教室に入った並人を出迎えたのは、咲くような少女の笑顔だった。
「おはようございます!」
誰、と並人は一瞬固まった。
蛍光灯の明かりを上等なシャンデリアだと誤認させるような金の髪。触れれば痕が残りそうな雪にも似た白い肌。戸惑う並人が映っているのが見えるほどに透き通る湖面に似た瞳。それはいい。そこまでは認めよう。
金の髪に添えられたホワイトブリム。問題は桜色を基調とした衣装である。発達した胸部にアクセントとしてのリボンが似合っている。短めなプリーツスカートとニーハイソックスの合間にはどちらも不可侵の中立地帯がある。そこでは女性特有の肉付きをした太ももが輝いていた。――メイド服だ。
咄嗟に周囲を見渡す。いたずらな笑顔で眺めているかぐやがいた。他の生徒は大半が揃っているようで、空いている座席はふたつしか残っていない。雑多な髪色と肌の色に対し、男女ともにブレザータイプの制服で統一されている。ローブや詰め襟の学ランなんて空気の読めない格好をしているのはかぐやと並人だけで、もちろんメイド服姿のやつなんて他にいるわけがなかった。
脳内で昨夜の記憶と眼前の少女がようやく結びついた。表情が違う。衣装も違う。テンションマックスの子犬のような挙動で、少女は親しげに話しかけてくる。
「ええと……シオンか?」
シオン。世界を滅ぼす超能力者。並人から記憶を奪った可能性がある世界毒である。
「はいっ!」
頭を振るというより、全身を縦に揺らして彼女は肯定する。シオンの顔が視界を占有する。背伸びして近づいてきたようだ。顔と顔の距離は一センチほど。豊かな胸部が彼我の端境を越え、並人の輪郭に届いている。瞳孔を通して並人の脳髄を観察するように、シオンは並人を覗き込む。それから、また距離を離して、にっこりと笑う。
「よく眠れて、いっぱいごはんを食べたみたいですね!」
「あ、ああ」
確かに並人は登校前に食堂で食事をたらふく食べた。逃げるために、並人は自分の座席を視線で探す。
「並人は窓際の最後列です」
とシオンが手早く伝えてくる。割合人気のあるスポットだ。
「私は中央最前列です」
問題児の特等席だった。
シオンは並人の手を引いて、教室の奥へと向かおうとする。女子に手を握られるなど、久しぶりの経験だ。並人の鼓動はかすかに脈を速めた。
連れて行かれたのは並人の座席。右隣がかぐやの席らしい。かぐやはフードを外すと、笑顔を向けてくる。
「改めておはよ、並人くん」
幼い顔立ちとは見合わない大人びた笑顔だが、朝の教室に見合う爽やかな笑顔だ。
「うん。おはよう。日向さん」
「太陽は嫌い、月が好きね」
「わかった。おはよう、かぐや」
「ぐっ、ちゃんとそっちの「サン」も抜くなんてやるじゃない」
してやられた、という態度のかぐやに、並人はしてやったりと笑みを返した。内心の動揺はそこでわずかに収まった。
「シオンってああいうのが素なのかな?」
シオンに聞こえないように、並人は小声で話しかけた。が、シオンは反応する。千里眼と同じく、彼女には聴力を強化できることを並人は失念していた。かぐやが何事かを独りごちる。すると、淡い緑色をした球状の結界が、並人とかぐやだけを覆った。堂々とした内緒話もあったものである。
「シオンちゃんは死ぬ手段を探してた。あの子には無比の自己再生能力があって、結果、自害する手段がないみたいなの」
昨夜、並人も念動力の圧力で破砕された骨を修復した。完全に無意識での再生だったことを思い出す。無意識での再生が可能となれば、死後、自動的に再生が行われるというのも可能だろう。そりゃあ全能感にだって酔うというものである。
「裁葬幕なら殺せるっていうのか。じゃあ――射程が狭い代わりに、シオンの裁葬幕なら、シオンの再生を妨げて殺せるってことか」
