に、しばらくぶりになる無邪気な笑みが浮かぶ。釣られて笑顔になるような混じりけのない笑顔だった。
「さあ、戻ろう。風吹とショーコの戦いが本格化してたら止めないといけないし」
そう言うと、シオンは軽やかな声で、「はい」と了承してくれた。