「おそらくそうね。だから、あの子は世界毒ではなくなった。この現状から類推するに、世界毒の判定は特定個人そのものや、力の大小には寄らない可能性が高い。では一番可能性が高いのは?」
尋ねられ並人は思案する。
世界毒。世界を滅ぼす存在。まず、世界を滅ぼすとは何か。世界という言葉は単純だが意義は多様だ。基本的には地球全土だが、宇宙全体を示す場合もあり、状況によっては可能性時空――つまるところのルート分岐さえも内包するパターンもある。それとは別に、人類絶滅を世界の滅びと呼ぶ場合もある。わかりやすいのは最後だ。射程が地球全土のシオンが世界を滅ぼすのなら、人類殲滅は容易だろう。
特定個人を指さないというのは間違いない。何せ、今のシオンは世界毒ではないはずだ。力の大小も同様である。世界を滅ぼせる力を持つことが世界毒の条件なら、今もシオンは世界毒でなくてはならない。
最初に浮かんだのは動機だ。どうやらシオンには自殺願望があるらしい。世界を滅ぼせばシオンが死ねると仮定しよう。なら、動機としては成立しうる。他に死ぬ手段が見つかったから世界を滅ぼす必然性が消えた。
ただ、もっと可能性が高いのは、自殺願望そのものだ。動機以前の願望。つまるところ、感情より原始的な、自らの精神的な立ち位置。
「精神状態かな。自殺願望それ自体が、世界毒に判定されている。手段が僕という外注先が見つかったことで、自殺願望が薄れて裁葬幕のトリガーから外れた」
ぱちぱち、と手を叩いて、かぐやは並人を賞賛する。
「割と頭回るね。オタ偏差値高いのは知ってたけど」
「オタ偏差値ってなんだよ、って言いたいところだが、そのまんまだろうなきっと! 両親が割りとそっち趣味でさ。セカイ系は幼少期から嗜んでいる。いや、嗜みたくなかったよ! ちょっと親しくなった女子に対して、世界より大事に思えるかって自問自答した結果、この年まで初恋できなかったんですけど?」
「良かったじゃん。話が早いしいろいろ現状で役に立ってる。ツッコみ役って大変ね。自分の半生にまでツッコみ入れるんだ」
褒めと呆れと同情を等量混ぜ込んだミックスジュースみたいな表情で、かぐやがぽんぽんと並人の肩を叩いた。
「ともかく現時点ではあたしも精神状態がトリガーだと思う。並人くんに好意を向けてるのはそいうことよ。自決用の拳銃とか毒入りカプセルへの愛着ってすごそうじゃない? 付喪神というか擬人化したのが並人くん」
そう言われるとかなり嫌な気持ちにはなるが、今現在、シオンが世界毒になっていないのならばそれはきっと良いことなのだろう。
「女の子はやっぱり笑っている方がいいな」
「ってことは、くすぐりフェチ?」
「変な噂を流さないでもらえるかな!?」
冗談とからかいを交えて、かぐやは悪戯に笑う。外見年齢に見合う幼い笑顔だ。外見の幼さをうまく利用している。ぱちん、と指を叩くと結界が解かれた。彼女は手招きでシオンを呼び寄せる。
「こうしてると、かわいいわね」
椅子に登って足りない身長を補い、かぐやはシオンの頭を撫でた。シオンは嬉しそうに顔を緩めている。足元を見ると、上履きが転がっていた。かぐやは素足になって椅子に立ったようだ。
変なところで行儀が良いかぐやだった。
「もう少しで授業始まるね。席に戻って待ってよっか」
かぐやに言われ、シオンは名残惜しそうな顔をする。一分一秒でさえもったいなく思っているようだ。
「おいしいものは最初から食べ過ぎると嫌いになっちゃうから。程よい我慢も大事だよ?」
ぽんぽん、とシオンの頭に優しく手を起き、振り返ったシオンの背中を優しく押す。シオンは二度、三度と振り向きながら、それでも自席に戻るのだった。